第5話
直近の天気予報では日曜日の天気が良さそうなので、二人は九時に大道通りの病院の前で待ち合わせをした。
十分前に病院の前に着いたので、車を降りて英昭が一服していると、バスケットを右手に提げリュックを背負った京子が小走りに近付いて来た。
アウトドア用の帽子を被り、帽子のつばの上辺りにサングラスを載せている。
今日もいつものようにTシャツとジーンズだが、黒のサマーカディガンを羽織っていた。
「おはようございます!新車ですか?まだ新車特有のにおいがしますね」
「小さいですけどね。音楽はここにあるCDで気に入ったのがあれば……。でも世代が違うからどうかな」
英昭も朝の挨拶をしてから、CDを入れたボックスを京子に渡した。
「あちらのCDが多いんですね」
京子がボックスのに入っているCDをざっと見た。
「あまり日本の歌は買ってまで聴かないですね。川名さんの知らないのばかりでしょ?」
「そうですねー、あ、サザンがあるじゃないですか。これかけて貰っていいですか?」
「どうぞ」
英昭はナビのタッチパネルを開けて、CDを挿入した。
「川名さんは、普段どんなのを聴きます?」
「あたしも最近の曲はあまり聴かないですね。学生の頃聴いてた曲が中心です。やっぱオバサン化してますかね」
京子はチョロっと舌を出した。
「八十年代の洋楽だと……?」
「洋楽ですか……あまり聴きませんけど、オアシスとかデュラン・デュラン、あとワムとかマイケル、ホイットニーヒューストンですかねー。庄司さんは?」
「僕はビートルズ世代だから、どちらかと言うとロックかな。しかも六十年代から七十年代の古いやつですけど」
英昭はいつもより慎重に車をスタートさせる。
「ビートルズなら知っていますよ。父親が良く車で聞いていましたから。でもあたしはJ・POPが聞きたいので、FMに変えてもらっていましたけど……。庄司さん、運転するんですから好きな曲をかけて構いませんよ」
「大丈夫ですよ。聴きたくなったらそうしますので」
車は那覇ICから沖縄自動車道に入る。
三連休の中日なのでレンタカーを中心に交通量は多いが、東京などと違って大きな渋滞は余程のことがない限りない。
京子を乗せているので、英昭は制限速度で走行車線をゆっくりと走る。
「美ら海水族館は何年振りですか?」
前方に視線を向けたまま英昭が訊いた。
「何回か行っているんですけど、最後に行ったのは東京から友達が来た時だから……三年振りですかね。庄司さんは?」
「こっちに来て車が納車されて最初のドライブで行きましたけど、爺さんが一人で入るのも気が引けて、イルカショーとウミガメ、マナティーを見て帰って来ました」
「イルカショーとか水族館の外はタダなんですよね。東京だったら考えられないです。駐車料金もかからないし」
「確かに。今、東京で無料駐車場なんてありますかね?」
「どうですかねー。施設を利用すれば無料になるところはあるかもしれませんけど、何か買ったり見たりしなくてもタダってところはないんじゃないかな」
「ですよね……でも、今日は天気も予報通りに晴れて良かったですね」
「珍しく天気予報があたりましたね」
途中で大きな渋滞もなく、スムーズに許田ICで沖縄自動車道から一般道に入る。
左手に名護湾を見ながら京子の別れた旦那の出身地である名護市に入ったが、京子は特に関心を示すことなく窓外の景色を見ている。
美ら海水族館の入場券は割引で買えるコンビニで購入する予定だが、英昭は名護市内での購入は避けようと考えていた。だが、京子の様子を見ていると、気にし過ぎたのかもしれないなと思った。
本部町を過ぎたところにあるコンビニで入場券を買い、トイレと一服を済ませてから再び車を走らせる。
美ら海水族館の駐車場に車を止めて時計を見ると、十一時半を少しまわったところだ。
京子と相談の上、水族館を見てからイルカショーの席で昼食を摂る事にし、屋外にあるエスカレーターで水族館の入り口に向かった。
