第4話

 結局、母親と姉夫婦に対する孝行はせず、飲んでばかりの上京を終え、英昭は成田空港のLCC専用の搭乗口のソファでスマホのニュースを見ていた。

「あら、こんにちは」

 突然、女性の声が二日酔い気味の頭の上に降りてきた。

 視線を上げると三線のサークルに参加しているカワナと名乗る女性が、黒いリュックを背負って立っていた。

「あー、偶然ですね。こっちにいらしていたんですか?」

 英昭はソファにカワナが座れるスペースを作るために腰をずらした。

「遅い夏休みで里帰りです。庄司さん……でしたよね?」

 英昭が頷くと、「庄司さんは?」と、カワナはソファに座りながら訊いてきた。

「僕もちょっとした里帰りです」

「お一人ですか?」

「はー、恥ずかしながら……」

 英昭はスマホをバッグに仕舞い、自嘲気味に頷いた。

「あ、いえ、そんなつもりで訊いたんじゃないんです。あたしも一人ですし」

 カワナはマニュキアと指輪をしていない白い左の手を顔の前で振った。

「夏休みというと、沖縄ではお仕事を?」

 英昭は、清潔感のあるカワナの表情を眩しそうに見た。

「はい、調剤薬局で働いています。庄司さんは、沖縄では?」

「プータローで、何もしていません」

「悠々自適ですか、羨ましい!」

「まだ引っ越して三か月めですし、一応定年退職したばかりなので、暫くはのんびりしようかなってところです」

「定年って、失礼ですけどそんなお歳には見えませんけど」

「正真正銘の還暦の爺さんです」

「えー!ビックリです。まだ五十代、しかも前半にしか見えませんけど」

「本当ですか?そんなこと言われたら、何か奢りたくなっちゃいますよ」

 英昭は、お世辞ではなさそうなカワナの言葉が嬉しくなり、珍しく饒舌になった。

 また、カワナという女性の気さくな雰囲気が、英昭の口を軽くしているのかもしれない。

「お世辞なんかじゃないですよ。サークルの女性陣の間でも、新しく入ったあの人いくつくらいかしらって話題になっていて、五十代前半が大半の意見ですから」

「そんなことになっているんですか?まだ皆さんと話をしたことがないので、怪しげなオッサンと思われているんでしょうね」

「それはないですよ。このところ男性の入会者がいなかったので、お姐さん達が興味を持ったんじゃないですか」

「そんな……。ところで、失礼かもしれませんがカワナさんはどのように書くんですか?」

 英昭はカワナの話が照れくさくなり、話題を変えた。

「三本川の川に名前の名です。下は京都の京子です」

「川名京子さんですか。沖縄の苗字ではないですよね」

「生まれは東京ですけど、今、実家は埼玉の草加です」

「伊勢崎線……あ、今はスカイツリー線でしたっけ?」

「東京スカイツリーラインです。私が沖縄にいる間に、新しく路線の愛称になったみたいですけどね」

「沖縄は長いんですか?」

「もう十五、いえ十六年になります」

 京子は視線を上にあげて頭の中で計算してから、英昭に黒目がちな瞳の視線を戻した。

「長いんですね。もう立派なウチナーンチュじゃないですか」

「でも、ウチナーグチは全く分かりませんけど」

「僕の周りでは気を遣ってくれているのか、ほとんどウチナーグチは聞きませんけどね」

「そうですね。那覇辺りだとあまり聞きませんね……」

 その時、搭乗口のPAから『混雑防止のため、後方座席のお客様からご搭乗頂きます』と、アナウンスがあった。

「あの、あたし、後ろの方なのでお先に失礼します」

 京子は自分の搭乗券を確認し、立ち上がって搭乗口に向かった。

 前方座席の英昭は「お気をつけて」と言って、手を振る川名京子を見送った。


 那覇空港には到着予定時刻の一八時より少し遅れて着陸した。

 前方通路側座席の英昭は小型のキャリーバッグを持って、冷房の効いた空港ビル内に入った。

 自動販売機で缶コーヒーを買ってから、手荷物受取所の手前にある喫煙室に入る。

 着替えだけの軽装備で預入荷物がないので、ターンテーブルの周りで自分の荷物が来るのを待っている大勢の旅行者を、ぼんやりと眺めながら一服した。

 到着口を出てエスカレーターを使ってゆいレールの駅に向かう。

 空港の建物から出た瞬間、湿気のこもった生暖かい沖縄の空気に包まれた。

 旅行で来たときはこの空気に『沖縄に来たなー』と感じたが、これからは『帰ってきたなー』と思うようになるのか。今の英昭は、まだ前者なのでウチナーンチュになるには程遠い。

