第9話
学生達は夏休みに入り、社会人もお盆休みを中心に夏季休暇を取る季節を前に、英昭のギブスは取れた。
細くなった左手首を洗って、嫌になるくらいの垢を落とした。
他の部分は陽に焼けて黒いが、ギブスをしていた部分は白くて弱々しい。これから暫くはリハビリをしなければならないのが面倒だ。
ギブスで固定している時は、左手を上にあげて指の運動をしたりしていたが、今後は通院しながら関節可動域訓練やマッサージを受けたり、自宅で地道なトレーニングをする必要がある。車の運転が出来るようになるまでには、少なくてもまだ一か月以上は先になりそうだ。
東京にいる元同僚や部下達から夏休みを取って沖縄に行くのでよろしく、と言った連絡がいくつか来たが、英昭は骨折のため車の運転が出来ないから、案内が出来ないと返した。それだったら夜だけ付き合ってくれという誘いがあり、英昭は国際通り近辺の店で、何人かと付き合いで酒を飲んだ。
陽に焼けて黒くなった短髪の英昭を見て、皆一様に驚く。
同僚と三人組で来た沙織にいたっては、会った瞬間から英昭の頭を指さし、大きな口を開けて大笑いした。
更に、英昭の左腕のコントラストを見て「パンダみたい!」と、大はしゃぎだった。
飲んでいる間は、沖縄での生活やお勧めの観光名所と飲食店に関する情報を訊かれ、最後には必ず「東京には帰って来ないんですか?」が定番化している。
「帰っても住むところはないし、仕事もないしね。今はこっちの生活に満足しているから、東京に帰る事は考えていないよ」
英昭はその都度、強がりに聞こえない程度に応えた。
交通事故の直後には無性に帰りたかったのに、体調が回復した今はそんな気持ちも薄れている。
結局、やりたい事や目的がない自分は、その時の気分で考えがころころ変わるんだと英昭は思う。
だが、今はそれで良いと納得し始めている。
やりたい事や目的が明確に意識できるのならそれに取り組めば良いし、それらを見つけることが出来なければ、それはそれで構わないじゃないかと、英昭は半ば開き直りに近い想いになっていた。
自分は六十年以上生きてきた。
嫌なことも、良かったこともあった。
我慢したことは沢山あったが、やりたいことをやったことも、少しはあった。
還暦過ぎまで年齢を重ねて来て、今更自分の性格を変える事は出来ないし、変えようとも思わない。
先の事が全く分からないのに、どんな準備をすれば良いのかを考えるのはナンセンスだ。
健康になりたい、経済的に余裕を持ちたい、生涯の良き伴侶が欲しい……。
人それぞれに望みや希望、期待はあるだろうが、今の自分には、それらを掴み取るために行動を起こすモチベーションがない。
だからといって、投げやりになっているわけではなく、このまま流れの中で出来ることをすれば良いのだと思っている。
長野が言ったように、世間で喧伝される平均的な寿命や、貯蓄額、独居老人の危うさやその対処法……。そんなものには影響されないように、自分のペースで生活をすれば良いと、英昭は思えるようになってきた。
紀之と直美の結婚祝いの食事会は、八月下旬の大安吉日の土曜日にゆいレールの旭橋駅近くのホテルで開催された。
この日の午前中に二人は晴れて入籍をし、集まった二十人程の出席者から温かな祝福を受けた。
英昭も招待され、隆志夫妻や信幸夫妻と同じ円卓で久しぶりの中華料理を堪能した。
紀之の長男と直美の長女の家族も参加していて、各円卓に挨拶を兼ねて参加者のグラスにビールや酒を注いで回っていた。
紀之と直美はフォーマルな格好だが、他の参加者はカジュアルな服装が多く、紀之の長男と直美の長女は親と同様にスーツ姿だ。
沖縄の結婚式は派手な出し物が有名だが、今日の食事会は最初に信幸の挨拶があっただけで余興の類は一切なく、終始和やかな雰囲気で食事会は進んだ。
最後に紀之と直美が参加者全員にお礼の言葉を述べ、やや酔い気味の隆志による万歳三唱でお開きとなった。