団体客とカップルが多い入場ゲートを通り抜け、二人は館内に入る。
各水槽の前は人だかりで、中々近くで見ることが出来ない。
団体の外国人観光客は、水槽の前で、交代で様々なポーズで写真を撮るので余計に時間がかかる。
「混んでますねー。」
「ゆっくり見るって雰囲気じゃあないですね」
「連休ですから仕方ないですね」
京子は肩をすくめた。
一番の見どころの大型水槽が見えるところに来ると、京子は小さな歓声を上げた。
水槽の前は人でごった返しているが、水槽の中はジンベイザメやマンタがゆっくりと泳いでいる。
何度見てもスケール感に圧倒される思いだ。
「変な言い方ですけど、なんか、観光客に戻った感じです……」
京子は前にいる人だかりの隙間から水槽を見ようと、つま先立ちしている。
「分かるなーその気持ち。やっぱり、ここは代表的な観光スポットだから土からの移住者には、どこか移住前の感覚に引き戻されるんじゃないですか」
「一緒に来ているのが庄司さんで、ウチナーンチュの人と一緒の時とは違うっていうのもあるかもしれませんね」
京子は元旦那と来た時の事を思い出しているのかと考えたら、英昭は唐突に嫉妬めいた気分になった。
いかん、いかんと頭の中で打ち消したが、突然沸き上がった感情に英昭は戸惑ってしまう。
イルカショーは一三時からなので、早めに行って席の確保をしようと二人は人波に押されるように水族館を出た。
ウミガメやマナテイーは後で見ることにし、眩しい陽光の下イルカのパフォーマンスが見られる〈オキちゃん劇場〉まで歩く。
「ビールはいいんですか?」
売店の近くに来た時に、英昭は冗談めかして京子を見た。
「せっかくですから、頂こうかな」
京子は上目遣いに英昭を見上げた。
「遠慮しないでそうしてください。何杯買って来ましょうか?」
「一杯で!でも、美味しかったら追加します。なーんて」
京子が笑って、白い歯を見せた。
イルカショーの観覧席は、既に家族連れで満席に近い。
やっとのことで、中段の端に空席を見つけて腰を下ろした。
京子がバスケットからアルミホイルやタッパーを取り出し、英昭との間の席に並べ始めた。
「川名さん、ビールの泡が消えちゃうから先に飲んで」
英昭はプラスチック製のカップに入ったビールを、京子に手渡す。
「じゃあ遠慮なく」
京子はビールを受け取るが、一旦それを席に置いて携帯用ポットから麦茶をカップに注いで英昭に渡してくれた。
「乾杯!」と、お互いのカップを軽くぶつけてから、京子は半分近くのビールを飲む。
「美味しいー!庄司さん、すみませんねー」
京子は満足そうな笑顔を見せた。
それから一旦ビールのカップを置いて、アルミホイルから海苔をまいた大きめのポーク・ランチョン・ミートを使ったおにぎりを取り出し、英昭に渡してくれた。
タッパーを開けると、アスパラの肉巻きや卵焼き、ポテトサラダがきれいに並べられている。
「美味しそうですねー。作るのに時間がかかったんじゃないですか?」
割箸を割りながら、英昭は素直に感嘆の声をもらした。
「昨日の夜のうちにある程度作っておいたので、そんなに大変ではないですよ。それにそんなに手の込んだものはないし……」
「そんなことないですよ。僕からしたらどれもご馳走ですよ」
お世辞抜きに英昭はそう思った。
「味の保証はしませんので、クレームとかはなしですよ」
京子の言葉を聞きながら、英昭はアスパラの肉巻きを一つつまみ、口に放り込む。
「美味いですよ。僕は東京生まれなので、どちらかというとこういった少し濃い味付けが好みなんで」
「うちも同じで、どちらかというと濃い目の味付けで育ったものですから……。関西の人とは結婚できませんよね」
「確かに。でも、滅茶苦茶に濃いってわけではないので大丈夫じゃないですか」
「お世辞でも嬉しいです。ポークおにぎりはどうですか?」
英昭は勧められるままにポークおにぎりを頬張る。塩加減が丁度良く、これも美味い。口の中がおにぎりで一杯なので、右手の指で、京子にOKサインを出した。