 切符の買い方に慣れない旅行客で、切符売り場はいつも通りに混雑している。

 ようやく順番が来てから切符を買ってホームに上がると、始発の駅には二両編成の車両が既に入線していた。

 英昭は前方の車両の空いている席に座ってスマホをチェックしたが、LINEやメールの受信はなかった。

 手持無沙汰にニュースを見ながら夕飯をどうしようかと考えた。

 七時前には部屋に着きそうなので、久しぶりに県庁前駅近くのKFCでチキンとコールスローサラダを買って帰ろうと決めた。

「また会いましたね」

 頭上から女性の声がした。

 英昭が顔を上げると、目の前にシルバーのキャリーバッグを横に置いた、川名京子が立っていた。

「横、良いですか?」

 京子がえくぼを見せながら、英昭の横のスペースを見た。

「あ、どうぞ」

 英昭は右隣の人に頭を下げてから隙間を埋め、左側に少しスペースを空けた。

 キャリーバッグの持ち手を収納しながら京子は隣に座り、花柄のフェイスタオルで軽く額の辺りを拭きながら英昭に視線を向けた。

「庄司さんはどちらまで?」

「県庁前です。川名さんは?」

「あたしは安里です」

「安里ですか、駅から近いんですか?」

「そうですねー、私の足で十分ちょっとです」

「それならキャリーを引きずっていても、それ程大変ではないですね」

「どうってことないですよ。いつも通勤で二十分以上歩いていますから」

「通勤に二十分ですか?暑い日とか雨の日は大変じゃないですか……」

 モノレールがゆっくりと動き出したので英昭が車内を見ると、大きなキャリーバッグを持った観光客で一杯になっている。

「東京と違ってこっちではそれくらい平気で歩きますよ。車を持っている人は別ですけど」

「そう言えば、自転車に乗っている人ってあまり見かけませんよね」

「那覇は結構坂が多いんですよ。だから自転車だとキツイですよね。乗っているのは子供や学生がほとんどじゃないですか。たまにオジイが倒れるんじゃないかと思うくらいゆっくりと自転車を漕いでるのを見ますけど……。それと夏は直射日光が強烈ですし、時々スコールもありますからね」

 英昭が京子の話に頷いていると、モノレールは奥武山公園おうのやまこうえん駅に着いたところだ。

「川名さん、真っ直ぐに帰られます?」

 部屋に着いてからの夕飯のことを思い出した英昭は、自然な感じで京子の予定を確信した。

「いえ、なにか?」

「もしお時間あるようでしたら夕飯って言うか、ビールでも飲んで行きませんか?」

「明日は遅番なので時間はありますけど……。どこか知っているお店とかあります?」

「久茂地に安くて美味い焼鳥屋があるんです。金城さんに連れてってもらって、それから何回か行ったことがあるんですけど」

「あ、〈青空〉ですね?〈あおぞら〉と言うと、ブルーハーツ好きのマスターが〈あおいそら〉ですって訂正する……。四・五回行ったことがあります。最初は庄司さんと同じで金城さんやサークルの人達と行ったんですけど、その後は薬局の人達と行きました。このところご無沙汰しちゃっていますけど」

「知っているんですね?あそこのマスター結構面白いですよね。普段はそれ程おしゃべりじゃないけど、ブルーハーツの話をすると思いっきり饒舌になって。ブルーハーツを好きなのは間違いないですけど、本当に好きなのは真島昌利で、歌詞がいいんだって心酔していますから。店の看板も〈青空〉の下には小さくあおいそらってルビを振っていますよ」

