第7話

  四月に入り、沖縄はシーミー(清明祭)が終わって、穏やかな気候で過ごしやすい季節になった。

 ある夜、いつものように英昭の部屋で、京子とビールを飲みながら寛いでいると、京子がゴールデンウイーク明けに、五日間程東京に帰るという話をしてきた。

「昨日、弟の結婚式があるので休暇をお願いしたら、薬局のバアさんに凄く嫌な顔されちゃった」

「弟さん結婚するの?そりゃあ良かったな。おめでとう」

 英昭は薬局のオバさんの話は無視して、京子の弟の結婚を祝福した。

「本人も四十歳になる前にゴールインしたかったみたいだから、良かったんじゃない。その代わり、今度はあたしが両親から責められる立場になっちゃって……」

 京子自身の話になりそうなので、英昭はアーモンドを口に放り込みながら、「相手はどんな人?」と、話を元に戻した。

「以前同じ会社にいた子で三つ下だって。今は違う会社に勤めているけど、付き合い始めたのは前の会社にいたころからみたい」

「会ったことあるの?」

「ないない、去年帰った時はそんな話出てなかったもん。年明けにLINEで五月に結婚式を挙げる予定なので日取りが決まったら連絡するって来て、一昨日招待状が届いた」

 京子は右手を顔の前で振った後、両手の指で招待状の形を表現しながら続けた。

「親はあたしに、式の前より早めに帰って来いって言うけど、そんなに長い休暇が取れないので、式の前日の土曜日の夕方の便で行って水曜日の夜に帰る予定にしたよ。そのたった月曜から水曜日までの三日間、しかも弟の結婚式に出るための休暇願いなのに、あのバアさんに嫌な顔されちゃてさ。ちょっとムカついた」

 京子が真剣に怒るのは珍しいが、先月末で退社した前の上司は気さくで面倒見が良く、京子は信頼していているだけではなく、好感を持って接していたらしい。

 その後任のオバさんは前の上司とは真逆で陰険らしく、和気あいあいだった職場の雰囲気が最近悪くなっていることは、英昭は何回も聞かされていた。

「まあ、新任の管理職って妙に張り切ることがあるもんだよ。ある時期が来るとチームの雰囲気を察して歩み寄ってくると思うけどな。特にベテランの京子には相談してくるよ」

「冗談じゃないよ!絶対に無理!みんな毛嫌いしているから、そのうち何人か辞めちゃうかもよ」

「そんなに酷いんだ。でも職場の雰囲気が悪くなると、その上が気づくと思うんだよね……時間がかかるかもしれないけどな」

「正直あたしでも辞めたくなるもん。夏まで持つか分からないよ」

「今度の東京で気分転換してきなよ。友達にも会うんだろ?」

 憤慨してグラスのビールを一気に呷る京子を見て、英昭は宥める口調になる。

「火曜日に会社時代の同期と会う予定。みんな結婚しているからランチだけどね」

 京子は少し寂しそうな表情をした。

「思いっきり愚痴って来ればいいさ。空港の送迎は任してよ。お土産は……無事に那覇に帰って来ればいいよ」

「空港の送り迎えしてくれるの?さすがヒデ!優しいんだから」

「期待してたくせに」

「まあね!」

 少し機嫌が直った京子を見て、英昭は何故かアルバムに写っていた弟の先輩で京子の元カレの顔が突然頭に浮かび、鳩尾辺りがチクっとした。


 明日は夕方の五時過ぎに家を出れば間に合うかなと考えながら、英昭が京子の登場する飛行機の到着時間を確認していると、突然スマホの着信音が鳴り出した。

 姉の名前が表示されている。

 まだ夜の九時前だが、英昭は嫌な予感がした。

「あ、私……今大丈夫?」

 少し慌てたような声で、電話の向こうから弘子が話しかけてきた。

「大丈夫だけど、何かあった?」

「お母さんが危ないのよ……。今、旦那と病院に着いたところ。夕方に施設から電話があって、直ぐに病院に行ってくれって言われて慌てて来たんだけど……。詳しい話はまだ先生からは聞いていないんだけど、この二・三日がヤマだって言うの」