英昭にはこれからの二人の平穏で温かな暮らしが容易に想像でき、良きパートナーに巡り会えた紀之と直美を心から祝福した。
沖縄での一大イベントである旧盆が終わり、左手首の状態もかなり良くなった英昭は、彼岸の墓参りや友人達と会うために九月の中旬に上京した。
実家を処分したので、姉の弘子は自分たちのマンションに泊まるように言ったが、英昭は悪友達との飲み会があって深夜の帰宅もありそうなので、値段の安い錦糸町のビジネスホテルを取った。
彼岸入りの日に、松戸にある霊園での墓参を姉夫婦と済ませた後、葛西の姉夫婦のマンションで軽い食事を摂ることにした。
英昭はノーネクタイだが、久々に着ていたジャケットを脱ぎ、これまた久々に着ていた長袖の白いシャツの袖を捲って寛いだ。
その左腕を見た弘子は目ざとく、「あんた、左腕だけやけに白いじゃない。他は漁師さんのように黒いのに。ゴルフ?」と、英昭に訊いてきた。
母親が亡くなったばかりで、心労が溜まっている弘子に心配を掛けたくなくて、英昭は交通事故に遭ったことは姉夫婦には報告していなかった。
「いや、ゴルフじゃないよ。釣りをしていた時に滑って転んで手首にひびが入ったので、暫くギブスで固定していたんだ。今はもう全然大丈夫なんだけど、沖縄の紫外線はハンパないので、ギブスをしていたところだけ白くなっちゃてさ。ギブスを取ってからかなり時間が経っているんだけど、何故か中々黒くならないんだよね」
英昭は左腕を軽く叩いて笑った。
「あんたもいい歳なんだから気を付けてよ。うちらのような老夫婦には、沖縄まで見舞いに行くのは大変なんだから」
弘子は笑いながら言い、横にいた義兄の和則にも「あなたもね」と、念押しをした。
翌日は長野と布瀬川と飲むために、津田沼の中華風居酒屋で落ち合った。
布瀬川とは久しぶりの再会だが、直ぐに以前と変わらぬテンポでの会話となった。
「庄司、お前雰囲気変わったな……。いや、髪型とか色が黒くなったとかじゃなくて、なんか肩の力が抜けているっていうか、ゆったりとしているというか……」
布瀬川がまじまじと英昭を見た。
「なで肩になったってこと?」
「バカ!そんなんじゃないよ……。やっぱり、仕事や東京を離れて暮らすと、そんな雰囲気になるのかね?」
布瀬川が真面目な顔で英昭に訊いた。
「こいつは沖縄ですっかり世捨て人みたいな生活をしているからな。毎日なにが楽しくて生活してるのやら」
長野は言って、へっと鼻で笑った。
「ふん!お前も早く世間体という呪縛から解放された方が良いぞ。沖縄で会った時の表情の方が良かったぜ」
英昭は割箸の先を長野に向けた
「そりゃあそうだ。毎日数字に追われてギスギスした人間関係を続けていたら、こんなご面相にもなるわな」
生ビールのジョッキを空けながら、長野が憤慨した。
「役定なのにそんなにプレッシャーがかかるのか?」
英昭が少し姿勢を正して二人を見た。
「直接じゃないけど、職場の雰囲気から距離を置くわけにはいかないだろ?若い連中が眉間にしわを寄せて打ち合わせをしているのに、その横をお先に失礼って帰るなんて中々出来ないさ」
長野が応え、同意を求めるように布瀬川に顔を向けた。
「七月にホールディングスから来た新社長が暴走気味でね。お前も知っているだろ?竹下のオッサン」
布瀬川は嘆息しながら長野に同調した。
「ああ、あの唯我独尊を絵にかいたような関西弁のオッサンな。何であんなのが来ちゃったの?」
英昭はタバコに火をつけて、布瀬川を見た。
「あれで上には媚びる性格だから、ホールディングスの爺さん連中には受けが良いんだよ。口も達者だしな」
苦虫を潰したように布瀬川が言い、熱々の小籠包を口に入れて顔を顰めた。
「あのオッサンがホールディングスの経営企画室にいたときの、主要事業の中期計画説明会は酷かったぜ。知識もないのにやたらと知ったかぶりをしてダメ出しをするので、それを諭すように反論すると逆ギレしてさ」
当時を思い出して、英昭もビールが不味くなる。