 二人で、そうそうと言うように笑った。

「じゃあ、少しだけお付き合いします」

 京子はチラッと腕時計を見て、英昭に魅力的なえくぼを見せた。

「そうですか!じゃあ県庁前で降りましょう」英昭は指を鳴らしたが、プスっというショボイ音しか出なかった。


 〈青空〉は日曜の夜七時になろうとしているのに、先客はカウンターでチューハイを飲みながら焼鳥を食べている中年の男性客だけだった。

 英昭と京子はキャリーバッグを店の隅に寄せてから、先客から少し離れたカウンター席に座った。

「いらっしゃいませ……。あれ、お二人で……あー三線のサークルで一緒ですよね」

 マスターがおしぼりを出しながら、合点したように頷いた。

「空港で一緒になって。あ、俺は生。川名さんは?」

「私も生ビールをください」

「ありがとございます。焼き物はどうします?こちらで適当にお出ししますか?」

「川名さん、なにか食べたいものがあればどうぞ」

 英昭はおしぼりで顔を拭きそうになったのを思いとどまり、卓上のメニューを京子渡す。

「いえ、マスターのお任せで」

 受け取ったメニューを横に置いて、京子はマスターに頭を下げた。

「じゃあ、マスターにお任せするよ」

 おしぼりで手を拭きながら、英昭はマスターに頷いた。

 ヒョロリとした痩身に坊主頭のマスターも、神奈川県戸塚市からの移住組だ。奥さんと小学校に入ったばかりの娘さんがいるらしい。

 お通しのゴーヤのおひたしをカウンターに置くと、マスターはビールサーバーに向かった。

 冷えたオリオンビールのジョッキが届くと、乾杯の仕草だけして英昭はビールを喉に流し込む。

 東京に帰ってから飲みっぱなしだな、という意識が頭をかすめるが、サラリーマン時代に比べれば飲む量が減っているから良しとした。

「美味しいー。やっぱ沖縄で飲むビールはオリオンですねー」

 京子が三分の一程空いたジョッキを、カウンターに戻した。

「川名さん、いける口ですねー」

「あ、いけない!つい……」

「いいんですよ。飲みっぷりがいいんで感心しただけです」

「お恥ずかしい限りで……」

 そう言いながら、京子は更にジョッキのビールを飲む。

 ジョッキの中のビールはもう四分の一だ。

「あたし、ビールが大好きなんですよ。ワインとか焼酎割とかはお付き合いで飲みますけど、部屋で飲むときはビールがメインです」

「僕も同じです。一時期焼酎に凝ったことがありましたけど、今はビールがメインで、たまに焼酎を飲むって感じです」

「レバーとカシラ、ササミです」

 マスターが二人の前に焼き上がった焼鳥を置いた。

「川名さん、ビールをお代わりして下さい……。マスター、生二つ」

 英昭もジョッキを空けた。

「すみません……。レバー、美味しいー」

 京子は自分で七味をかけた串を平らげていく。

「遠慮しないで頼んでください。明日の仕事に影響しない程度にですけど」

 英昭は、京子の健啖ぶりに驚きながらも、笑顔になった。

「はい。こうなったら遠慮しませんので」

 京子も食べ終えた串を、目の前の筒状の串入れに入れながら笑顔で応えた。

 追加の生ビールが届き、英昭も焼鳥の串を持つ。備長炭で丁寧に焼いていて美味い。

「庄司さん、変な事を聞いて申しわけないんですけど、こちらにはお一人で来て、ご家族は東京ですか?成田で恥ずかしながら一人ですみたいなこと仰ってましたけど」

「実はバツイチなんですよ。独身に戻ってもう十五年になります」

 突然の質問に少し戸惑ったが、英昭は正直に応えた。

「えっ、そうなんですか。すみません、変な事聞いちゃって……。でも、バツイチ同士ってことで、勘弁してください」

 京子は悪戯が見つかった子供のように、頭を軽く下げた。

「えっ、川名さんもバツ組ですか?」

「ええ、あたしも十年選手です」

「そうですかー。でもまだお若いし、きれいだし、まだまだこれからですよね」