京子は残りのビールを飲み干し、小さく握った方のポークおにぎりを頬張った。
一時になり、ショーが始まると観客席からは拍手や笑い声が起こる。京子もイルカの演技に拍手を送り、楽しんでいる様子だ。
イルカたちの健気なパフォーマンスが終わり、二人は〈オキちゃん劇場〉を後にした。
心地よい風が吹く中、二人はウミガメ館やマナテイー館を見学してから〈エメラルドビーチ〉に向かう。
ラグーン内にあるコーラルサンドの砂浜から見える海の美しさは格別だ。
前方の伊江島も、今日ははっきりと見ることが出来る。
ビーチで潮風に当たってから、途中トイレに寄って二人は車に戻った。
英昭は車をスタートさせ、古宇利島に向かう。
海岸線を暫く走って今帰仁村に入る頃には、京子は適度な揺れにビールの酔いも手伝って、シートに沈むように眠ってしまった。
英昭は信号で停車した際に、CDを〈カラパナ〉に変えてボリュームを落として聴きながらゆっくりと車を走らせる。
古宇利島近くになると京子は目覚め、「あれ、寝ちゃっていましたね……すみません」と、シートから沈み込んだ身体を起こした。
「凄いいびきでしたよ」
英昭が揶揄うと、京子は手のひらを口元に持っていき、「よだれは大丈夫でした?」と訊く。
「よだれは気が付かなかったなー」
「いびき、そんなに酷かったですか?」
京子は真面目な表情になった。
「冗談ですよ。静かにお休みしてましたよ」
「ホントですか?あたし、鼻炎気味なので結構いびきをかく時があるみたいなんです。元の旦那にも言われたこともあるし」
「いえ、今日は今のところ大丈夫ですよ」
英昭はオーディオのボリュームを少し上げた。
「良かったー。始めてドライブに連れてきてもらって、ビールを飲むわ、いびきはかくじゃトンデモ女ですよねー」
「いいじゃない。リラックスしている証拠ですから。こっちも気を使わなくていいし」
「さすが、大人ですねー」
「もうじき、古宇利大橋ですよ」
英昭は前方に見える案内表示を指さした。
「ホントだ……。この曲、なんですか?ハワイっぽい感じでいいですね」
「カラパナって言うハワイのバンドです。学生時代にちょっと流行って……。でも曲名は忘れちゃった。海を見ながら聴く時には結構合うんですよ」
「ですねー、今度このCD貸してください。スマホに入れて聞きたいので」
京子はCDのジャケットを見た。
「いいですよ。何枚か持っているので後で渡します……。そろそろ橋にかかりますよ。写真を撮るならどうぞ」
車の数はそれ程ではなく、英昭の車は滑るようにエメラルドグリーンの海に浮かぶ古宇利大橋を走る。
「きれい!凄いですねー。海の色が全然違う!」
スマホのカメラで写真を撮りながら、京子は無邪気な歓声を上げた。
天気に恵まれ、海はコバルトブルーとエメラルドグリーンに光り輝いている。
英昭も運転に気を付けながら、海の上を走っているような感覚で景色を楽しむ。
橋を渡り終え、そのまま〈古宇利島オーシャンタワー〉に向けて車を走らせる。
駐車場は混んでいるが、オーシャンタワーの入口まで少し歩く場所に駐車スペースを見つけて、車を停めた。
入場券を自動販売機で買い、二人はカートでゆっくりと展望塔まで登る。
珍しい貝が陳列されている〈シェル・ミュージアム〉を見て、エレベーターで展望フロアに行く。
屋内からの眺望も素晴らしかったが、天気も良く風も穏やかなので、更に屋外のオーシャンデッキに上がった。
眼下に先程渡った古宇利大橋と青空を映した海が見えるが、若いカップルが急に鳴らした鐘の音に、二人は飛び上がって驚いた。
女性に窘められた学生風の男性が、手を後頭部に当てるようにお辞儀をしながら横を通り過ぎていった。
「ビックリしたなー」
「あたしも、急にカーンって音がするから。でも、景色は最高ですね」
まだ高い位置にある南国の陽光に目を細めた京子は、満足気だ。
夕陽を見るには時間が早すぎるのでハートロックを見てから帰ることにし、再びカートに乗って駐車場に向かう。