「それが今じゃうちの会社で、毎日がその状態だからな。部門長以上はヒイヒイ言ってるよ。明確なビジョンもなく場当たり的なことばっかりで、とにかく自分の任期中は数字の辻褄が合えば良いって感じでさ」
長野の表情が暗くなった。
「上期は計画割れが見えているから、取りあえず不採算部門の立て直しだなんて言って、結局は人員整理を含めたリストラが唯一の策だなんて、アホみたいなことを今週の経営会議で演説していたからな。もう滅茶苦茶だ」
布瀬川が愚痴っぽい事を言うのは珍しい。
英昭は辞めたとはいえ、長い間お世話になった会社の行く末が心配になって来た。
「布瀬川はどうなのよ?他の取締役達とホールディングスの爺さん達にご注進とかしないの?」
英昭は心配顔で訊いた。
「お前も言っているように、あのオッサンは唯我独尊だろ?しかも一緒に連れてきた取締役の島田っていう腰巾着がスパイさながらに俺達プロパー役員の監視をしているから、中々動きが取れないのが現状だ」
今度は揚げたての春巻きにかぶりつき、熱々の餡が口の中で飛び出したのか、目を白黒させながら言う布瀬川の言葉に長野も横で頷いた。
「そうなのか……。長野を含めて俺達の同期は来年の三月で出所しちゃうし、布瀬川は大変だな」
英昭は孤軍奮闘中の布瀬川に心から同情し、ついでに口の中の火傷を心配した。
「社内に相談相手がいなくなるのは辛いよな。でも毎日頑張っている社員がいるから、イチ抜けたってわけには中々いかないしな」
布瀬川は吐息と一緒に、口の中の熱を吐き出した。
「結局は価値観というか、その実現の仕方なんだよな」
英昭が呟くように言うと、「何それ?唐突に」と、長野が英昭を見た。
「いや、今ふとそんな感じがしたんだ。ただそれだけで、別に意味はないよ」
英昭は余計なことを言ってしまったと後悔した。
「だからどんな感じなんだよ?」
長野は絡むような口調になった。
「なんて言うか、俺にもうまくは言えないんだが、人それぞれに価値観ってあるだろ」
英昭の言葉に長野は直ぐには反応しない。
布瀬川は口中を冷やすためにジョッキのビールをチビチビと飲んでいる。
英昭はタバコを一口だけ喫って続けた。
「会社っていうか組織は、ある程度価値観を共有できるだろ?」
英昭は長野の機嫌を損ねないように、低姿勢で語りかける。
「当たり前だろ、利益が出ないとアウトだからな。企画から開発、営業とアフターセールスサービス。それに経理やら人事総務やらのスタッフ系を含めて、社員は百も承知だろうが」
長野は英昭の言葉を、一刀両断にした。
「だから、俺はある程度って言っただろ。社員全員が納得しているわけではないからな。俺だって会社にいた頃は最終的には利益を出すために働くんだけど、施策の決定過程や方法論に対して、百パーセント納得したことは一度もないよ」
英昭も少し話し方のトーンが上がってきた。
「お前は昔から天邪鬼だからだよ。遊びの時とかは自分の意見を言わないのに、仕事となると上司や先輩に逆らってばかりだ。な?布瀬川」
二人のやりとりを聞いていた布瀬川は長野の急な振りに一瞬戸惑ったようだが、麻婆豆腐をビールで流し込んでから、しわがれた声で会話に参加した。
「でも、庄司は筋が通っている場合が多かったぜ……。だから余計に上から睨まれたけどな」
「そう、俺はそれを言いたかったんだ。正しいかもしれないが、上には上の事情ってものがあるだろう?分かり切っている筋論をみんなは飲み込んでいるのに、こいつは予定調和を壊すようなことを時々言うんだ」
長野がジョッキを握っていない左手の人差し指を、英昭に向けて上下にせわしなく動かした。
「お前、いつの話をしてるんだよ?そんなのほんの数回だろ。俺だって管理職になってからは、上に対する接し方は百八十度近く変えたつもりだけどな」
憮然とした表情で、英昭が抗議した。
「いや、それはお前の主観だね。お前の本質は辞めるまで変わっていなかったよ。こう言っちゃなんだけど、俺達同期の中でお前と布瀬川は常に先頭を走っていたからな。でもお前はその性格が災いして……」