 京子が離婚経験者と聞いてビックリしたので、英昭はトンチンカンな事を返してしまう。

「きれいだなんて……それに若くもないし、今年で四十五になりますから」

「嘘でしょ!僕は三十代前半かと思っていましたよ。冗談でしょ?」

「正真正銘、来月で四十五になります」

「どう見ても三十代にしか見えませんよ!」

「そんなに言ってもらうと、あたしも庄司さんに奢りたくなっちゃいますよ」

「それはありがたい!でも、分からないもんですねー、特に女性の年齢って……。僕みたいな爺さんになると判断基準が怪しくなるので、余計にね」

「庄司さんだって、どう見ても六十歳には見えませんよ。髪は黒いし……」

「白くても本数の多い方が良いですけどね。でも、バツイチで年齢不詳が共通項ってことで、これからも時々お付き合いください」

「こちらこそよろしくお願いします」

 二人はジョッキを軽くぶつけて、乾杯をした。


 生暖かく湿気が混じった不快な部屋に入って掛時計を見ると、九時になろうとしていた。

 英昭は玄関でキャリーバッグのホイールをボロ雑巾で拭いてからリビングに入り、キャリーバックから洗濯物を取り出して、洗濯槽に放り込んだ。

 窓を開けてじっとりと澱んだ空気の換気をしている間に、台所、洗面台、風呂場の排水口のラップを取った。

 移住組の松本から聞いた限りでは、沖縄のゴキブリは大きくて人間に向かって飛んで来ることもあり、本土のゴキブリとは比較できない化け物だと脅されている。

 奴等の侵入口は様々だが、排水口からの侵入も多いと言うのが松本の見解で、暫く家を空けるときは排水口にラップをしてゴキブリの侵入を防ぐのが効果的との助言だった。

 しかし、横で聞いていた長嶺は、今の排水管は排水トラップ型になっているので、新築マンションなら大丈夫とプロならではの見解を述べた。

 英昭としては、若干気になるので臭い防止も兼ねて、松本のアドバイスを試してみることにした。

 効果の程は不明だが、ゴキブリが飛んで襲ってくる気配や、排水管から嫌な臭いは今のところない。

 換気を終え、エアコンのスイッチを入れたときにスマホが鳴り出した。

 着信の表示を見ると、隆志からなので電話に出た。

「庄司さん、もう帰ってきたー?」

「たった今部屋についたところです」

「そうね、じゃあお疲れだねー」

「部屋に帰る途中で〈青空〉に寄って一杯やってきましたけど、そんなに疲れはないですよ」

「マスター元気だった?最近行ってないさ……じゃあ、今日はもう出て来れないよね?」

「大丈夫だけど、なにか?」

「前から庄司さんに紹介したいのがいて、今そいつと一杯やっているんさ。美栄橋の近くだけど」

 少し迷ったが〈青空〉では飲み足りない感じだったので、行きますと隆志に返事をした。

 素早く荷物を片づけて、エアコンのスイッチを切ってからサンダルを履く。

 英昭が指定された美栄橋駅近くにある居酒屋に入ると、隆志と向き合う席に丸顔で額のかなり上まで後退した髪を後ろで縛った、隆志と同年配の男が座っていた。

「従兄弟の金城紀之のりゆき。皆、ノリ坊って呼んでるさ」

 隆志が大きめのセルフレーム眼鏡をかけた男を、英昭に紹介した。

「金城紀之です。よろしく」

 紀之が立ち上がり、英昭に握手を求めてきた。

「庄司です。こちらこそ宜しくお願いします」

 英昭も手を握り返し、隆志の横に座った。

「前に庄司さんの話をしたら一度紹介してくれっていうので……。今日も飲んでたら庄司さんの話になったのさ。それで、もう東京から帰って来ているかなーと思って電話したわけさ。しかも今日の飲み代はノリ坊持ちやっさ」

「隆志から、東京から来た面白い人と友達になったって話がだいぶ前にあって……。僕も三年前にこっちに帰ってくるまで東京にいたので、一度お会いできればと、隆志に頼んでいたんですよ」