連休中のハートロックには大勢の観光客がいて、SNSに載せるためか、様々なポーズで写真を撮る若者で、海岸に下りる細い道が混雑している。
風が強く、波の音が聞こえる中、京子が、「庄司さん、夕飯はどうします?」と、少し大きな声で訊いてきた。
「付き合ってくれるんですか?」
英昭も風に負けない声になる。
「もちろん!一日中運転をして貰ってガソリン代とか高速料金もかかっているし、しかも水族館とかの入館料も出して頂いたので、夕飯はあたし持ちで」
「そんな、川名さんにはランチを作って頂いたので、チャラですよ」
「どこか行きたい店とかあります?」
英昭の応えを無視するように、京子は砂浜から英昭を見上げた。
そこまで言われれば、英昭としても京子の好意を無にすることはできない。
「この間行った、栄町の串焼き屋とかはどうです?」
「ろだんですか?あそこは確か日曜日は定休日だったと思います」
「そうなんですか、それは残念。じゃあ何処かいい所あったかな……」
「良ければあたしが作りますよ。お酒のつまみ程度でしたら簡単ですよ」
「えっ、夜も作って貰えるんですか?それはありがたいけど、川名さんも疲れているでしょ?」
「あたしは横で寝ているだけですから全然平気です!それに、庄司さんの部屋も見てみたいし」
猫科の動物のような表情を見せて、京子が言った。
「還暦過ぎた爺さんのやもめ暮らしを見ても仕方ないですよ。それに散らかっているからなー」
英昭は、部屋に疚しい物が出しっ放しだったかを、頭の中で確認した。
「いいじゃないですか。那覇に着いたらどこかスーパーに行ってください。でも本当に簡単なものしか作れませんので……。調味料と、それとビールはありますか?」
「調味料は一通り揃ってると思うけど……必要なものを言ってみてください、なかったら買いますので。それとビールだけは切らさないようにしていますから大丈夫。但し、家ではスーパードライでオリオンビールはストックしていませんけど」
「スーパードライですか、あたしは沖縄ではオリオンビール党ですけど、スーパードライも好きです」
「さすが、呑兵衛だ」
英昭の行きつけのスーパーには、夕方六時過ぎに着いた。
英昭はスーパーのカゴを載せたカートを押しながら、京子の後をついて行く。
女性と二人で買い物をするのは久しぶりで少し照れくさい。それに、商品を手に取りながらカゴに入れていく京子が、何故か眩しい。
京子はレジで支払いをしようとする英昭を手で制した。
「ここはあたしが払いますから」
京子はグレーの財布から五千円札を出して、レジ係に渡した。
英昭は京子に礼を言って、膨らんだレジ袋を提げて駐車場に向かった。
マンションの駐車場に車を停め、五階の部屋に向かう。
玄関の鍵を開け部屋に入り、素早く窓を開けて空気を入れ替える。京子は物珍しそうに部屋を見回している。
「きれいにしてますねー。車の中がきれいだったから、多分部屋もキチンとしているんだろうなと想像していましたけど……。それ以上にちゃんとしていて、自分の部屋のことを反省しちゃいます」
「まだ新しいから……。とりあえずその辺に座って」
英昭はソファを勧めながら、買って来た食材をレジ袋から出してキッチンの空きスペースに並べた。
「あ、後はあたしがやりますから、庄司さんこそ座ってビールでも飲んでてください」
京子がキッチンに入ってくる。
「エプロンンとかないですけど大丈夫ですか?調味料はこのラックにあります。包丁とまな板はこちら、フライパン返しはこれです」
英昭は、料理に必要がありそうなものの位置を教えた。
「エプロンは大丈夫です。調味料も大丈夫そうですし……。とにかくあっちでビールでも飲んでてください。そんなに時間はかからないと思いますが、乾きものでもつまみながらゆっくりしてください」
京子は英昭の背中を押して、キッチンから追い出した。
「では、お言葉に甘えて、お先に失礼します」
英昭は冷蔵庫から取り出した缶ビールを一口飲んでから、ベランダに出て一服する。