長野が一旦言葉を途切り、ビールで喉を湿らせてから続けた。
「つまり、本来なら布瀬川とお前のツートップで会社を引っ張れたのに……。なんか斜に構えている感じでさ、それが先輩や上司から疎ましく思われた時もあるんだぜ」
長野にしては珍しく言葉を選んだように、英昭には見えた。
英昭は会社の現状に意見をするつもりで価値観を話題にしたわけではなかったが、思わぬ方向に話が進んでしまい戸惑いを覚えた。
基本的には会社を辞めた輩が自分のいない会社の現状に対して、軽々に口出しをするのは良くないというのが英昭の考えだ。
「長野、話が変な方向に行っちゃってるんだが……。俺が言いたかったのは、価値観は人それぞれで違うのは当然で、それに関して俺は何も文句はないし尊重もするよ。ただ、そいつの価値観を押し付けられるのは嫌だし、俺の価値観を誰かに押し付けたくはないってことなんだよ」
宥めるように言う英昭に、長野は「で?」とだけ言う。
「だからさ、俺も会社とか組織とかって言っちゃったからいけないんだけど。結婚を例にすると少し分かりやすいかもな」
英昭は、久しぶりにクレーム対応をしていた時を思い出した。
「なんだ、急に結婚って?」
長野がテーブルに肘をついて、英昭を睨んだ。
「だからさ、結婚前は好きだのなんだの言って一緒に居たい、子供を作って家買って笑顔の絶えない家庭を築きましょうっていうようなことを、二人で共有するだろ?」
英昭は揉み手をしそうな勢いで長野に話しかけた。
布瀬川はそんな二人のやり取りと、熱々の五目焼きそばを肴にいつの間にか注文した紹興酒を飲んでいる。
「で?」
先程よりは長野のキーが上がってきている。
「でもな、一緒に暮らし始めると細かい価値観の違いというか、生活の仕方って違ってくるよな?飯の食い方、トイレの入り方、風呂の入り方、掃除の仕方。それからエアコンの温度の違い、寝るまでの手順、起きてからの手順。数え上げたらきりがないくらいだよな」
英昭は指を折りながら話しかけた。
「まあな」
長野の口から出てくる文字数が増えた。
「それから出産となるわけだ。ここからはお互いの価値観というか方法論が決定的に違ってくる。旦那は子供が出来たのでより稼ごうと仕事を頑張る。だが、カミさんは家庭が一番大切で、子供第一主義になる。結婚前に共有した価値観との相違はないのに、それぞれ注力する方向が違ってくるだろ?」
長野の表情の変化を見て、英昭は手応えを感じた。
布瀬川はこの場はお前に任せた、といった感じでメニューを見ている。
また熱々の食べ物を頼むのかと、英昭は呆れる思いで布瀬川をチラッと見た。
「そうなんだよな……」
長野の話す文字数が確実に増えている。長野は不機嫌になるとぶっきらぼうになるが、機嫌が直ると口数が増えるのを英昭と布瀬川は十分に知っていた。
「お互いに良い家庭を築きたいという価値観は同じでも、その具体化や方法論みたいなのが違ってくるんだよな。しかも家庭のリーダーシップはカミさんが取っている場合が多いから、いきおい旦那に対する攻撃というか、カミさんの価値観の押し付けが激化するわけだ。やれ子供の面倒を見ろ、もう少し遊んでやれ。外で酒ばかり飲むな、休みの日にゴルフだなんだと外出しないで家の用事を手伝え。私一人がなんで苦労しなきゃいけないんだ、なんてな……」
まくしたてるように言って、英昭はぬるくなったジョッキのビールを飲み干した。
それを見て、長野は自分と英昭のビールの注文をした。
「旦那にしてみればたまったもんじゃないよな。会社に行けば嫌な上司に従い、家に帰ればカミさんに疎ましく思われて、休息できる場所が何処にもない状態になるよな」
英昭はため息交じりに言って、上目遣いに長野を見た。
「お前のカミさん、結構キツかったからな」
長野は不機嫌から脱しつつあるようだ。