 やはり、良いしらせではなかった。

 去年、東京に帰った時にある程度の覚悟はできていたつもりだが、英昭は胃に鉛を飲み込んだような気持になった。

「かなりマズいのか?」

「介護士さんが言うには、今日は昼ごはんをあまり摂らないで横になりたかったみたいなので、そのまま寝かせたんだって。心配だから時々部屋を覗いたら寝ていたようなんだけど、夕飯の時に呼びかけたけたら全く反応がなく、意識がないので救急車を呼んだみたい」

「そうか……今日は無理だから、明日の早いフライトを取ってそっちに行くよ。時間が分かったら連絡する」

「そうしてちょうだい。今日は大丈夫みたいだけど、私は病院に泊まるから何かあったら連絡するわ」

「無理するなよ。義兄さんにもそう伝えて」

「わかったわ、あんたも気を付けて」

 英昭は電話を切って、パソコンで航空券のチェックをする。

 ゴールデンウイーク明けで、各航空会社共に空席があった。

 朝一番のフライトを予約したので、浦安の病院には昼過ぎには行けるだろう。

 弘子には病院内ということもあり、電話ではなくショートメールでその旨を送った。

 京子には母親の状態が深刻なので取りあえず東京に行くことになり、明日は迎えには行けなくなったと、LINEで伝えた。

 そう言えば、京子からは土曜日に実家に着いたという連絡を貰ったが、それ以降音沙汰がないなと英昭は気付いた。

 土曜日に京子を空港に送った後、隆志と紀之と飲んで、翌日は隆志や長嶺と一緒に瀬長島で釣りをしたりして遊んでいたので、あまり気にはしていなかった。

 だが、明日帰ってくるというのに京子から連絡が無いのは様子が変だ。

 荷物をパッキングしシャワーを浴びてからスマホを見ると、弘子から気を付けて来るように、というショートメールが届いていたが、京子からの返信はなかった。


 成田空港に到着してから、英昭は弘子に電話を入れた。

 まだ母の意識が戻らず、担当医からはかなり危険な状態だと弘子は告げられたようだ。

 寝不足だけではない憂鬱な気分で預けた荷物をピックアップし、着用することがなければ良いと思わずにいられない、黒のスーツがが入っている衣装ケースも持って、第二ターミナルまで歩いてから京成電車に乗り込んだ。

 浦安駅に着いた時に京子からのLINEの着信音がした。

 これから実家を出て、成田空港に向かうところだが、お母さんは大丈夫かといった内容だ。

 結婚式のことや連絡がなかったことを訊こうと思ったが、母親が危篤状態の時に相応しい話題ではないし、京子も感想を話す気にはなれないだろうと思い、『迎えに行けずゴメン』と送信した。

 京子からは『お大事に』という、アザラシのキャラクターのスタンプが届いた。

 

 母親は翌日の朝、ひっそりと消えるように息を引き取った。

 覚悟をしていたからか意外と平静に担当医の説明を受けることができた。

 姉の弘子は二晩病院に泊まり込んだ疲労はあったが気丈に振舞っていて、義兄の和則だけが、指で涙を拭っていた。

 それから葬儀の手配と並行して、病院と介護施設の手続きなどで翻弄される中で、通夜を迎えた。

 元々父方の親戚とは付き合いがなかったので、近親者だけでの家族葬にした。

 遠方からは母親の妹家族が仙台から参列した程度で、参列者は少なかった。

 英昭は会社時代の知り合いに連絡を取らなかったが、高校時代からの親友の吉田には葬儀の連絡をした。

 吉田は高校時代に頻繁に英昭の家に泊まりに来ていて、母親とも親しく話をしていた時期がある。

 焼香を終えた吉田を通夜振舞いの席に探しに行ったが、母親と姉夫婦の知り合いの年配者が数人ビールを飲みながら鮨をつまんでいるが、吉田の姿はなかった。

 

