第6話
京子が誕生プレゼントにスニーカーが欲しいということで、英昭は勤務を終えた京子を薬局から少し離れた場所で車に拾い、新都心のメインプレイスにあるスポーツショップに向かった。
京子があれこれ試し履きしながら選んだ〈ニュー・バランス〉のスニーカーを買い、一階のスーパーで食材を調達してから二人は京子の部屋に向かった。
ゆいレールの安里駅から徒歩で約十分のところにある、京子が住む四階建ての賃貸アパート近くの空き地に車を停める。
エレベーターがないので、階段を使って二人は京子の部屋がある二階に上った。
築年数がかなり経っていることが伺える、所々塗装が剥げている鉄製のドアを京子が開け、英明は続いて部屋に入った。
小さな玄関から細長い廊下を通り、京子は居間のテーブルにプレゼントのスニーカーを置き、右手のキッチンにある冷蔵庫からタッパー類を取り出す。その間、英昭は立ったままで遠慮がちに部屋の様子を窺った。
英昭は独り住まいの女性の部屋に上がったのは何年振りだろうかと考えた。会社に入ってからは実家住まいの女性としか付き合っていないから、学生時代以来だ。
女性の部屋特有の化粧品の匂いが漂い、加齢臭まみれの金城紀之の部屋とは大違いだ。
「コーヒーかお茶飲む?」
キッチンから京子が訊いてきたが、「大丈夫、今飲むとビールが不味くなっちゃうから。でも、女性の部屋っていい匂いだね」と、部屋を見回しながら言った。
「なーに、ヒデさん匂いフェチなの」
あの日以来、京子は庄司さんからヒデさんに呼び方が変わった。
英昭も京子と呼ぶようにしているが、時々川名さんと呼んでしまう。
「そういうわけじゃないけど、野郎の部屋とは明らかに匂いというか香りが違うよね」
「そうなの?」と、冷蔵庫の扉を閉めながら京子が言う。
「ほら、この間話した金城紀之って言う人の部屋だけど……」
「金城さんの親戚の?」
「そう、一昨日部屋に上げて貰ったんだけど、入居してから一度もまともな掃除をしていないって言うんだ」
「えっ!何年間?」
「かれこれ三年じゃないかな。もちろん、トイレとかテーブル、床の掃除は時々していると思うよ」
「汚い!金城さんはこざっぱりとした格好しているけど、その人は?」
「格好は別に不潔でもなんでもないよ。ただ、部屋の片づけができない性格なんだろうね。オーディオが好きなんだけど、プレーヤーやアンプ、CDやDVDラックなんか埃まみれだからね。ダイニングテーブルの上なんか、新聞とか雑誌が積みあがっていてスペースがないんだ。最初は出されたコップに口をつけるのに勇気がいったよ」
「ヒデさんは潔癖症だから我慢できないでしょ?」
「別に潔癖症じゃないけどね。賞味期限が切れてる食料品も気にしないし、他人が口をつけたペットボトルとかも、余程不潔な人の後でなければ飲めるし」
「でも食器なんかもマメに洗うし、お風呂場も毎日洗うでしょ?」
「サッとだけどね。元々怠け者だと自覚しているから一度サボっちゃうと底なしになっちゃう気がするんだよね。だから家事は後回しにしないように、習慣化しているだけだよ」
「でも、偉いわ。尊敬しちゃう!」
京子が両手を組み合わせて、身体を捩るようなおかしなポーズをした。
「カワ……京子の部屋だって片付いているじゃない。仕事していてこれだけキチンとできていれば上出来だよ」
「部屋が狭いから余計な物を持たないようにしているだけよ……。持って行く物準備できたから行く?」
誕生日は何処かの店で飲もうと提案したが、京子が落ち着いて飲みたいということで、英昭の部屋でささやかなパーティーをすることになった。
京子の部屋は確かに狭く、居間には小さな床置きのテーブルとクッション、それとテレビ、五段式の収納棚しかない。
寝室はベッドと洋服ダンス、化粧品が並んだ小さな鏡台しか確認できない。
空き地に停めていた車に乗り、まだ陽のある街中を走る。
安里の交差点で帰宅ラッシュの渋滞につかまったが、一五分程度で英昭の部屋に着いた。