 紀之が人の良さそうな目を細めた。

「なにが僕だよ!格好つけるなって。庄司さんもタメ口に中々ならないし、ヤマトゥンチュはダメだねー。」

 隆志は既に酔い気味だ。

「金城さん……」と、英昭が紀之に話しかけると、隆志が頭をもたげた。

「ノリ坊でいいよ!金城だらけで、誰のことかわからんさ」

「ノリ坊でいいですよ。隆志が言うようにこれからはタメ口でいきましょう」

 紀之が、眼鏡の奥の優しい目を細めて笑った。

「はあ、徐々に慣れるようにしますが、当面は紀之さんで……」

「そうですね。僕、いや俺も庄司さんって呼びます」

「呼び捨てでいいですよ」

「こっちも慣れるまで……。何飲みます?」

「生ビールを」

 英昭が言うと、二人のやりとりを聞いていた隆志が呼び出し用のボタンを押す。

 隆志は席に来た店員に、英昭の生ビールと自分用のハイボール、それとフーチャンプルを注文した。

「きん……紀之さんはこちらの出身ですか?」

 危うく金城さんと言いそうになったが、訂正して英昭は紀之に訊いた。

「中学までは。高校から東京で、それからずっと東京暮らしで、こっちには庄司さんと同じ六十歳で帰ってきました」

「だからイントネーションが沖縄っぽくないんですね」

「こいつは裏切り者さー。ヤマトゥンチュに魂を売って、ウチナーンチュの誇りを捨てたのさ」

 隆志が笑って、焼鳥に食らいつく。

「なんで沖縄に帰って来たんですか?」

 英昭が紀之に訊くと、紀之が口を開く前にすかさず隆志が話し出す。

「庄司さんと一緒で、ノリ坊もバツイチさ。散々女遊びをして家に帰らず、女の部屋で脳梗塞で倒れて病院に担ぎ込まれたんだからさ。奥さんも怒るさー」

 あっけらかんと言って、隆志は大笑いした。

「マジすっか?」

 英昭は驚いて、ついくだけた口調になった。

「やめろよ、隆志!いきなり……そんなこと言うなよ」

 紀之は少し顔を赧らめながら隆志に抗議した。

「だからよー、事実だろうが」

「病気の方は大丈夫だったんですか?」

 隆志の酔いが本格的になってきたので、英昭は隆志を無視して続けた。

「幸いにも後遺症は軽かったので……。もちろんリハビリは辛かったですけどね。退院してからが修羅場で、家庭はもう戦場でしたよ」

「でしょうねー」

 その場を想像するのも恐ろしいと、英昭は軽く身震いした。

「入院中に離婚を切り出され、退院しても家には居場所はなく、もちろん女の家にも行けないので実家のある那覇にとりあえず避難したのが三年前。実家といっても両親は亡くなっていて、今はすぐ下の弟家族が住んでいますけどね」

「弟っていうのが信幸さ」

 隆志がハイボールのグラスを空けながら喚いた。

「えっ!そうなんですか?信幸さんとは以前から知り合いで、こっちに来てからもいろいろとお世話になっています」

 英昭は、紀之の顔をまじまじと見た。

「そうなんですってね。信幸からも庄司さんの事は聞いています」

「全然知りませんでした……。でも良く見れば、目元と顔の輪郭は似ているような気もします」

 英昭は言われてみれば、といった思いで再び紀之の顔に視線を向けた。

「で、すったもんだの末に離婚が成立し、一応小さいながらも商売をしていたんですが、息子が継がないというので清算して向こうに渡して。当座の生活費だけ……ほんのわずかですけどね……持ってこっちに帰ってきました」

「今も信幸さん家族と一緒ですか?」

「いえ、幸い親父が持っていたマンション、と言っても古いんですけど、そこでやもめ暮らしです」

「そうなんですか。じゃあ、バツイチ同士仲良くやりましょう」

 英昭は言いいながら、今日は京子といい、バツイチと良く出会う日だと、変な気分になった。

 酔いつぶれる寸前の隆志は船を漕ぎだし、ハンチングが落ちそうになっているので、英昭は紀之と二人で話をしながら飲んだ。

 紀之の商売とは、宝飾品の製造と卸販売で、隆志が東京で勤めていたのがこの会社だそうだ。

 元々は紀之の父親が沖縄でサンゴの加工品を製造販売する会社を経営していて、本土復帰以降沖縄県外での取引が増え、東京の御徒町に支社を設立して卸売りを始めた。

 その後、紀之が大学を卒業して会社を継いでからは本社を東京に移し、取り扱う商品もダイヤや色石、金やプラチナの枠と拡大した。

 会社はバブル期までは順調だったが、バブル崩壊後はかなり苦労しながらの経営になったようだ。 

 それでも紀之は文京区に一軒家を構え、高級外車を所有していたらしい。また、飲み屋通いを続け、金払いが良く断れない性格もあって、女性関係もそれなりに充実していたようだ。

「庄司さんはなんで沖縄に?」

 自分の半生を話し終えて、紀之はフーチャンプルをつまみながら、英昭に訊いた。

「良く訊かれるんですけど、これといった理由はないんですよね。離婚してからは引っ越し癖がついてしまって、二年に一度の部屋の更新ってしたことがないんですよ。沖縄に来たのもその延長線上みたいなもんですかね」

「どうしてそんなに引っ越すんですか?」

「どうしてですかねー?でも、引っ越し先を探すというか、調べている時って結構楽しいんですよ。特に今迄行ったことのない街の下見は。住んでいる人達や街の雰囲気、商店街とか飲食店、通勤で使う路線とか電車なんか新鮮に感じて面白いですよ」

「でも、引っ越しって金もかかるし、面倒じゃないですか」

「費用面はそうですね、でも海外旅行に行ったと思えばね。旅行はせいぜい一週間とかですけど、引っ越しは下調べから住んでいる期間楽しめますし……。ただ、確かに引っ越しの作業は面倒ですけどね」

「Mですか?」

 下から覗くようにして、紀之が打ち解けた笑顔になった。

「あー、意外とそうかも」

 英昭は自嘲気味に笑った。

「誰がMだって!」

 この手の話が大好きな隆志が、むくっと顔を上げた。

 かなり酔いが回ってきているが、隆志の家はこの店から歩いても三分はかからないので安心だ。

「お前はドSだな」

 紀之が隆志に割箸の先を向けた。

「ドSでなにが悪い!ノリ坊は超ドMだろーが。カミさんにオン出されても文句一つ言わずに、尻尾をまいてこっちに帰って来るくらいだからな」

「文句の言える立場じゃなかったんだよ」

 紀之は俯いて、フーチャンプルの残りを箸でつまんで口に入れた。

「だからよー……」

 隆志はウチナーンチュ同士の会話に頻繁に出てくる言葉を叫んで、後の言葉を言わずに再び船を漕ぐ。

「で、どこまで話をしたっけ?」

 紀之は頭を下げて目を瞑った隆志を横目に見てから、英昭に顔を向けた。

「なんでしたっけ……?そう、沖縄に来た理由。要するに移住とか、そんなに重いことじゃなくて単なる引っ越しですよ。少し遠いですけどね。でも、家無し、家庭無しの僕にとっては、国内ならどこでもいいんです。ただ歳も取ったので、雪下ろしのある寒いところは避けたいので、暖かい沖縄にしたってことですかね」