「俺のところばかりじゃないぜ。お前のところだって、布瀬川のところだってそんなに大差はないだろ?いつの間にか夫婦間でどちらが正しいのか、どっちが勝っているとか……。家庭内の問題に対して本来なら夫婦二人で考えなきゃいけないのに、カミさんは主導権を握りたくなり、亭主を服従させるようになるからな」
英昭はここで一息を入れるために、布瀬川に顔を向けてバトンを渡した。
「確かにうちも似たり寄ったりだよ。特に俺は海外での仕事が多くて家にあまりいないので、余計に風当たりが強かったな。ご機嫌取りのつもりで買った海外のお土産を渡すと、いいわねー、いろんなところに行けて。私なんか秋田の実家にも中々帰れないのにって嫌味を言われたからな」
奥さんの文句の箇所は高いキーで言って、布瀬川は首をすくめた。
「うちもそうだったな。会社には遊びに行ってるんだろって言われ方をしたからな。同じ会社にいたのに、全く理解しようとしなかったもんな」
長野がここまでの台詞を言うようになればもう大丈夫だと、英昭と布瀬川はアイコンタクトで確認した。
「そうだろ?会社では上司の価値観やあるべき姿。家ではカミさんの価値観やあるべき家庭像を押し付けられて、日本のサラリーマンは可哀想過ぎるよな……。つまり、俺が言いたかったのはそういう事で、相手の事情も知らないというか、無視して自分の価値観や考え方を押し付けるのは良くないってことさ。もう俺達も還暦を過ぎたんだから、変な価値観や意見の押し付けには抵抗しても良いし、逆に誰かに押し付けるようなことは決してしないようにしなければと思っただけ」
新しくきた冷たいビールを飲みながら、英昭は結論付けるように言った。
「沖縄の友達とかは、そういうのいないのか?」
布瀬川がボソッと訊く。
「そうだな、もう一年近く付き合っている友達からは、そんな風に感じたことはないな……。誘われても行きたくない場合は、変に言い訳をしないで素直に今日はパスって言うと、そうねー、じゃあまたねーって感じだな。酒を飲みながらいろいろな話題になるけど、俺はこう思う、お前の考えはおかしい、なんて議論になったこともあまりないしな。もちろん、俺が本土から来た人間っていうのもあるかもしれないけど」
英昭は隆志や紀之達の顔を思い浮かべた。
「南国ってイメージ的にもそんな感じだよな。決して他人のテリトリーに土足で入るような事はしないっていうか、他人に干渉しないで自分のペースで暮らしている。良い意味でのマイペースかな」
長野の機嫌は直ったようだ。
「そうかもな。もちろん、沖縄にだってお節介焼きや他人への干渉が過ぎる人もいるだろうし、東京にだって他人に干渉せずマイペースな人はいるさ。でも、東京の場合は、どちらかというと無関心なマイペースなんだな。自分も干渉しない代わりに、他人も関わってくるなみたいな冷たさを感じるよ。そこが沖縄とは違うところかもしれないな」
そう言いながら、英昭は沖縄の広くて青い空と透き通った海を思い浮かべていた。
現役の二人に明日は重要な予定がないとのことで、三人は布瀬川の行きつけのバーに河岸を移すため、居酒屋を出た。
長野が一軒目の店で英昭に絡んだのは、長野自身もあと半年で長い会社人生にピリオドを打つ一抹の寂しさの現れだと英昭は思う。
人生の大半を会社中心に生きてきて、それがプッツリと途切れる不安は先に経験している英昭には十分に理解できた。
英昭自身も早期退職が認められた時には、やり残した事や、あの時はああすれば良かったなど、後悔する事ばかり頭に浮かんだ。
そして、それらから解放される安堵感と同じくらいに、足場を失う不安感を覚えたものだ。
それぞれの飲み物が届いて仕切り直しの乾杯の後、英昭の沖縄での生活が話題になった。興味深く聞いていた布瀬川だったが、現実の仕事の重圧が相当キツイらしい。
「俺も沖縄にでも行ってみるかな……。下期も明るい展望は見えないし、一度リフレッシュしなければ精神的に持たないよ」。
普段あまり弱音を吐かない布瀬川に、何のアシストも出来ない自分を英昭は情けなく思うが、こればかりは本人が解決するしかないのだろうと思う。