スーパーで買って来た食材と、英昭が昼飯の帰りに久茂地の店で買ったチーズケーキをテーブルに並べる。
京子が昨夜自分の部屋で作って冷蔵庫に保存していたキッシュは、京子自らが電子レンジで温め直した。
「少しベチャってしちゃった……。家から持ってくる間にバターが溶けちゃったのかな」
京子はキッシュを皿に移しながらこぼした。
スパークリングワインを開け、誕生日おめでとうと乾杯をしてから二人は切り分けたキッシュを頬張った。
「そんなベチャって感じはしないよ。美味しいよ」
「ホント?」
京子は口に入れたキッシュの出来上がりを確認して、これなら大丈夫だねと笑った。
「でもさー、この間の話が出鱈目だって言うのにはあきれちゃった」
グラスを置いて京子が抗議するような目で英昭を見た。
「あー、五十五歳になると保健所から案内が来るってやつ?」
「あの後、薬局の飲み会でその話をしたら、皆、興味津々で聞いていたのよね」
「えっ!職場の人達に話しちゃったの?」
英昭は、口の中のキッシュを慌てて飲み込んだ。
「そうよ。だから言ったでしょ、その手の話は女子会でもするって」
「でも、薬局の中にはその手の話に詳しい人いるから、ソッコーで否定されたでしょ?」
「もちろんいるわよ、女子会には参加していない古株の人が。で、飲み会の次の日にその事が耳に入って、自分の主人にはそんなの来ていないって否定されて誰がそんなバカな話をしていたのって、ちょっと話が大事になりそうになってあせっちゃったわ」
「それは申し訳ない」と、英昭は素直に頭を下げた。
「でも、良くあんな事思いつくわねー」
「話をはぐらかそうと咄嗟に出ただけだよ。少し酔ってもいたし」
「川名さん、誰からそんな話聞いたのって訊かれたから、あたしも三線のサークルのオジイに聞いたって誤魔化したけど」
京子はスパークリングワインを自分のグラスに注いだ。
ボトルの残りがあと一杯分くらいになったので、英昭は冷蔵庫にビールを取りに行く。
「それより、明日は半ドンだろ?仕事終わったら何処か行こうよ」
また、変な方向に話が行かないように、英昭は缶ビールと薄はりのグラスをテーブルに置きながら話題を変えた。
「そうねー。仕事の後、薬局の友達とランチに行くのが定番だから三時頃になっちゃうよ」
今日は、話題の変更がすんなりと行ったようだ。
「別に時間は何時でも構わないよ。ライカムかアメリカンビレッジのどちらかにする?夕飯は向こうで食べることにすればいいし」
「じゃあ、ライカムに行きたい!」
「OK!じゃあ、夕飯の店は調べてくれる?予約が必要そうだったら俺が予約するから」
「了解です!一応三時に今日と同じ場所で待ち合わせってことで。時間が変更になりそうになったらLINEするから」
京子はビールを飲んだ後〈兼八〉のボトルを見つけ、これってアルコール度数がキツイかと訊くので、普通の焼酎と同じ二十五度だと英昭は教えた。
〈兼八〉は、英昭の感覚では少しバーボンに近い味がするので、お気に入りの麦焼酎だ。
京子は飲み過ぎないようにしないと、と言って、チェイサーの水も持って来てチビチビと飲み始めた。
デザートのチーズケーキを平らげ英昭は食器類を流し台に持って行くが、京子が帰るのか泊まるのかの判断がつかない。
どうするのかと訊いて帰ると言われると寂しい気もするが、明日も会うからさすがに今日は帰るのだろうなと思う。
今夜は先日のように飲み過ぎていないので、ゆいレールの駅まで送れば大丈夫だろうと英昭は考えた。
時計は十時を少し回ったところだから、今から帰れば十一時前には京子は部屋に着くはずだ。
京子も空いたグラスを流し台に持って来て、それからリビングに戻ってウエットティッシュでテーブルを拭き始めようとする。
「いいよ、後で俺がやるから。それより忘れ物しないように準備しなよ」
英昭が食器洗いの手を止めて、京子に声をかけた。
「帰らなくちゃ駄目なの?」
京子もテーブルを拭く手を止めて、少し大きな声で英昭に訊いた。