久しぶりに長距離を走ったので少し疲れを感じているが、心地よい疲労感だ。
湿気の少ない穏やか風がカーテンを揺らしていて、エアコンの必要がないくらいの快適さだ。
リビングに戻ると、キッチンでは京子がフライパンで何かを炒めている。
電子レンジもうなりを上げて活動中だ。
沖縄の自分の部屋で、カウンター越しに女性が料理に奮闘している姿を見ることが出来るとは考えてもいなかった。
何がきっかけでこうなったのか、急な展開に自分でも驚くと同時に戸惑いも感じる。
「お皿類はどこですか?」
京子がカウンター越しに声をかけてきた。
英昭は食器の収納棚から何枚か取り出し、手がふさがっている京子が顎で示した皿と小鉢、ボウルなどをカウンターに置く。
それから薄はりのグラス二個を冷凍室に入れ、リビングのテーブルの上を片付け、百円ショップで購入したランチョンマットを二枚並べた。
「庄司さん、サラダドレッシングはどこですか?」
京子が換気扇の音に負けないような声で訊いてきた。
「冷蔵庫の一番上の扉を開けてみて」
「ビールばっかり!でも、冷蔵庫もキチンと整理されてて、あたしも見習わなくちゃ」
冷蔵庫の扉を開けた京子は、ドレッシングを取り出した。
英昭は出来上がった料理をテーブルに運ぶ手伝いをする。
ゴーヤチャンプルーにポーク卵、ツナサラダに電子レンジで温めた厚揚げ豆腐、それに余ったゴーヤで作ったおひたしが並んだ。
京子が昼とあまり変わらないメニューで申し訳ないと頭を下げた。
「そんなことないです、美味しそうですよ。先ずはビールでいいですか?」
並べ終わった料理を見て、英昭が目じりを下げながら冷蔵庫に向かう。
「もちろん!」
京子がソファから即答した。
英昭は冷凍庫で冷やした薄はりのグラスと缶ビールを持って、テーブルに落ち着く。
冷えたグラスに、慎重にビールを注いで京子に渡した。
「運転、お疲れさんでした!」
「料理、有難うございます!」
「あ、このグラス、凄く美味しい!」
一気にグラスを開けた京子が、声を上げた。
「グラスを飲んじゃ駄目ですよ」
「そういう事言うと、オジさんっぽいですよ」
「すみません。でも口当たりが良くなって美味しく感じるでしょ?」
爺さんっぽいことを言った照れを隠すように、英昭はグラスの飲み口を示す。
「ええ、グラスで味って変わるんですねー」
「酒、というより飲み物全般がそうだよね。お茶やコーヒーもそうだし、ワインなんかその典型でしょ」
「このグラス、高いんですか?」
京子は薄はりのグラスを額の辺りまで持ち上げ、グラスの底を見た。
「ひとつ二千円くらいだったかな」
京子のグラスにビールを注ぎながら英昭が応えた。
「えー、それって高いじゃないですか。庄司さんってリッチなんですねー」
「リッチって……グラスで評価する?残念ながらリッチな爺さんとは言えないなー。グラスも貰い物だし」
「彼女さんからですか?」
京子の彼女さんという言い方に英昭はドキっとした。確かに有香里が買って来たものだ。
「いえ、何かのお祝い返しで貰ったものだったと思うけど……」
英昭は言葉を濁した。
京子は「ふーん」と言って、疑わしい目で英昭に視線を向けた。
「このゴーヤチャンプルー美味いな。川名さんの味付けって絶妙です」
英昭はゴーヤを箸でつまんで、京子の視線を避けながら味付けを褒めた。
「ホントですか?やたらと褒めていただくと、なんか、却って疑っちゃいますよ」
「いえ、お世辞とか誤魔化しではなく、正直な感想です」
「素直にありがとございますって言っておこうかな」
ツナサラダを食べながら、京子が笑顔になった。
「ビールは沢山買い置きしてあるから遠慮なく。ゆいレールは確か十一時半くらいまであると思うので、好きなだけ飲んで下さい」
「そんなに飲めませんよ!それにここからだったら、タクシーでも千円くらいで帰れますからご心配なく」
そう言って、京子はグラスのビールを飲み干した。
