悪人④

――社会も、教会もだと言う。でも分からない。納得できない。私のどこが悪なの?

 

 家について、家事を済まし、寝る前の手持ち無沙汰の時間を使って考える。


 瞼の裏に小さな星が見えた時に、アルヤは眠りに落ちる。



 海の淵がある。その上に立っている。誰が―? 私だわ。


 その淵を境に濃淡が異なっていた。一方は陰湿でみんなが私に冷たい世界。もう一方は――よく分からない。さっきから周りの声が聞こえている。


――お前はあの世界の住人だ、あそこにいるべきだ、と。


 でも本当に? 分からない、答えが欲しい。ああ、沈む――海の淵が流れ込んでくる。溺れさせようとしている。


 アルヤは助けを求めて鉄の手摺に両手を必死に伸ばした。堅固で頼りがいのある手摺。


 触れた瞬間アルヤはぼんやりと思い出した。


 これは鉄のように硬く、馴染んだ習慣――幼い頃からの洗脳、社会に底流する無形の常識――人間社会が共有している。


 もう一方の、不明瞭な世界から声が聞こえる。

――こっちに来るんだ!

 ダメ、ダメ、ダメ! 行けない。どうして? こんなにも行きたいと思っているのに。


――アルヤ!

 夫が叫んでいる、サブロンが。あなたはどうして、そっちに行く決断ができたの? そこで幸せになれたの?


――手摺に掴まってちゃダメだ!

 鉄の手摺から手を離すのが怖い。最後の勇気が出ない。


 自分を見失うような気がした。


 幼い頃から人の暮らしを見すぎてしまった――仕事、収穫、結婚。それは鉄の習慣になった。


 だからアルヤは淵の中で、ただもがいていた。苦痛の叫びを上げていた。


                   ***


 気が付くとアルヤは子供達と外を歩いていた。汚い路地裏のように見えるし、まだ自分が淵に立っているようにも見える。よく分からない……。


 巨大樹は遥か遠くに見えた。遠い、あまりにも。そこに行く勇気は終ぞ出てこなかった。


 巨大樹は、永遠に解けない問題をアルヤに投げかけていじめる、漆黒の塔のように見えた。


 二人組の男が話しかけて来た。折れ曲がり明滅を繰り返す街灯が淡い橙の明かりを投げかけ、彼らの黒いなめし革のブーツを照らし出した。

 それから上に降りかかりひだ豊かな黒いウールのガウンを捉えた。


 男たちは何ていってるの? よく聞こえない。メオイが怖がって私の後ろに隠れる。汚れたボロ布の衣にしがみつく。


 それを受けてアルヤは無気力そうに、蒼白で、骸骨のような顔を漫然と男達に向けた。

 

 その目は彼らに、非難のしるしも、恐怖のしるしも、いかなるのしるしも送らなかった。


                   ***


 そして母は死んだ。


――さあ行こう! ヤウレも連れて。


 メオイは巨大樹を見る。聖獣様がいる、明るい希望に満ちた未開。ディングアは全てを見抜いている。


――遠くにあるのなら、近づこう。

道は分かる。歩く意志だってある。

咎める者も、人族も、

全て忘れて、やっと思い出した故郷へ――

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悪人 ユキアネサ @bible6666

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