 葬儀が済んでからは、しなければならない事が山積している。

 長男の自分が沖縄に帰って姉夫婦だけに任せておけない状況で、当分那覇には帰れそうもなく、東京に長期滞在することになりそうだ。

 京子には簡単にLINEで状況説明をしたが、かなり遅れてきた返信は、『身体に気を付けて』という短いコメントだけだった。

 実家の処分や納骨を含めた寺との遣り取りでは義兄の和則に助けられた。

 お陰で英昭は、夜は比較的自由な時間が持てるようになり、東京の友人達と会うことが出来た。

 奄美・沖縄地方の梅雨入りのニュースをテレビで知った日の夜、英昭は浅草に出かけた。吉田とは前回の帰京の際にも飲んだが、今回は通夜の参列のお礼の意味も込めて、しゃぶしゃぶ屋に席を設けた。

「落ち着いたのか?」

 吉田は高校を卒業してから服飾デザインの専門学校に進み、子供服中心のデザインをしている。

 決して若作りではなく年齢に相応しいファッションは、英昭のようなダサいオッサンとは違う洗練された着こなしである。

「いや、まだドタバタしているよ。義理の兄さんが手伝ってくれるので助かっているけどね」

「この後どうするんだ?こっちに帰ってくるのか?」

 見事な霜降り肉を一口食べながら、吉田は労わるような口調で英昭を見た。

「それはないよ。諸々の手続きやすることをしたら沖縄に帰るよ」

 英昭は、久しぶりにゆったりと食事が楽しめる気分になっている。

「そんなにいいところかねー?なんか似合わないんだよな。お前と沖縄」

「なんで?」

「なんでって、特に理由はないけどさ。お前が東京から離れて、自然に囲まれて独りで生活している画が想像できないんだよな」

「那覇は都会だぜ。それに友達も出来たから独りってわけじゃないし」

 禁煙の店でタバコが喫えないので、ビールのグラスを口に運ぶ頻度が増える。

「彼女は出来たのか?」

 吉田も愛煙家なので、飲むピッチが普段より早い。

「彼女らしきものはね」

 ポン酢に付けた豆腐を頬張りながら、英昭は京子の存在を消極的に認めた。

「本当にそっち方面はマメだな!まだ一年も経っていないのに……。どんな女だ?いくつ?沖縄生まれか?きれいか?」

「なんだよ、お前はレポーターか!」

 吉田が霜降り肉を鍋に入れ過ぎで、せっかくの肉が固くならないかと心配しながら英昭は返した。

「だって、興味持つだろ?付き合っていた女を捨てて沖縄に逃げたと思ったら、もう新しい女がいるなんて、どうなってんだ!」

 吉田だけには有香里を紹介していて、数回一緒に飲んだことがある。

「バーカ、捨てたんじゃないよ。捨てられたんだよ」

 タバコが喫いたくなったが、英昭は代わりにネギを口に入れた。

「お前なー、本当は口止めされていたから言わないつもりだったけど、女が出来てはしゃいでるお前を見たら気が変わった」

「なんだよ口止めって?しかも喪中の俺がどうしてはしゃいでいるんだよ!」

 お前が灰汁を取れという意味で、英昭は灰汁取り網を顎で指した。

「四月だったかな……いや、三月の下旬だ。彼女から電話を貰った」

 鍋に視線を落とし、灰汁を取りながら吉田が呟くように言った。

「彼女って?」

 英昭は有香里のことだろうと思ったが、一呼吸入れる。

「村岡さんに決まっているだろ!はるか昔に離婚した奥さんが、今頃俺に連絡して来るわけがないだろ!」

 結婚式の司会をしてもらったので、英昭の別れた妻のことも吉田は知っている。高校入学以来四十五年以上の長い付き合いだ。

「どうしてお前に連絡して来たんだよ?大体お前の連絡先をどうやって調べたんだ?」

「初めてお前に紹介された時、彼女に名刺を渡したろ?名刺には会社で使っている携帯の番号も書いてあるからな。いきなり知らない番号から電話がかかって来たから出るのをよそうかと思ったんだが……」