「明日は休みですから遠慮はしませんよ!」京子は自分で冷蔵庫にビールを取りに行く。
「庄司さんは?」
ビールのお代わりの確認をしてきたので英昭が挙手をすると、京子は二本の缶ビールを持って戻ってきた。
京子は途中から焼酎のロックに代えて、飲み且つ良く喋った。
性格的に開放的なのか、酔いも手伝ってか、かなりきわどいところまで自身の話をする。
離婚した元旦那との馴初め、沖縄での結婚生活。
そして離婚に至った経緯などもあっけらかんと話す。
京子が離婚に至った原因はいろいろあったようだが、一番大きかったのは、夫婦に子供が出来なかったことのようだ。
中々子供を授からない嫁に対して、同居している旦那の両親、特に義理の母親からの干渉が耐えがたかったと、京子は憤慨しながら言った。
旦那に相談しても、本人も自分達に子供が出来ない事に不満を持っていたので、慰めの言葉もかけてくれない。
旦那は地元の気安さや友人が多いこともあり、外で飲むことが頻繁になった。
そして、お決まりのように旦那に女性が出来、夫婦仲が一気に冷えてゴタゴタした末に京子が家を出る形で離婚が成立した。
離婚を話し合っている時は、友人知人が少ない沖縄から実家に帰ることも考えたが、京子としてはその選択肢はハードルが高かった。
京子の両親は、いずれは沖縄に帰るつもりで東京では腰を据えて仕事をしようとせずに転職を繰り返していた元の旦那を、快く思っていなかった。
しかも遠く離れた沖縄で旦那の両親と同居することなど、絶対に良い結果にならないと、猛烈に反対をした経緯があった。
そのため、両親の反対を押し切っての沖縄での結婚式には両親は出席していない。
京子の親族は既に結婚している妹家族と、社会人になりたての弟だけが出席し、暫く両親とは連絡を取ることもなかった。
京子としては両親の猛反対を押し切っての結婚が駄目になったからといって、おいそれとは実家に帰ることが出来ない。
仕方なく、わずかばかりの慰謝料を持って那覇にアパートを借りて、バイトをしながらの生活を始めたのが十年前。
その後半年くらい経って、今の職場を知人に紹介してもらって何とか落ち着いたと、京子は苦笑交じりに話をしてくれた。
「庄司さんは何で別れたの?」
京子が、次はあなたの番よというように言って、自分のグラスに焼酎を注いだ。
こちらに話を振られたが、英昭は一言で説明するのが面倒で、ありきたりな性格の不一致だと話をそらした。
酔いのまわった京子はそれ以上深く詮索してこないので英昭はホッとしたが、話はおかしな方向へ展開していった。
「離婚してからお付き合いした方っていないんですか?」
京子が両手で持っているグラスの中で、小さくなった氷が乾いた音を立てた。
「まあ、離婚して一五年ですから、全くいなかったってこともないけど……。川名さんは?」
「あたしは全然って言ってもいいくらいありません!」
京子はグラスの残りを、小さくなった氷と共に口に放り込む。
焼酎は〈天使の誘惑〉で、アルコール度数は四十度と高いのに既に二杯目だ。
覚束ない様子で立ち上がろうとする京子を英昭は手で制止して、冷凍庫の製氷皿から取り出したキューブアイスをグラスに入れて、チェイサーのミネラルウォーターと一緒に京子の前に置いた。
「その人とはまだ続いているんですか?さっきのグラスもその人からでしょ?」
グラスに琥珀色の焼酎を注ぎ、カラカラと氷をグラスの中で回しながら京子は上目遣いで英昭に訊いてきた。
女性の勘の鋭さに、英昭は舌を巻く思いになる。
「いや、こっちに来る前に駄目に……なりました」
英昭も誤魔化すのを止めて、素直に言った。
「なんで駄目になったんですか?」
京子の追及に対する答えが、酔い始めている英昭の頭ではうまくまとまらない。
「なんでって……。簡単に言えば、家庭の事情もあって彼女がこっちに来たくないというか、東京を離れたくないって言うのが一番の要因かな」
「付き合いは長かったんでしょう?」
「十年位かな……」
「そんなに長かったのに一緒に来なかったんですか!」