「いや、そんなことないよ、泊まってくれるのなら大歓迎だよ。明日も仕事だから帰るのかなって思っただけ」
「今日はお泊りセット持ってきたし、明日は半ドンだから大丈夫だよ」
「そう、だったら是非ご宿泊してください。明日は会社迄お送りしますのでご安心を」
英昭が冗談っぽく言うと、京子も笑いながら、「一泊いくら?」と訊く。
「食事付、しかも送迎までして、何と一泊三万円!」
「ボッたたくりじゃん!そんなに高いのならキャンセルする!」
「じゃあ、今日は誕生日なので、特別に無料ってことで!」
良い歳をして何をやっているのか、と英昭は少し恥ずかしくなった。
「じゃあ、泊まってあげる。お風呂の準備も早くね」
京子の部屋はシャワーしかなく、時々浴槽にゆっくりと浸かりたくなるらしい。
年配のウチナーンチュはあまり浴槽に浸かる習慣がなく、沖縄では古い賃貸物件には浴槽の無い部屋がかなりある。
幸い英昭の部屋は新築なので、浴槽もあるしシャワートイレも完備している。
沖縄は一年中暖かいイメージだが冬は寒い日もあるので、京子のような本土からの移住者は浴槽が恋しくなるようだ。
浴槽にお湯を張って入浴剤を入れたところで、英昭はもう入れるよと京子に告げると、一緒に入ろうと誘われた。
何とも気恥ずかしい気がしたが、断る理由もないので英昭は浴室に先に入った。
後から来た京子と二人で狭い浴槽から大量のお湯を溢れさせると、「贅沢―」と、京子がはしゃいだ。
ごく自然に、部屋の中に京子の物が増え始めた。洗面台には化粧水やクレンジング・乳液等の化粧品類とオレンジ色の歯ブラシ。チェストの中には下着類やパジャマ代わりのスエットとTシャツ。
ハンガーラックにはジーンズ等のボトム類、下足箱にはスニーカーとサンダル。
それと共に英昭の部屋の空気も変わった気がする。
毎日ではないが、かなりの頻度で京子は英昭の部屋で過ごすようになっていた。
部屋で食事をする時は、崇元寺通りに近い京子の勤める薬局に車で迎えに行き、外食する場合は、店で待ち合せて食事をしてから英昭の部屋に帰る。
京子の仕事が休みの時は景観の良いビーチをドライブして、海の見えるカフェで食事をしたり、首里や沖縄市の近辺を散策した。
会話をしていても十五歳の年齢差はそれ程気にはならない。
学生時代の話は相通じるものは少ないが、社会人になってからの話はお互いに理解できる部分が多いので、話題には困らない。
学生時代の話は同年代の集団で狭いコミュニテイがベースになるので、世代間や地域性で大きなギャップが出るようだ。
だが、社会人になると世代間の壁が取り払われて、幅広い範囲のコミュニテイの一員とならざるを得ないので、ある程度の共通認識みたいなものが出来てくる。
業種や会社の規模が違っても、新人の時の苦労や、上司や会社への不満は世代や地域に関係なく共通のものなのだろう。
二人でいる時間が長くなると、今度は何処へ行こう何を見よう、あるいは何を食べようかなどの先の楽しみの話が多くなる。
英昭は毎日が日曜日の状態なので、京子の都合に合わせるのが当然と考えているが、京子はそんな英昭の姿勢を、煮え切らないと感じているふしがある。
普段の会話では感じない世代間の違いは、こういった英昭の少し身を引いた受け身の態度も影響している。
開放的で、どんなことでも自分を晒す事を厭わない京子からすれば、もっと英昭のしたい事を積極的に言って欲しいという気持ちが強いようだ。
京子が二人の間で一番嫌がる言葉が『歳だから』である。
短い秋を感じる事もなく、気温が二十度近くまで下がる日が続いたある日、二人は英昭の長袖のシャツを買いに行った。
京子がこれが似合うのではと勧めてくれた赤と白のギンガムチェックのシャツを、英昭がもう歳だからそれはちょっと派手だよと言った時に、初めて京子から叱られた。
「歳ってどういうこと?そんなのヒデさんが勝手に決めているだけだよ。何かあると歳のせいにするのって良くないよ」
京子から真剣な口調で言われた時は、英昭はかなりへこんだ。