「出なければ良かったのに。墓とか金融商品の怪しい勧誘の電話が多いじゃん」

「まあな。でも一応出てみたら、お久しぶりです、村岡と申しますが吉田さんでしょうかって……。俺、お前の彼女の苗字が村岡っていうの覚えていなかったから、勧誘だったら即電話を切ろうと考えながら、用件は?って聞いたわけさ」

「何の用件だって?」

 ジョッキのビールで口を湿らせた英昭に、灰汁を取り終えた鍋に肉を泳がせながら吉田は続けた。

「お前がどうなっているかの確認に決まってるだろ!」

「何で俺に連絡しないで、お前にそんな事聞くんだよ?」

「そんなの知るかよ!彼女が知っているお前の友達って、俺しかいないからだろ」

「一応取引先の関係だったからお互いの会社関係者には知られたくないっていうのが、暗黙の了解事項だったからな。でも学生時代かなにかの話の時に、お前の事を話題にしたら、一度会わせてくれって言うから紹介したんだよ……。それで、どんな事言われたんだよ?」

「だから、お前の消息だよ……。消息不明ってことにしても良かったんだけど、お前達の別れた原因とかよく分からないし、お前に連絡しないで俺に電話して来たってことは、余程のことなんだろうなと思ってさ」

「去年飲んだ時に、別れた理由を言わなかったっけ?」

 英昭は声のトーンを下げた。

「彼女が沖縄に行きたくないって言うから別れたって、それだけだったろ……。ワイン飲まない?」

 一呼吸入れる感じで、吉田が飲み物のメニューを見た。

「おまえの分だけ頼めよ。俺はビールでいい」

「じゃあ俺もビールのお代わりでいいや」

「それで?……しかし、全然話が進まねーな」

 呼出しボタンを押しながら英昭が苛立つ。

「お前が話の腰を折るからだよ!」

 注文を取りに来た店員が来たので、席を離れるまで吉田は沈黙した。

「でな、お前が沖縄に行ったのか、それとも東京に残っているのかと訊かれたから、正直に昨年の夏に那覇に引っ越しましたよと言ったら、そうですか、突然の電話でご迷惑をおかけしました、ありがとうございましたって」

 店員の後姿を見送りながら吉田は続けた。

「それだけ?」

 拍子抜けした表情で英昭は言た。

「そう、そんだけ。あと、電話があったことは内密にって」

「もったいぶって言うから、ドキドキして聞いていたらそれだけかよ!お前からは何か訊かなかったのかよ?」

「俺がお前の元カノになんの質問をするんだよ!お元気ですか?新しい彼氏は出来ましたか?今お幸せですか?とか訊けっていうのか!」

「そんな事じゃなくって、なんで今頃、俺の消息を訊いて来たんだとかあるだろう!」

「そんな立ち入った事訊けるかよ。お前達の痴話喧嘩だか別れ話に首を突っ込む程、間抜けじゃねーよ。お前が香港に赴任している時だって、前の奥さんからお前の浮気の相談受けたことあったけど、その時だって俺は中立だったからな」

