第3話
結局、英昭は三日連続で、長野夫妻との夕飯に付き合わされる羽目になった。
初日の夕方、那覇空港で二人をピックアップし、旭橋駅近くのホテルに送り届けたあと、国際通りから狭い路地に入った所にある古民家風の居酒屋で、三人での夕食となった。
飲み始めて暫くして、以前より少しふっくらとした長野夫人がトイレに立った時に、長野は両手を合わせて英昭に哀願してきた。
「庄司、頼むから毎晩夕飯に付き合ってくれ。勿論、俺が奢る!」
「なんで?奥さんと二人で仲良く夕飯を楽しめばいいだろ」
切羽詰まったような表情の長野を見ながら、英昭はのんびりとした口調で応えた。
「だから、その二人っきりっていうのが問題なんだよ」
「なに言ってんの?フルムーンとかなんとか、のたまってたのはお前だろ」
部屋飲みが多く、居酒屋に出かけて飲む機会が東京に居た頃より少ないので、久しぶりに生ビールを飲んで英昭は満足感に浸っていた。だが、長野は対照的に浮かない表情だ。
「いや、だからさ……。旅行が近づくににつれて、段々と面倒くさいと言うか、憂鬱になってきちゃってさ」
「はあ?意味が分からん」
長野夫人が居ない間に喫おうと、英昭はタバコに火をつけながら長野を見た。
「四月から役職がなくなって、以前よりも帰りが早くなる日があるだろ?そしたら夕飯の時にカミさんが、たまには旅行でもしたいわなんて言うから、つい調子こいて、だったら庄司がいる沖縄でも行くかって口を滑らせたらカミさんノリノリになっちゃって……」
舐めるように生ビールをチビチビと飲む長野に、こんなに美味しいオリオンビールを不味そうに飲むなよ、と英昭は言いたくなったが、奢ってもらうので我慢した。
「いいことじゃん。お前も楽しみにしてたんだろ?」
「だから最初だけ……。二人で具体的に沖縄で何をしようかってなったら、お互いにノーアイディアなわけよ」
「二人共沖縄は初めてだろ?」
「そうだよ」
海ぶどうを口に放り込みながら、長野は頷いた。
「だったら、見るところには事欠かないだろ?明日も美ら海水族館とか北部方面に行くんだよな」
英昭の質問に、察しの悪い奴だなと言わんばかりに長野は苦い顔になる。
「お前も鈍いなー。観光するところが問題じゃないんだよ。問題は二人きりでの行き帰りの飛行機の中や、レンタカーの車中、そして最大の問題はホテルでの会話というか、やり取りと言うか……」
「言ってる意味が分からん。普通に夫婦の会話をすれば?子供達のことや会社で苦労したこと、それから退職後のこととか……。奥さんの愚痴を聞いてあげるのもいいじゃん」
「……」
無言の長野の顔が少し硬直してくる。
「なんだよ?どうした?」
英昭はジョッキを置いて、長野の顔を覗き込んだ。
「独り者のお前には分からないか……」
長野の表情に、苛立ちがにじみ出てくる。
英昭はさっぱり見当がつかないので、「はあ?」と少し間の抜けた顔になった。
「長年連れ添った古女房を持ったオヤジの悲壮感がさ」
「だから、なに?」
英昭も次第に焦れてくるが、長野はトイレに立った夫人を気にしながら早口でまくしたてた。
「アレだよ」
英昭に顔を近づけながら長野は訴えかけてくる。
「アレってなんだよ?」
英昭は長野から逃れるように、身体を反らし気味にした。
「だから、アレって言ったらアレだろ!」
長野の捨て犬のような表情を見て、英昭はようやく気が付いた。
「つまり……アッチの話か?」
「そう、アッチの話」
長野はさかんにトイレのドアを気にしながら声を潜めた。
「そんなの知らないって!それこそお前ら夫婦の問題で、俺にはなんの関係もないだろ!」
英昭もテーブルに被さるようにして、声を潜めた。
「お前な……友達だろ?」
「いや、ただの元同僚」
英昭はテーブルから体を起こし、きっぱりと宣言した。
「いや、友達だ!な、頼むから助けてくれ!」
長野は拝むように、再度手を合わせた。
「俺は神や仏じゃないし、なんのご利益もないぞ!」