それ以来歳の事は言わないように注意はしているが、時々口にしては指摘される。
還暦を過ぎた英昭としては今度とか次回とかの近い将来の話は出来ても、十年先、二十年先の遠い将来の話をするのには
自分が七十歳で、京子が五十五歳。
または自分が八十歳で、京子が六十五歳の将来を想像するのは難しいし、話題にする気には中々なれない。
まだ付き合い始めて日が浅いのにそんな漠然とした将来の事を、今、京子と話すことは絶対に出来ないと思う。
若い時と違ってゴール迄の距離が近いというのは、選択肢がほとんど無いに等しいのは至極当然のことだと、英昭は醒めた気持ちになることもある。
隆志と紀之とは、京子と会わない日に、変わらずに遊んでいた。
もっぱら、京子が見たら卒倒すると思われる紀之の部屋で、YouTubeや音楽のDVDを観たり、CDを聞きながらビールを飲んで、くだらない話をして時間を過ごすのが常だ。
還暦過ぎの爺さんが集まって、汚い部屋に引きこもってばかりいるのも息苦しくなるので、時々は缶ビールを数本持って散策に出る。
そんなある日、三人は首里駅でゆいレールを下車し、周辺の路地をあてもなくぶらぶらと歩いていて〈首里劇場〉という映画館の前に出た。隆志と紀之は良く知っている昔懐かしい成人向け映画専門のようだ。
三人で艶っぽいポスターが貼られた映画館の正面を物珍し気に見ていると、駐車場に入って来た軽トラからオジイが降りてきた。
「なーんね、見たければ入ればいいさー」
オジイの言葉はウチナーグチで全てを理解できなかったが、隆志がそう翻訳してくれた
そう言って、オジイは還暦過ぎの爺さん三人の前を悠然と歩いて館内に消えた。
この手のものに異常な興味を持ち始めた中学生が、お爺さんに揶揄われた感じがして三人は大声で笑ってしまった。
それから儀保駅まで下り、また路地に入って暫くすると〈虎瀬公園〉の案内板を発見し、坂道を登って開けた山頂部に出た。
首里城や那覇市内から港までの眺望が素晴らしい。
ここには紀之はもちろん、隆志も来たことがなかったようだ。
夕陽が沈み始めて辺りが暗くなると、那覇市内の夜景がきれいに見渡せる。
首里城方面は正面に建つマンションが正殿を隠す格好になり、残念ながら全てを見ることが出来ないのが少し残念だ。
公園の照明は暗く、爺さん三人でロマンチックな雰囲気にはなりようもないし、余り長居はしない方が良いだろうと、三人は坂道を下って儀保駅に戻った。
ゆいレールを美栄橋駅で降り、今日は仲間内の
残った英昭と紀之は、何処かで軽くつまみながら一杯やろうとなり、〈青空〉に行くことにする。
珍しく店は混んでいて他の客に詰めてもらって、奥のカウンターに席をなんとか確保した。
何も注文はしていないが、目の前にオリオンビールのジョッキが二つともやしとピーマンを炒めたお通しが出てきたので、英昭と紀之はジョッキを軽く合わせた。
「庄司さん、来週の土日ってヒマ?」
紀之は相変わらず英昭の事を庄司さんと呼ぶが、英昭はかなり慣れてきて、最近はノリさんと呼ぶようにしている。
「ノリさんと一緒で、特に用事がないのはいつもの事で」と、英昭は笑った。
「信幸からチケット貰ったんだけど、あいつは仕事絡みで用事があるらしくて行けないんで、庄司さんと行ったらって」
「何のチケット?」
「OYAJI LOVE ROCK FESTIVALってやつなんだけど……」
紀之は眼鏡を額の上に載せて、少し目から離した位置でチケットを確認した。
「誰が出るの?」
英昭はお通しをつまみながら、紀之が持っているチケットを覗いた。
「アマチュアのオッサンたちがメインだよ。ゲストでプロが出るかもしれないけど……。場所はセルラースタジアムだけど、どう?」
「いいけど、アマチュアバンドを二日間観るのはキツイから土曜日だけ付き合うよ」
日曜日は京子と会うことになるだろうと予想して、英昭は応えた。
「OK!じゃあ、土曜日だけ行くか。俺はヒマだだから日曜日は隆志を誘って行ってみるけどね」