 吉田はついでといった感じで、さらりと言った。

「なに!浮気の相談を受けてたのかよ?」

 英昭にとっては衝撃的な話だ。

「あれ、言ってなかったっけ?お前が浮気していて、香港では女と一緒にいるんじゃないかって疑って、俺なら知っているんじゃないかと、いろいろ訊いてきたよ」

「聞いてないぞ!お前、なんて言ったんだよ?」

「だから、俺が知っているだけでも三人の女がいるってさ……」

 吉田は悪戯っぽく笑った。

「バカヤロー!そんなにいたかよ。そりゃあ遊び程度はあったけど、それだって二人だよ」

英昭は指をVサインにしながら言った。

「大して変わらないだろ、アホかお前は!それに俺が奥さんにそんな事言うわけないだろ。こっちまでとばっちり受けちゃうよ。だから庄司はああ見えて、そんな事が出来る程器用じゃないし、しかも昔からビビりだったので大丈夫ですって話した記憶がある」

「なんで今まで黙ってたんだよ?」

「俺の中ではお前に言ったつもりになっていたけどな……。言ってなかったとしたら、お前が香港にいたからだろうな。当時はメールなんてそんなにしてなかったし。それにお前達夫婦の問題に口を挟んでも、碌なことにならないって本能的に知ってたのかもな。村岡さんとのいざこざと同様にな」

「別にいざこざじゃあないけどな……。でもいろいろと迷惑をかけたみたいだから、それについては申し訳ない」

 英昭は素直に頭を軽く下げた。

「あれ、意外と殊勝だな。まあ、付き合いが長いからな。俺もお前には面倒をかけたことがあるからいいんじゃねーの」

 吉田は、ジョッキを掲げて照れくさそうに笑った。

 二人は浅草から門前仲町に移動し、富岡八幡宮近くにあるバーで飲み直しをした。

 バーでタバコを喫いながら軽く飲んでから、地下鉄で行徳駅迄帰る吉田と東陽町駅で別れた。

 葬儀の間、仙台の叔母家族が泊まっていた実家に帰ると、線香の匂いが残っていた。

 父親の仏壇に母親の遺骨が置かれているので、夕方に弘子が来たのだろう。

 英昭は手を洗ってからロウソクに火を灯し、線香に火を移してから手を合わせた。

 シャワーを浴びてからベランダに出てタバコに火をつける。

 有香里は何故今頃になって俺の事を吉田に訊いて来たのだろう?

 連絡を取らなくなって一年半以上は過ぎている。

 有香里に何かあったのか、それとも有香里の家族とか会社関係なのか……。

 それにしても直接自分に連絡をせず、数回会っただけの吉田にコンタクトをしてきた理由が分からない。

 英昭はタバコの煙をくゆらせながら、取り留めもない想念が頭に浮かぶままにする。母親のこと、これからの手続きなどのスケジュール、有香里のこと、沖縄に帰ってからのこと、そして京子のこと……。

 このところ、京子からは連絡が一切ない。

 LINEを送っても既読にはなるが返信がない。

 弟の結婚式で何かあったのか、実家の両親から何か言われたのか、勤め先の上司と揉めたのか……英昭にはサッパリ分からない。

 当初は半月位で沖縄に戻るつもりでいたが、実家の処分や納骨もあるので当分沖縄には帰れそうもない。

 合鍵を渡している京子には郵便物の確認や、どうでもいいことだが観葉植物の水やりなど頼みたいこともあるが、今の状態ではそれも頼めそうにない。

 何度か電話をしようかとも考えたが、漠然とした不安が英昭を躊躇させた。

 連絡をしてこないという事は、決して良い状況ではないのは明白だ。

 まだ二・三週間は帰れそうもなく、解消されることのない煩悶はしばらく続きそうだ。


 納骨式は姉夫婦や石材店、お寺と相談して、葬儀同様に近親者だけで四十九日を待たずに済ませた。

 実家の処分は和則の知り合いの不動産屋に委託することで話がまとまった。

 その他の細かい案件の見通しも立ち、当座は英昭が東京にいなくても不都合がない状況になったのは、関東地方の梅雨入りのニュースが報じられた日だ。

 英昭に残された雑務は、実家の不用品の整理程度になった。不要品買取り業者と連絡を取り、四日後に業者が来ることになったので、英昭はその翌日の那覇行きのフライトを予約した。