「そんな事言うなよ。なるべく夜は二人きりにならず、庄司という第三者を交えて会社関連の話を中心にして、俺達夫婦がお互いを再確認と言うか、今後も仲良くしましょうねーって雰囲気にならないようにするのが重要なんだよ」
長野は良からぬ経費の決裁を貰いに来た時と同じ表情でまくし立てた。
「バカ言うな!それこそ俺からすれば羨ましい限りだ。奥さんは見た目も若いし、そんなに会社に居た時と変わってないぜ」
英昭もこんな経費認めるわけにはいかん!と、得体の知れない領収書を突っ返す時と同じ口調になる。
「お前はなにも分かっていない。俺は前立腺の手術以降、出家した僧侶のような生活を送ってきたんだぜ。しかも還暦だし……あいつの期待に応える自信は一ミリもない!」
項垂れる長野を見て、英昭は少し同情し始めた。
「訊きづらいことだけど……。お前、手術後の機能面はどうなんだ?」
そこへ夫人が戻ってきたので、英昭と長野は阿吽の呼吸で突き合わせていた顔を離した。
「なんの話?楽しそうに話していたけど」
明るい声で夫人が二人を交互に見てから、長野の隣に座った。
「いや、庄司と入社当時の話をしていて、お前が入社する前のアホな上司や先輩の話で盛り上がっていたんだよ。な?」
長野は表情を一変させて、明るい笑顔で英昭にパスを出してきた。
「そうです。僕達が入社した頃は無茶苦茶な上司や先輩がいて、飲み会の時は灰皿とかコップやビール瓶が飛んできたりして流血事件なんかもあったけど、パワハラなんて概念がないから、僕らみたいなペーペーはひたすら耐えるしかなかったもんです」
英昭と長野のアイコンタクトが激しくなった。
「忘年会とか、必ず誰かが大怪我をしてたもんな?」
英昭が長野に巧みにパスを返した。
「あったねー。富山部長って覚えてる?」
長野も英昭からのパスを慎重に受けてから、前線にコントロール良くボールを蹴りだす。
「あー、トミさん!そうそう、年末の仕事納めの飲み会だったな。誰かを説教していた時にビール瓶で安っぽいテーブルを叩いたら、それが跳ね返ってきて見事に自分の顔面に直撃してさ。眼鏡のフレームが壊れて瞼の下を切って、鼻血とダブルで出血して……。店が救急車を呼んで大騒ぎだったよな」
英昭と長野はお互いのプレースタイルを熟知しているので、ここまでくればヘマはしない自信があった。
「年が明けた仕事始めの挨拶の時は、瞼の下に大きな絆創膏を貼って、新しい眼鏡をかけてきたもんな」
当時を思い出すような表情で、長野は天井を見上げて笑った。
「そう、その後も続きがあってさ。その日の新年一発目の飲み会でまた酔っぱらって座敷のテーブルの端に手をついたら、全体重がかかってテーブルが漫画みたいに一回転して、トミさんの後頭部を直撃して畳に突っ伏したよな。その時また眼鏡が壊れて塞がりかけていた傷から大出血!俺、あの時は介抱するのも忘れるくらい、本当に腹筋が鍛えられたよ」
英昭と長野が手を叩いて爆笑した。
「ホントですか?それって冗談でしょ」
夫人もつられて、ハハハと笑った。
長年培った見事な連携プレーで夫人に疑われることなく、英昭は沖縄の話題にスイッチする。
「明日は美ら海水族館ですよね?盆休みが終わったけど、まだかなり混んでるかもしれませんから少し早めに出発した方がいいですよ」
「少しホテルでゆっくりしたいと思っていたけど、あなたどうする?」
「地元民の庄司のアドバイスだから、明日は早起きして八時前にはホテルを出よう。レンタカー屋は美栄橋にあるから、ホテルからだとなんだかんだで三十分位かかると見た方がいいしな」
長野は仕事でも見せたことのない難しい表情で腕を組む。
「混んでいると手続きに時間がかかるから早めの方が良いと思いますよ。時間が余ったら古宇利島とか瀬底島に寄ってもいいし」
英昭はしっかりフォローした。
「明後日は
夫人が長野の腕に手をかけて訊く。
長野は助けを求めるアイコンタクトをしてきたが、英昭は、ここは少し可哀想に思えてきた夫人の肩を持つことにした。
「そうですね。斎場御嶽と首里城ならそれほど時間はかからないと思います。糸満から海岸線沿いには海が見えるカフェもあるので、のんびりとドライブするのがいいですよ」