そう言って、紀之はマスターのお任せで焼いたハツを串から外した。
「ノリさん、彼女とか誘えば良いじゃん」
最近スナックのママさんとお付き合いを始めたと隆志から密告があったので、英昭は探りを入れた。
「彼女って……なんで知っているの?……隆志だな!あいつおしゃべりだな、許せん!」
紀之は、かぶりついたハツを吐き出しそうになりながら憤慨してみせるが、英昭からは少し嬉しそうに見える。
「いいじゃないの。羨ましい限りだよ」
「いや、全然そういうのじゃないんだよ。彼女からすれば、客に付き合ってドライブしたり飯を食ったりという……一種の営業だよ」
「彼女はそうだけど、ノリさんはどう思っているの?」
英昭は少し踏み込んでみた。
「俺?俺はヒマ潰しに付き合って貰えるだけで十分だよ」
「どんな人?」
「どんなって……。ただのスナックのママだよ。特に美人とかじゃなくて普通だよ。歳も五十五歳とかだし……」
「今日、これからそのママさんの店に行こうよ」
英昭は意地悪く笑った。
「今日?これから?ダメダメ!まだ庄司さんや隆志を連れて行ける状況じゃあないよ」
「状況って?どんな状況ならいいのさ?」
「いや、つまり……ほら、まだ彼女に庄司さんや隆志の事を話していないからさ」
「別にそんな事関係ないでしょ。客として行くんだし……何かすごく興味が湧いて来た」
「勘弁してよ!お願い。本当に今日は勘弁!もう少ししたら紹介するからさ」
「それって、彼女として?それともスナックのママとして?」
「まいったなー、もう。分かったよ!彼女として紹介するよ!」
紀之の人の良さが全開だ。これ以上の追及は虐殺に近いので英昭は矛を収めた。
土曜日に〈OYAJI LOVE ROCK FESTIVAL〉を途中で抜け出し部屋に帰ると、玄関にニュー・バランスのスニーカーが脱いであり、リビングの灯りが付いていた。
誰かが待っている部屋に帰るのは久しぶりで、英昭の気持ちは和らぐ。
玄関に入る音を聞いた京子がテレビから視線を外して、部屋に入ってくる英昭を見た。
「おかえり、早かったのね」
「ただいま。ノリさんが一杯やって行こうというのを振り切って来た。何か食べた?」
「一時間くらい前にパスタを作ってビールと一緒に食べた。ヒデさんは?おなかは空いていない?」
「フランクフルトや唐揚げとか、高カロリーのジャンク物を食べたから大丈夫だよ。少し飲む?」
時計を見ると八時半だ。
「先にお風呂に入ろう。丁度、お湯でも入れようとしていたところなの」
「そうだな。結構陽射ししが強くて、少し汗もかいたし」
英昭はパーカーをハンガーにかけてから、ソファに腰を落ち着ける。
「コンサート、面白かった?」
風呂場で湯張の準備をして戻って来た京子が、英昭の横に座った。
「まあまかな。オッサンたちのバンドだから、知っている曲が多いしね」
応える英昭に、京子が腕を回して抱きついてきた。
英昭は、腕の中に抱き取った京子から柑橘系のフレグランスと、アルコールの匂いを感じた。
師走らしさを全く感じない英昭の誕生日に、京子から〈PORTER〉の財布をプレゼントとして貰った。
今使っている財布がボロいと言って、京子が選んでくれたものだ。
京子は知る由もないが、ボロいと言われた〈ポール・スミス〉の財布は、四年前に有香里から貰った誕生日のプレゼントだ。
英昭は京子からのプレゼントの財布に、カード類と現金を移し替えた。
空になった財布は、所々糸のほつれや皮の表面のキズが目立ってはいるが、まだ使えそうな気もする。
英昭は一瞬、家に持って帰ろうかと考えたが、近くにあったごみ箱の中に、静かに落とした……。
英昭の部屋に戻った二人は、前日に京子が首里城の近くの洋菓子店で買って来たチョコレートをベースにしたケーキと、京子が作ったカジキマグロのステーキやサラダをテーブルに並べた。
英昭が缶ビールとグラスをテーブルに載せて、ビールをグラスに注ごうとすると、京子が手で制した。