 英昭は応えながら、温くなり始めたビールを飲み干した。

「東京近辺とかは考えなかった?」

「そうですねー。東京近辺に居たら環境の変化はないですよね?友人や知人も沢山いるので付き合う範囲も変わらないまま限定されるし」

「じゃあ、また一・二年したら何処かへ引っ越すわけ?」

 紀之は空になった英昭のジョッキを見て、呼び出しボタンを押した。

「今のところそれは考えてないです。歳とって結構面倒くさくなってきているし、金もないし……沖縄県内の引っ越しはあるかもしれませんけど」

 その後、英昭と紀之はバツイチ同士の共通の話題や、東京や音楽の話で盛り上がった。その間、隆志は軽いいびきをかいている。

 約束通りに紀之が勘定を済ませ、寝ていた隆志を二人で引きずるようにして、家まで届けた。

 紀之のマンションは赤嶺駅近くなので、英昭は今夜の礼を言い再会を約束して美栄橋駅で別れた。


 京子とは翌週の三線サークルで会ったが、古株のお姐さん達に変な誤解をされたくなかったので、英昭は軽く会釈だけをした。

 〈青空〉で飲んだ時にLINEのIDを交換したが、まだお互いにやり取りはしていない。やはり十五歳近い年齢差があるので、こちらから連絡をするのに躊躇してしまう。

 サークルの終了後はいつものメンバーで、いつものように川沿いでゆんたくおしゃべりをした。

 部屋に帰ってスマホを見ると、京子からLINEが来ていた。

『先日はご馳走様でした。今度の土曜日の夕方は、何か予定はありますか?』

 十一時を過ぎていたが、電話ではないので『ヒマですよ』と返すと、直ぐに返信があった。

『新都心に落ち着いた店があるので、一杯行きません?』

 ビールジョッキのスタンプが一緒だ。

 英昭も『OK』のスタンプを返す。

『夕方六時に、おもろまち駅の改札口でいかがです?』と、京子から直ぐに返信が来た。

 英昭は、パンダが敬礼をしている『ラジャー』のスタンプを返した。

 