京子の口調が少し非難めいてきた。
「だから、向こうも家庭の事情があってさ」
「彼女さんはおいくつですか?」
「一回り下だから……四十九かな」
「あたしとそんなに変わらないじゃないですか!」
言いながら、京子が氷をバリバリと齧った。
「いや、全然違うよ。川名さんの方がはるかに若いじゃないですか」
「たった五歳違いですよ!」
京子が手のひらを広げて、英昭の顔の前に示す。
「でも、家庭の事情は仕方がない……ですよね?」
後ろに反り気味に英昭は逃げた。
「他に理由があるんじゃないですか?」
トロンとした目で京子が追及してくる。
「他の理由って?」
英昭の頭の中も、酔いでグルグルと回り始めてきた。
「彼女さんに好きな人が出来たとか……」
「えっ!そんな事考えたこともなかったよ」
「ホントですかー?」
京子の目が据わってきている。
眼の表情が言葉を発するたびに変化して、まるで猫のようだ。
「十年も付き合ってるアラフィフの彼女さんが、そう簡単に別れたりするもんですか!」
「でも、そんな感じは全くなかったと思うけどなー」
英昭は天井を見ながら当時の事を思い出してみたが、京子の指摘したことに思い当たるものはない。
「男は分からないんですよ!庄司さんは仕事が忙しくて、彼女さんをかまってあげてなかったでしょ?このくらいの年になると、寂しくってかまってちゃんになることがあるんですよ!」
有香里の事を全く知らない京子から、英昭は責められている。
「川名さんもそうなることあるの?」
「大ありですよ!十年以上独りだし、実家には帰れないし……。この先どうなっちゃうんだろうって考えると、吐きそうになりますよ」
「気持ち悪くなったら言ってよ」
「酒酔いの話じゃないですよ!それにまだ酔っぱらってないし!」
京子は酔っ払い特有のセリフを言いながら、グラスに口をつけた。
「川名さん、少し水も飲んだ方がいいよ……」
京子の変貌に戸惑いながら英昭はチェイサーの水を勧めるが、京子はグラスを持っていない左手で、差し出されたチェイサーを制して続ける。
「大丈夫!って、なんの話だっけ?……そうだ、彼女さんの浮気の話でしたよね」
いつの間にか有香里が浮気をしていることになってしまっている。
有香里が聞いたら怒るだろうな、と英昭は間抜けなことを考えてしまった。
「庄司さん!彼女さんとアッチの方はどうだったんですか!ちゃんとしていました?」
京子から想定外の質問が飛んできた。
英昭は意味が分からず「アッチって?」と、呆けた表情になる。
そういえば、このアッチという単語、最近聞いた記憶があるが、酔った頭では思い出せなかった。
「アッチって言ったらアッチです」
さすがに京子も視線を下げて、小さめな声で応えた。
英昭は、質問の意味はそれで理解できたが、咄嗟には上手い回答が思いつかない。
「アッチですか……」
時間を稼いで、英昭は酔った頭ではぐらかす方法を考える。
「川名さん知らないですか?」
「なにを?」
「お父さんから聞いたことないですか?」
「なにを?」
トロンとした目で、京子は同じ言葉を繰り返した。
「娘には言いづらいから言わないか……」
もったいぶった口調で英昭は続ける。
「だから、なにを?」
少しイライラしている京子を見て、これから京子をどう送って行こうかなどと、英昭は脈略のないことが頭に浮かぶが、話を続けた。
「男は五十五歳になると、保健所から案内が来るんですよ」
「なんの?」
京子のボキャブラリーが極端に少なくなってきている。
国際通りでタクシーを拾って乗せれば大丈夫かなと、英昭は先程の続きが頭をよぎった。
「五十五歳になったら、健康のためにアッチは控えるようにと通知が来るんだ。それからは健康診断で、もうしていませんよねと問診で訊かれるから俺も五年前に止めたよ」
英昭はいつの間にか〈僕〉から〈俺〉になってきている。
「マジ?」
京子の口元に運んだグラスが一瞬止まる。
「マジです!男はそこで卒業するんです」