「飲まないのか?」
英昭が京子に訊いた。
「ちょっと待って」
京子はケーキに添えられているロウソクを取り出した。
大小ある数本のロウソクから、大きめの赤いロウソクと、小さめの緑色のロウソクを京子はケーキに立てた。
「一応誕生日だからね」
一本ずつ立てた赤と緑のロウソクに、京子はライターで火をつけた。
「赤は六十の意味か?」
英昭が訊くと、京子は「そうだよ、緑は一歳」と言って笑った。
「歳の話はタブーだろ?」
英昭は缶ビールを開けて、グラスに注ぎながら京子を見た。
「年齢がどうのこうのじゃないの、気持ちの問題。自分勝手に老けないでちょうだいね!」
京子はロウソクの火を消すように、英昭を促した。
沖縄の暖かい年末年始は本土のような慌ただしさはなく、南国のゆったりとした空気の中で緩慢に過ぎて行く。
勤め先の年末年始の休みに入った京子は実家に帰ることもなく、ほとんどを英昭と過ごした。
大晦日を翌日に控えた日に英昭は京子の部屋の大掃除に駆り出され、普段手の届かない高い場所の掃除を任された。
「やっぱ、背が高いって便利よねー」
「日当は高いからな……この箪笥の上って何年掃除していない?」
「去年はサボったかもしれないけど、汚い?」
「埃だらけだよ。まるでノリさんの部屋と一緒だな」
「ひどーい。そんなに不精していないよ!」
「冗談だよ。高い所以外はマメに掃除しているよな……。ちょっとこのアルバムみたいなの下におろすよ」
箪笥の上の隅にあった青いアルバムと洋菓子の箱を、下にいる京子に埃が落ちないようにそっと手渡す。
受取った京子は、アルバムと洋菓子の箱の埃をハンディモップで拭き取って床に置いた。
英昭は箪笥の上の掃除を終え、踏み台を移動して室内灯を丁寧に拭く。
「そのアルバム、元に戻す?」と、英昭が訊くと、京子は頷いてアルバムを英昭に渡した。
「いつ頃の写真?……ちょっと見せてよ」
英昭は受け取った青いアルバムを、京子に戻した。
「短大時代から就職したての頃のだと思う」
京子は英昭から返されたアルバムの頁をめくった。
踏み台から降りた英昭が横から覗くと、今より少しふっくらとしている京子が、様々な表情で写っていた。
成人式での着物姿や、旅行先や飲食店、ディズニーリゾートで友人達と笑っている写真だ。
後半の頁はリクルートスーツの京子が澄ました顔をして、会社の前で写っているから卒業後のものだろう。
残り数頁のところで、京子が「あっ!」と狼狽えてアルバムを閉じようとした。
「昔の彼氏の写真だな?」
英昭はピンと来た。
「……ううん、違うわよ」
「もう二十年近くも前のだろ?いいじゃん、見せてよ」
英昭は京子からアルバムをもぎ取り、京子が閉じた頁辺りを開いた。
「へー、結構イケメンじゃん。京子って面食い?」
英昭は冗談交じりに言ったが、内心見なければ良かったと後悔した。
二十年以上前の事とはいえ、京子が他の男と付き合っていたという事実を目の当たりにするのは気分が良くない。
自分で見せろと言っておきながら、仲良く男と腕を組んで笑っている京子を見て英昭は内心穏やかではいられなかった。
「元の旦那じゃないよね?」
英昭の口調は少し硬い。
「違うわよ。実は弟の高校の二年上で、サッカー部の先輩。私はもう働いていたけど、彼が大学入ってから付き合い始めた」
「年下だよね?」
少し幼さのある男の顔を見て、英昭は確認した。
「そう、四つ下。同じ路線を使っていて偶然電車の中で会って、それから……。彼が高校時代の時に何回か顔を合わせたことはあるけど、話をしたことはなかったんだよね」
「へー、でもそういうのって、弟さん的には嫌がるんじゃないの」
「最初はね。でも途中からは特に何も言わなかったよ。そのかわり別れた時には、社会人と遊びに夢中の学生じゃ合わないと思っていたって……。最初から言えってーの」
「何年付き合っていた?」