 英昭がおもろまち駅の改札口を出たところで待っていると、京子は改札口ではなく、国道三百三十号線から上ってくるエスカレーターを使ってやってきた。

「こんにちは!待ちました?」

 今日もネイビーのTシャツにジーンズといった軽装だ。

「いえ、今のモノレールで着いたところです。川名さんはどちらから?」

「あたしは家から歩いて来ました。家から十五分くらいなんですよ」

「そうなんですか?」

「ゆいレールって、こうクネクネと曲がっているので、ある意味二駅か三駅くらいを利用出来たりするんです」

 京子が身振り手振りで路線の曲がり具合を表現する。その仕草はとても四十代半ばには見えない。

「お店は近いんですか?」

 階段を下りながら、英昭は横にいる京子に訊いた。

「メインプレイスのちょっと先です。ダイニングバーなんですけど、結構料理が美味しいんですよ」

「何系ですか?」

「さー、和食っぽいのもあるし、エスニック料理もあるし……。創作料理って感じですかね。でもお値段はリーズナブルですよ。あと、団体客がいないのでうるさくないし」

 京子は、身長差のある英昭を見上げながら説明した。

 〈バル・おもろ〉は、メインプレイス近くのビルの一階にあった。

 店に入ったところに七・八人が座れるカウンターがあり、その奥にテーブル席が四卓ある。英昭と京子はまだ先客のいないカウンター席に案内された。

 ビール好きの二人は当然のように生ビールを頼み、料理は分厚いメニューから京子が選んで注文した。

 生ビールが届いて軽く乾杯をし、英昭は京子に断ってからタバコを喫う。

「今日は何時まで仕事だったんですか?」

 京子の方にタバコの煙がいかないように注意しながら、英昭が訊いた。

「今日は土曜日なので、午前中までです」

「半ドンですか……。あ、半ドンってわかりませんよね?」

「わかりますよー、昭和の人間ですから。それに、沖縄ではまだ完全に週休二日制のところって大手以外は少ないですし」

「そうなんですか」

「あたしのところも薬局ってこともあって日曜祝日以外は営業していますからね。水曜日は一八時まで、土曜日は午前中まで、他は八時から夜の七時半までが営業時間ですから」

 京子は指を折って曜日を示すように、英昭に話した。

「結構ハードですね」

「あ、でも水曜と土曜以外は早番と遅番がありますので、今はやりのブラックな職場じゃないですよ。でも、こっちはお給料が安いですけどね」

 京子は白い歯を見せて笑った。

「そうみたいですね。この間も国際通りの土産店のアルバイト募集広告の時給を見て、修学旅行生が、安っ!って叫んでましたから」

「働かなくてもいい庄司さんが羨ましいですよ」

「いえいえ、結構カツカツで余裕はありませんけど」

「こっちには長くいるんですか?それとも、いずれは東京にお戻りになるんですか?」

「全く決めていません。元来、同じ場所に居られない性格で、独り者になってからは二年に一度、引っ越しをしていましたから」

「引っ越し魔なんですか?」

「周りからはそう呼ばれています。ただ、もう歳ですし、引っ越しは体力と経済力が必要ですから、そろそろ落ち着かざるを得ませんけどね。川名さんはどうなんです?もう一六年になるとかこの前仰ってましたけど」

「そうなんですよね。気が付いたら人生の三分の一以上こっちに居ますからね。この間実家に帰った時も、母親からどうするんだってうるさく言われちゃったし」

 京子は残り少なくなったジョッキを手で弄びながら、ため息をついた。

「東京より沖縄の方が住みやすいですか?」

 英昭はタバコを灰皿に押し付けて、隣に座っている京子を見た。

「それは住むだけだったら断然沖縄の方が良いですよ。こっちの習慣とか人付き合いにも慣れてきたし」

「こっちでは何をしていたんですか?」

 英昭が何気なく訊いた時、一瞬、京子の横顔が陰ったように見えた。

「いや、別に詮索するつもりはないですから……。すみません。変な事訊いちゃって」

 英昭は慌てて頭を下げた。

「別に構いませんよ……」

 京子は表情を和らげ、ビールを飲み干して続けた。

「こっちに来たのは結婚のためです。旦那が名護の出身で……。知り合ったのは東京ですけど、結婚を機に旦那が実家の仕事を継ぐ準備もあってこっちに来ました」

「そうなんですか」

「で、この間お話したように離婚ってなるんですけど、これにはいろいろと込み入った事情があって……」

「あ、いいですよ、そんな立ち入った事まで仰っていただかなくても」

 英昭は妙な展開に戸惑ってしまう。

「別にそんなに深刻な事じゃないんです。ホント、ありふれた話で……。でも、まだお会いして間もない庄司さんは、そんな事聞かされても堪りませんよね」

「いえ、こんな爺さんで良ければいくらでもお聞きしますよ。愚痴を聞くのは慣れていますから……。ただ、なんの役にも立ちませんけど」

 英昭は、注文した料理がカウンターテーブルに並ぶのを機に、話題を変えた。

「ところで、休みの日とかは何をしているんですか?」

「あたしですか?さっきも言ったように、丸々休めるのが日曜と隔週での水曜日だけですので、掃除洗濯などを午前中にして、午後からお友達とおもろまちや国際通りに出かけるか、疲れていたら家でテレビを観たりするくらいですね。車を持っていないので、行動範囲がかなり限定されちゃいます」

 京子は届いたバーニャカウダのセロリを口に入れた。

「以前、銘苅の量販店でお会いした時に、年配の方とご一緒でしたよね?」

「あー、あの方って言うのも変なんですけど、あのオジイは同じアパートに住んでる人です。車を持っているので、時々買い物をする時に乗せてってもらうんですよ」

「そうなんですか。でも確かに車がないと不便ですよね。バスは多いですけど路線が複雑でさっぱり分からないし」

「なので、あたし結構沖縄で行っていない所って多いんですよ。古宇利島にも行ったことがないし。結婚している時はまだ橋が架かっていなかったので、元の旦那に連れて行ってもらう機会がなかったっていうのもあるんですけど」