「えー!でも芸能人とか、六十歳過ぎてから子供が出来る人とかいますよね?」
「芸能人は話題作りとかの方が、健康より大事な場合があるんです。だから一般の人では聞かないでしょ?六十歳過ぎてから子供を作ったなんて、川名さんの周りでそんな話、聞いたことある?」
英昭は此処を先途と畳み込む。
「ないけど……じゃあ、男の人は五十五歳を過ぎたらアッチの処理はどうしているんですか?」
グラスをテーブルに置いて、京子は生徒が先生に質問するように訊いてきた。
「処理……処理って?」
予想もしていなかった質問に、英昭は戸惑う。
「男の人って、なんて言うか……良く溜まっているとか言うじゃないですか。溜まったものの処理はどうしているんですか?」
京子のストレート過ぎる質問に、「そ、そんな事……訊く?」と、英昭は言葉に詰まった。
「だって不思議じゃないですか。人それぞれで違うはずなのに、年齢が来たら一斉に溜まらなくなるなんてことないじゃないですか。しかも歳をとっても子供を作れる人もいるわけだし……。庄司さんはどうなんですか?」
京子は完全に好奇心の強い生徒になっている。
「どうなんですかって……。個人情報だからそんなこと言えない……ですよ」
英昭は早くこの話題から逃れたいが、話の転換の方法が思いつかない。
「個人情報ってなんですか?別にいいじゃないですか、話してくれたって」
京子には何がなんでも話してもらうよ、という気迫が出てきた。
「いや、これはかなりのトップシークレットだから。川名さんだってこの手の話を他人にしないでしょ?」
「あたし?そりゃあ、両親や兄弟にする話じゃないけど、でも親しい友達だったらしますよ」
京子は完全にこの話題にロックオンの状態だ。
「学生時代の話でしょ?社会人になったらそんな話、いくら親友だからといってしないでしょ?」
聞き分けのない生徒にてこずる先生のように英昭は言った。
「しないこともないですよ。女子会ではこの手の話は結構出ますよ」
「マジっすか!女子会ってそんな事まで話題にするの?」
「毎回じゃあないですよ!たまーにそういう話が好きな子がいると、ひょんな展開でそういう話になることもあるっていうだけです」
「ふーん。でも今日は女子会じゃあないし、一応俺も性別としては男だから女性にそんな話はできないよ」
ここは逃げの一手だ、と英昭は決めた。
「あたしは庄司さんとだったら、その手の話をしても大丈夫ですよ」
「いや、いいですよ無理しなくても。それはお爺さんにだったら話をしても恥ずかしくないって事だろうし」
この局面を逃げ切るのは大変だと、英昭は感じ始めた。
「庄司さんはお爺さんじゃないでしゅよ」
京子は少し呂律のまわらない口調で言った。
英昭はタクシーはマンション迄呼んだ方が良いかもしれないと思いながら言う。
「いや、正真正銘のジジイですよ……。それより、もう十時半だけどゆいレールで帰るのは無理っぽいからタクシー呼ぶ?」
「まだ十時半でしょ?明日は休みだから、もう少し……」
京子はグラスを持ちながら、英昭の肩に手をついて立ち上がろうとするが、よろけて顎を英昭の肩にぶつけてから、英昭に身体を預けるように倒れこむ。
グラスから小さくなった氷がこぼれ落ちたが、京子はそのままじっとしている。
英昭は京子の胸のふくらみを感じて頭の芯が熱くなり、久しぶりに腕の中に女性を抱く格好になって、『やっぱ、柔らかいな』と思った。
倒れこんだまま、京子が真っ直ぐに英昭を見つめている。
京子の視線を見返しながら、英昭は「なんかさ……」と、囁くように言った。
京子は目をそらさずに「なーに?」と、応える。
「急に……なんて言うか……、処理したくなって来た……」
英昭は、京子に顔を近づける。
「あたしも……。なんか……処理したいかも」
京子は自ら倒れこむようにしながら、英昭の背に回した手に力を入れてきた。
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