 結局一か月半近くの東京滞在となり、沖縄を懐かしく思う自分が不思議だ。

 もちろん、それは京子の存在が大きいのは明らかだが、最近連絡が来ないのは気がかりだ……。

 不用品買取り業者が手際良く荷物を運び出した空虚な部屋を、英昭は頭に刻み込むように見回した。

 カーテンのない部屋に容赦なく梅雨晴れの陽射しが差し込み、所々に陽に焼けずに元の色調を残した壁や畳が、英昭を物哀しい気持ちにさせた。

 このマンションを父親が中古で購入した時には、英昭は既に会社の寮に入っていた。

 その後結婚したため、このマンションで生活をしたことはほとんどなかった。

 それでも休日には泊り掛けで両親の顔を見にきたという口実で、食べなれた母親の手料理を時々食べに来た。また、都内で飲み過ぎて、千葉にある寮に帰れない時にもよく利用させてもらった。

 結婚前の元の妻をリビングで両親と弘子に紹介もしたし、子供が出来てからは姉夫婦に子供がいなかったこともあり、頻繁に孫の顔を見せに来た。

 思えば弘子と英昭という子供たちがいない中、両親は夫婦二人だけでこの部屋で暮らしていたのだ。

 無口で無骨な父親と、話好きでじっとしていることが出来ない母親の二人は、ここでどんな生活を営んでいたのだろう。

 仲良くしていたのか、喧嘩ばかりしていたのか、楽しかったのか、退屈だったのか……。英昭は今日まで想像もしたことがなかった。

 英昭はキャリーバッグを玄関の外に出し、両親の体温が消えた部屋に鍵をかけた。

 