「それだったら今度僕が案内しますよ。他にも行きたいところがあれば遠慮なく」

「ライカムのショッピングモールは出来たのは知っていますけど、まだ一度も行けていないし、美ら海水族館にも暫く行っていないので行ってみたいかな」

「いいですよ、その代わりこんな爺さんと一緒ですけどね」

「全然!こちらこそ、そろそろ更年期に入るオバサンですから……。あとは、美浜のアメリカンビレッジとか、海の見えるカフェとか、行きたい所があり過ぎて困ります」

 京子は、それが癖なのか、また指を折りながら話す。

「南部のカフェならいい所知っていますから、お任せください」

「本当ですか!遠慮なくお言葉に甘えちゃいますよ。何しろ図々しいオバサンですからね!」

 京子は二杯目のジョッキを傾けて明るく笑った。

「ご都合の良い時に声をかけて下さい。毎日ヒマですから断ることはないと思いますので」

「水曜か日曜になっちゃいますが……今度の日曜はサークルのボランティア活動があるから駄目ですけど……。庄司さんは行かれるんですか?」

「僕は初心者で、演奏するレベルには程遠いので行きませんよ」

「踊るだけの人もいますけどね」

「いやいや、踊りなんていったら、もっと駄目ですよ」

 英昭は手を振った。

「その後は、多分バーベキューですけど」

「あ、それは隆志さんと長嶺さんからお誘いを受けました。でも、ボランティア活動には参加しないで、飲み会だけ参加っていうのもどうかなと思って遠慮しました」

「そうですかー、残念ですね。でもバーベキューはまだこの先も開催されますので、その時に参加してみたらいいと思いますよ。結構楽しいですから」

「もちろん、その際は参加しますよ」

「となると……来月ですかね」

 京子はスマホのカレンダーを見始めた。

「あー、九日・十日と連休になりますね。このどちらかにお願いしてもいいですか?」

「来月の九日か十日ですね。大丈夫ですよ」

「では、近くになったら連絡します」

「行きたい場所も決めておいてくださいよ」

「はい!久々に楽しみが出来たー!」

 京子が伸びをするように万歳の格好をする。それ程大きくない胸が強調されて、英昭は少しドキッとした。


 その後、京子とはドライブ前に二度飲みに行った。今度はこちらから誘ってみようと一週間程経った頃にLINEをし、英昭の部屋の近くの居酒屋で飲んだ。

 二度目は京子から連絡があり、彼女がお気に入りの、安里駅近くの栄町にある串焼屋に行くことになった。

 店はカウンター席と、奥に四人が座れるテーブル席だけの小さな店だ。

 床がべとついていて壁に貼っている品書きも煤けていて、正直清潔感とは程遠いが、二人が入った時には既に満員の盛況だ。

 何回か来て混み具合を知っている京子が予約をしていてくれたので、二人は二席だけ空いているカウンター席に座ることが出来た。

 この店は串焼きの注文方法が独特だ。カウンターの上にある大皿に盛ってある数種類の串を打たれた食材から客が好きなものを選んで、店主がいる焼き場の前まで持って行き、そこの焼き台で焼いてもらうシステムだ。

 炭火で焼き上がった串焼きは、皿に敷かれたキャベツの上に盛られて供される。

「いい店ですねー」

 冷えたビールを一口流し込んでから、英昭は感謝を込めてジョッキを掲げた。

「でしょ?最近は観光客も増えてきて、週末は予約をしないと入れないんですよ」

 京子が話しているとガラス戸を開けて二人ですがと聞いている客に、店主がバツ印に腕を交錯した。

「串焼きの注文方法もユニークだね。こういう店は始めてかもしれない」

「あまりないですよね」

「それに、美味い!」

 英昭は、丸ごと串にぶっ刺されたピーマンにかぶりついて、ビールで流し込んだ。

「それで、今度の日曜日ですけど、やっぱり定番の美ら海水族館と古宇利島に行きたいと思ってるんですが……」

 京子は英昭が喜んでいる姿を見て、えくぼを見せた。

「いいですよ!古宇利島は行ったことあるけど、タワーには登っていないので是非行きましょう」

「お昼ですけど、何か作っていきますよ。リクエストってあります?」

「本当ですか?いや、なんでもいいですよ。手作りの料理なんてここ数年食べてないので。ありがたい」

 英昭は両手を合わせて拝むポーズをした。

「そんなに期待されるとプレッシャーになります。手の込んだものは作れませんので、あまりハードルを上げないでくださいよ」

「ええ、手間のかからないもので構いません。外にある美ら海水族館のイルカショーでも見ながら食べましょう。川名さんはビールを飲んでもいいですから」

「そんな、庄司さんに悪いですから、麦茶をポットに入れて持ってきます」

「遠慮しなくてもいいですよ。僕は帰ってからタップリと飲みますので」

「折角のドライブですから素面で行きます。でも、どうしても飲みたくなったら飲んじゃいますけど」

 京子は悪戯っぽく笑って、茶目っ気を出した。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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他に【シンビオシス~共生~】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご一読いただけたらと思います。

 


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