「何よ、結構聞きたがりだねー。一年ちょっとかな、弟が言うようにあっちは遊び盛りでしょ?でもこっちは仕事が忙しく平日は残業続きだし、土日は家でゆっくりしたいしで……。結局むこうが同じ大学の子と付き合い始めて、チャンチャン!って感じ」
「ふーん、そうなんだ。まあいろいろあるよな、若い頃はさ」
英昭は分別臭いことを言った。
「ヒデはどうだったのよ?」
何が?と誤魔化そうとしたが、京子は取り戻したアルバムを抱えたまま英昭を凝視した。
「奥さんとなんで別れたの?私は話したけどヒデのはまだ聞いていない。それに離婚してからの空白期間もいろいろとあったようだし……」
京子の鋭い指摘に英昭はたじろぐが、年の瀬の昼に、しかも大掃除中にする話ではないと逃げを打つ。
京子から手荒く渡されたアルバムと菓子箱を元の箪笥の上に置き、いつか必ず自白させるからという声を背に受けながら、英昭はそそくさと換気扇の掃除に向かった。
年明けの三が日は一緒に波上宮に初詣に行ったりして英昭の部屋で過ごした京子は、仕事始めの四日から出勤した。
年末年始に会っていなかった隆志と紀之とは、京子を薬局に送った後にゆいレールを使って訪れた紀之の部屋で顔を合わせた。
今日はダイビングショップが休業中の信幸も参加している。
「こっちの正月は暖かくていいよねー」
普段より片付いている部屋に誰が作ったのか作者不明のおせち料理がテーブルに並んでいて、それをつまみながら英昭が言った。
「一昨日ノリ坊と護国神社に行ったさ。その帰りに奥武山公園を歩いていたら、暑くなって半袖さー」
日本酒を飲みながら、隆志も天候に恵まれた三が日を話題にした。
「なんか年々暖かくなるよね。昔は炬燵とか火鉢があったけど、最近見ないねー」
ウチナーンチュの信幸も同調した。
「確かに俺がガキの頃は、オバアが火鉢で餅を焼いていたもんね。今、那覇でそんなのやってる家ってないだろ?」
紀之ものんびりとした口調で話に入ってくる。
世間では仕事始めだが、還暦過ぎの爺さん達にはそんな事は関係なく毎日が同じペースで流れていく。
「ところで、直美ちゃんはこの部屋に来たのか?」
隆志が紀之にお年玉としての直球を投げた。
直美というのが、スナックのママさんの名前のようだ。
「何だよ!いきなり。信幸もいるのにさ」
紀之はつまみかけた蒲鉾を落とした。
「だからよー。正月だし、みんながいるんだから目出度い話を聞きたいわけさ」
「俺も聞きたい」
英昭も悪乗りする。
部屋が片付いているのには、やはり理由があったのだ。
「庄司さんまで何だよ!」
「いいじゃん、兄貴にも春が来たって隆志からも聞いているやっさ」
信幸も参戦し、これで三対一の構図になった。
こうなると人の良い紀之には為す術もなく一気に陥落するしかない。
「元旦に護国寺に初詣に行ったよ」
紀之はぶすっとした表情でビールを呷る。
「前の日に紅白を一緒に観てからか?このー」
隆志には遠慮がない。
「悪いかよ!独身同士だからいいだろ!」
「もしかして、このおせち料理は?」
英昭は軽めの追及に留めた。
「そうだよ、どうせお前達が遊びに来るのは分かっていたから、彼女が作ってくれたんだよ。少しは感謝しろ!」
紀之を除く三人は、へへーと頭を下げた。
「一緒に年越しをする仲じゃあ、次は結婚だなー」
隆志は直球一辺倒だ。
「なに言ってんの?まだ付き合い始めて三か月も経っていないのに!」
「だからよー。付き合ってる長さは関係ないさ。好きなら一緒になれば良いさー。な?ノブ」
隆志は信幸にバトンを渡した。
「兄貴がこっちで所帯を持ってくれれば、弟としては安心さ」
「親戚としても安心さ」
隆志が被せる。
「友達としても安心さ」
英昭も悪乗りした。
このような会話を正月早々、昼間から酒を飲んで〈ゲイトマウス・ブラウン〉のDVDを観ながらしているのだから、ある意味幸せな爺さん達だと英昭は思った。
「庄司さんこそどうなのさ?こっちで、もう彼女とかをみつけたんじゃないの?」
窮地に立っての抵抗なのか、彼女が出来て強くなったのか、正月の昼酒がそうさせたのか、紀之がいきなりカウンターを出して英昭を慌てさせた。