 夕方に姉夫婦の家に行き、このひと月の労苦をお互いに労うため、出前の鮨でささやかな慰労会を行った。

 その席で、和則が彼岸の墓参りを終えたら沖縄に行こうと弘子に提案した。英昭も弘子の心労を少しでも和らげることができるかと思い、熱心に誘った。

 少しやつれた弘子は、「老人が三人揃って、沖縄で何をするの?」と、冗談半分に言って、実家から移動した仏壇に目をやりながら、寂しそうに笑った。

「弘子、もうこっちの実家がなくなったんだから、長男の英昭君がいるところが実家だぜ。だからある意味里帰りだよ」

 和則がぎこちなく笑った。

 英昭はその言葉にはっとなった。

 母親が亡くなり、親しい親戚は仙台の叔母くらいの自分達姉弟は、帰る家がなくなったのだ。

 今、改めてそのことを突き付けられた思いがした。

 両親が他界し、息子達とも絶縁に近い状態で、この先自分が病気をしたり死んだらどうなるのだろうか……。

 今の英昭には何の曙光も見えない。

 姉夫婦との夕飯を済まし、英昭は寝床として提供してもらった和室の布団の上に寝転がり、少し躊躇いがあったが京子に那覇の到着予定時間をLINEで報せた。

 さすがに今回のLINEには返信があるだろうと思っていたら、スマホの電話が静かな部屋で鳴り出してビックリした。

 着信表示を見ると京子からだ。

 英昭は逸る気持ちを抑えて、「久しぶりだな、LINE見た?」と、通話口に抑えた声を送った。

「うん」

 英昭の気持ちをそぐような、抑揚のない京子の声が聞こえてきた。

「元気ないな……どうした?」

 胃の辺りが重くなり始めた英昭は、努めて明るい調子で問いかけた。

 少しの間をおいて京子が沈んだ声で話し始める。

「実は、もう会えないの……。と言うか、会っちゃだめなの」

 全く予期していなかった唐突で脈略のない言葉に、英昭は一瞬京子の言葉の意味を把握することができなかった。

 姉夫婦の寝室とは離れているが、静かな部屋で自分の声の大きさに注意しながら英昭は京子に話しかけた。

「何かあったのか?言っている意味が良く分からない。ちゃんと説明してくれないか」   

 スマホの向こうから京子の息遣いと、ボリュームを絞ったテレビ番組の笑い声が聞こえた。

 英昭は焦れずに京子の言葉を待った。

「もうヒデとは会えないの……。あたし、八月に東京に帰ることにした……」

 最後の方は聞き取りにくい涙声で、京子は独り言をつぶやくように言った。

「えっ!どういう事?」

 大きな声になりそうなのを必死に押し殺して、英昭はスマホを耳に強く押し当てた。

「結婚することになると思う……多分」

 他人事のような京子の言葉で英昭の頭の中は熱くなり、返す言葉が出てこない。

 京子はその沈黙を、先を促されたと理解したようで、話を続けた。

「弟の結婚式に、昔付き合っていた彼も来ていたの……。彼は弟の高校の先輩でクラブで良く面倒を見て貰っていて、今でも弟と付き合いがあるのよ」

 英昭は、年末に京子の部屋で見たアルバムの男を思い出すと同時に、『やっぱりな』という気持ちになった。

 勘は鋭い方ではないが、何故か嫌な予感は幼いころから的中した。

 長じてからは、女性関連と仕事絡みの悪い予感は高確率に進化している。

「それで?」

 英昭の声が少しかすれた。

「二次会の席が偶然隣で、最初は変に意識しちゃってたから、とりとめのない話をしていたんだけど、お酒も入っていたし途中からお互いに今の話になって……。あっちも三年前に離婚したみたいで、それから昔の話をしたり私の沖縄での話をしたりして、二次会の後にもう少し二人で飲もうってなって……」

「行ったのか?」

 英昭は電話を切りたくなった。

「両親と小さな子供のいる妹は先に帰って、二次会には参加していなかったからあたしも早めに帰ろうとしたんだけど……。弟が先輩に付き合ってあげてよって言うもんだから」 

 京子の涙声は、話しているうちにいつもの口調に戻りつつある。

「二次会の席が隣とか、二人で飲みに行けとか、弟さんが後押ししている感じだな」

 英昭は感じたままに言った。

「あたしが結婚式に出るって知ってから、彼が弟に頼んだみたい……」

 英昭はこれ以上京子の説明を聞きたくはなかったが、京子にとっては嫌なことだが、英昭に話す機会を待っていたのだろう。

 黙り込んでいる英昭に向けて話を続けた。

「それで二人で近くの店で軽く飲んで、お互いの結婚していた時の生活や仕事の話をして別れたんだけど……その時に、彼から沖縄に帰る前に二人だけで会おうって言われて……。私は水曜日に帰らなければならなかったでしょ?」

 京子が確認するように訊くが、英昭には遠い昔の話のようで思い出せない。

「そうだっけ?……でも会ったんだ」

 英昭はそっけない口調になった。

「帰る前の日、火曜日の女子会のランチの後にね……。ヒデに言うのは心苦しいんだけど、その時に彼からやり直したいみたいなことを言われたの。もちろん、あたしにはそんな気持ちはなかったから断ったわよ」

 京子の話し方が弁解じみてきた。

「俺の事は言わなかったんだ?」

 英昭が一番知りたいことを、絞り出すように訊いた。

 無性にタバコを喫いたくなったが、姉夫婦のマンションの部屋だという事を思い出した。

「親も弟から彼の事を聞いていたみたいで、出かける前に母親からは頑張っておいで、なんて言われて変だなと思っていたんだけど……。彼の態度も二十年前とは全然違って、大人になったって言うか真面目だったので、その場で付き合っている人がいるって言いそびれちゃったのよ」