そこで、少し明るい話題に変えようと、英昭は長野に軽い復讐をする。
「おう、いつでもウエルカムだ。今のお前には息抜きが必要だよ。休むのも仕事の内さ、是非奥さんと来いよ。沖縄に来ると夫婦仲が良くなるらしいから、な?長野」
英昭は長野を見て、意味深に笑った。
「沖縄と夫婦仲にどんな関係があるんだ?」
布瀬川が英昭の言葉を訝る。
「それは、経験者の長野から聞いた方がいいぜ」
タバコの煙を吐き出しながら、英昭は悪戯っぽく笑った。
「庄司!お前、なにを言い出すんだ!布瀬川、こいつの言うことを真に受けたら駄目だぞ!こいつは六十年間一度もホントの事を言ったためしがないんだからな!」
顔を赤くして長野はまくし立てた。
「長野、どうした?何か沖縄であったのか?そう言えば、お前、去年の夏に奥さんと沖縄に行ったんだよな。そこで奥さんとなにかあったのか?」
布瀬川も吹き出しそうになりながら、長野を揶揄った。
「うるさい!庄司、お前とは絶交だ!一年前の事をネタにするなんてお前は最低だ!」
長野の狼狽える様を見て英昭は留飲を下げ、手を叩いて大笑いした。
翌日は吉田を含めた高校時代の友人達とミニクラス会を行い、英昭は短い東京での滞在を終えて那覇空港に着いた。
ちょうど去年の今頃、成田空港とゆいレールで会った京子と二人で〈青空〉に行った事が、もう遠い昔のことのように感じられる。
九月の沖縄はまだ夏真っ盛りだ。
英昭は帰って来た翌日に三か月ぶりに車を運転した。事故で自分では運転はできなかったが、十二か月点検時に隆志の運転でディラーに行ったりして、時々エンジンをかけていたので車は快調だ。
慎重に運転して、宜野湾市にある量販店の駐車場に車を止めた。
久々に必要な物を買い揃える行為に、英昭は少し気持ちが弾んだ。
部屋に戻り、買って来たものを所定の位置に整理していると電話が鳴った。着信の表示を見ると紀之からだ。
紀之と隆志は、LINEはもちろんメールの類を一切やらず、電話のみだ。
何度かメールの利便性を英昭は説明したが、二人共電話の方が早いと譲らない。
「庄司さん、もう那覇に戻った?」
「うん、昨日戻ったところ」
掛時計で六時を少し回っているのを確認して、英昭は応えた。
「夕飯、どうするの?用意していないのなら店に来なよ。腹に溜まるようなものを直美が作って持って来るからさ」
紀之の亭主ぶりも板についてきたようだ。
「そう?じゃあ、お邪魔しようかな。隆志さんは?」
「隆志は、今日は
電話の向こうで紀之が笑った。
「俺はそこまで付き合えないけどね。もう店にいるの?」
「俺はね。直美は家で仕込みをしてからだから、七時半頃に来れば?」
「了解、腹空かして行くよ。じゃあ!」
英昭は電話を切った。
五日間不在にしていただけだが、紀之の声を聴いてホッとしている自分に英昭は気がついた。
いつの間にか沖縄は自分の居場所になっている。
深く考えもせずに転居してきたが、自分を受け入れてくれる人がいて、自分もその人達の変化を身近に感じる事が出来るようになってきている。
紀之や直美、隆志や信幸も、英昭の変化を見守ってくれていると思う。
狭い範囲のコミュニティだが、その一員でいられることに英昭は十分に満足できている。
生まれ育った東京とは全く違う環境の中で暮らしている確かな手応えを感じて、英昭は穏やかな気持ちになっていた。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
暇つぶしになって次回も読んでみたいと思っていただけましたら、励みになりますので、ハート・星・フォローをお願いします。
他に【シンビオシス~共生~】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご一読いただけたらと思います。
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