京子とのことは誰にも話していないし、隆志や紀之、それと三線のサークルのメンバーとは出会わないように注意をしていたつもりだ。
だが狭い島のことだ、何処かで誰かに目撃された可能性は否定できない。
「それこそまだこっちに来て半年ちょっとの爺さんに何が出来るのさ。普段はみんなと遊んでいて、何処で知り合える?」
英昭はこの場はとぼけてみることにして様子を窺った。
「だからよー。最近、誘っても用事があるとか言ってパスする時があるさ」
隆志が猜疑心に満ちた目で英昭を見た。
「そんなの一・二回じゃない。部屋でシチューを煮込んでいたり、東京から知り合いが来ていて、飲みに行く約束をしていた時だけだよ……。それだったら誰か紹介してよ。隆志さんとか信幸さんは顔が広いでしょ?」
「庄司さん、まだ結婚とか考えてんの?」
まだ酔いの回っていない信幸が、間に入ってきた。
「もうしないと思う、というよりは出来ないよ。金は無いし、家も無いしね」
「そんなの俺も同じだぜ」
紀之が言い訳をして割り込んで来るが、英昭はこの機を逃さずに隆志のターゲットを紀之に集中させるようにしようと考えた。
「なに言ってんの!このマンションはあるし蓄えも少しはあるって聞いてるよ。それに奥さんになるかもしれない人が店を経営しているから、経済的には大丈夫でしょ?ノリさんは人当たりがいいし話題も豊富だから店を手伝うっていうのもいいんじゃない。ね?隆志さん」
「ノリ坊、今度俺達に直美さんを紹介しろな。それが順序ってもんさ。な、ノブ、そうだろ?」
隆志は期待に違わず、紀之をターゲットに固定した。
「そうだな、兄貴は人が良いからなー。先ずは俺達が直美さんの人となりを見てみないとな」
「なんで、お前たちに紹介しなきゃならないんだよ!そんなの俺の勝手だろ」
「義理の姉になるかも知れないからさ」
「親戚になるからさ」
「大事な友達の奥さんになるからさ」
三人からの攻撃を受け、紀之は完全に白旗を上げざるを得なくなり、「お前らに食わせてたまるか!」と、子供のように拗ねておせち料理に蓋をした。
車で来ていた信幸が代行を呼んで英昭と隆志も一緒に帰ることにし、県庁前で降ろして貰った。
部屋に帰ると九時を過ぎていたのでシャワーを浴びてから、缶ビールをベランダで飲みながらタバコに火をつけた。
京子は仕事始めの後は同僚と夕飯を食べに行くことになっているので今日は来ないだろう。
正月の夜だというのに全く寒さを感じないベランダで、今日聞いた紀之と直美の交際の事がぼんやりと頭に浮かんできた。
紀之は今年で六十四歳になるはずだ。相手は五十五・六歳だから、年齢的には釣り合いは取れているなと思う。
ただ結婚となると、特に沖縄の場合は家族や親戚の承諾が必要な場合が多い。
だが、弟の信幸や親戚で一番うるさそうな隆志が反対しなければ、問題なさそうだ。
直美がウチナーンチュなのか本土出身なのかは分からないが、話を聞いている限りでは面倒な家族や親戚はいないようだ。
自分はどうなんだろうと英昭は思う。
若い京子と結婚することは、現時点ではまだ想像する段階ではないだろうと思う反面、ほのかに期待しているのも事実だ。
もし、結婚となったら京子の家族に挨拶をしなければならないだろう。
だが、仕事もしていない還暦過ぎの爺さんが、『娘さんを下さい』といきなり言ってきたら、京子の両親や家族が面食らうことは必至だ。
もちろん、そのような手続き上の事だけではなく、この先の短い将来を京子と生活していく展望が現状では全く描けていない。
何の為に一緒になるのか、どのような家庭を築きたいのかといった妥当性のある解答が英昭には導き出せない。
そして何よりも京子の気持ちだ。
今は一緒に過ごす時間は多いが、彼女自身が何を望んでいるのか……。
それを知るのを避ける、いつもの駄目な自分がいた。
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