 京子が苦しそうに言い訳した。

 そう、これはもう完全に言い訳だと英昭は思った。

 今夜、これ以上京子の言い訳に付き合う気にはなれず、「京子にもあっちと同じ感情があったってことだろ?」と、少しキツイ口調になった。

「そんなことはなかったけど……。そうなのかな」

 京子のこの言葉を聞いて、英昭は話を続ける気力を完全に失った。

「わかった……。もういいよ。疲れたから電話切るよ」

 英昭は京子に告げ、スマホを切ろうとした。

「待って!まだ話は終わってない……」

 耳を離れたスマホから京子の声が聞こえたが、英昭は電話を切った。

 英昭はスマホを壁に投げつけたい衝動を抑えて、マナーモードにしてから枕に放り投げた。

 酒を飲みたくなったが、自分の家でもないのに冷蔵庫を開けて勝手にビールを出すのは、いくら姉の家とはいえ無遠慮過ぎる。

 仕方なく、英昭はタバコと携帯灰皿を持って静かにベランダに出た。

 生暖かい風を感じながら、遠くの車道から聞こえる騒音に包まれて、タバコに火をつけた。

「やり直したい……か」

 煙と一緒に言葉が肺腑の奥からこぼれた。若いやつらだけが言える言葉かもしれない、と英昭は思った。

 自分の年齢ではそんなセリフは言えないだろう。

 言えるくらいなら東京を離れる前に有香里にも言えたはずだ。

 英昭は京子に去られて直ぐに有香里を思い出す自分が嫌になると同時に、何故か敗北感を感じた。

 誰に負けたのだろう。

 京子の相手か?京子か?それとも年齢か?

 何故か京子を責める気持ちが湧いてこない。

 この諦観とも言える空虚な気持ちは、得体の知れない敗北感から来ているのだろうと、英昭は思った。

 梅雨時の決して心地良くはない夜風に、タバコの煙がちぎれて消えるのを眺めながら、俺は何処に帰れば良いのだろうと、英昭は途方に暮れた。

 今更京子を自分に振り向けさせることはできないだろうし、する気にもなれない。

 気持ちが離れたらもう仕方がないことだと、少なくない経験から英昭は知っている。

 こんな気分で沖縄に帰るとは、考えてもいなかった。

 部屋に戻って枕の上のスマホを手に取ると、京子からの着信とLINEのメッセージが届いていた。

 英昭は一瞬メッセージを見ようと思ったが、そのまま枕元に置いて夏掛けの布団に入った。

 多分、中々眠りに落ちないだろうと思い電気スタンドを持ってきて、移動中に読もうと買っておいた推理小説の頁をめくった。

 だが、案の定ストーリーが頭に入って来ず、いたずらに文字を追いかけるだけだった。

 思い直してスマホのロックを解き、京子からのメッセージを見た。

 ごめんなさい、私が悪い等のメッセージが虚しい。

 謝罪めいたメッセージを飛ばしていくと、最後の方に英昭のマンションのメイルボックスを日曜日に整理したというメッセージがあった。

 不要なチラシやDMは捨てて、必要そうな郵便物をリビングのテーブルの上に置いた。

 合鍵は整理したメイルボックスに入れてあるので、その後に溜まっているチラシと一緒に捨てないように注意して下さい、というメッセージが最後であった。

 こんなにあっけない終わり方があるのかと思わずにはいられないが、年齢なのか経験なのかはっきりとはしないが、意外と冷静に受け入れている自分が不思議だ。

 読み終えた英昭は、『ありがとう』と『お幸せに』のメッセージと、ブタのキャラクターがペコリとお辞儀をしているスタンプを京子に送った。

 英昭はスマホの電源を切り、電気スタンドを消して、決して眠れないだろうと思いながらも、固く目を閉じた。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 暇つぶしになって次回も読んでみたいと思っていただけましたら、励みになりますので、ハート・星・フォローをお願いします。


他に【シンビオシス~共生~】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご一読いただけたらと思います。

 

 

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