長野の視線は怒りに変わったが、英昭は無視をした。
「でも、慣れないところだし焦って事故を起こしてもなんだから、早めのスタートがベターだよな?」
長野は必死のパスを出してくる。
夫人には申し訳ない気もしたが、長野の必死さにつられて、英昭はつい頷いてしまった。
「そうだな。南部はそれ程渋滞しないけど、海岸線には喜屋武岬とか静かなビーチもあるので気の向くまま立ち寄ったらいいですよ。ガンガラーの谷にはCAVE CAFEなんかもあって、結構見るところがありますし」
長野の『グッジョブ!』の視線を感じながら、英昭は夫人に申し訳ない気持ちになった。
「でも、詰め込み過ぎるのも……。せっかくの沖縄なんだし、余裕のあるスケジュールにしましょうよ。だいたいあなた普段は外出してもすぐに帰りたがるのに」
夫人が少し不満気な表情で、横に座っている駄目な亭主を見た。
「いや、次はいつ来れるか分からないから、なるべく行けるところは行っておこうよ」
長野はしぶとい。
「もう、なんか変ねー。分かったわ、明後日は明日の様子を見てからね。それより長時間の運転大丈夫なの?」
普段と違う亭主に、夫人は猜疑心に満ちた表情になった。
「もちろん大丈夫さ。庄司も言っているように東京みたいな渋滞もないようだし、景色も良いからストレスなくゆっくり走るよ」
「ふーん。ならいいけど……」
夫人は腑に落ちない様子ながらも頷いた。
「そうそう、庄司も毎晩夕飯に付き合ってくれることになったから、早い時間に出発して早めに那覇に戻ってきたいしな」
長野の裏切りのパスが英昭めがけて飛んで来た。
長野の脛を蹴りたいところだが、座敷席のためそれができないのが歯痒い。
「いえ、せっかくの夫婦水入らずにお邪魔しちゃ悪いので、僕は今日だけで……」
英昭は長野の届かないところにボールを蹴り返した。
「あら、水入らずなんて、そんな……。二人きりだと間が持たないので、ご迷惑かもしれませんが是非お付き合い下さい」
奥さん、俺は貴女の味方をしているんですよと思いながら、英昭は裏切り返しのオウンゴールのシュートを打つ。
「とんでもない。長野も仕事にかまけて奥さんと二人で楽しむことをしていなかったと反省しているくらいですから、明日以降はお二人で楽しんでください」
長野の殺意のこもった視線を跳ね返して、英昭はオリオンビールのジョッキを空けた。
「庄司さん、そんな事言わずにお付き合いください」
何も知らない夫人は、ペコリと頭を下げた。
「そうだよ、遠慮するなよ。俺達だけではガイドブックに載っているような店しか行けないけど、ローカルのお前がいてくれると助かるんだよ。な?」
長野はついに敵陣の夫人にボールを渡した。
「そうなんです。この人そういうの全然役に立ちませんから、庄司さんと一緒だと心強いですわ」
せっかくの沖縄料理を前にしながら英昭と長野の駆け引きが続いたが、最後は英昭もどうでもよくなって、三日間の夕飯に付き合うこととなった。
英昭は長野夫妻の沖縄旅行の最終日に、午後のフライトまでの時間潰しに空港近くの瀬長島へ案内した。
時間に余裕があれば温泉設備のあるホテルで日帰り入浴を楽しんでもらいたかったが、長野夫妻は午後の早いフライトで帰京する予定なので断念した。
那覇空港に離発着する航空機を間近で見てから、テラス式にショップが軒を連ねるカフェで昼食を摂って、三人は瀬長島を後にした。
英昭は空港で二人の荷物を降ろし、夫人からはご丁寧なお礼を頂いた。
心なしかご機嫌なようだ。
「庄司、ありがとうな。おかげで天気にも恵まれたし、初めての沖縄を楽しめたよ。お前が住みたくなった理由もなんとなく分かったし」
長野も軽く頭を下げた。
「いや、こちらこそすっかりご馳走になっちゃって。収入のないプータローとしては、本当に助かったよ」
「なに言ってんだか。今度はお前が勧める宮古島とか西表島にも行ってみようかと、こいつとも話したんだ……。お前も東京に来るようなことになったら必ず連絡してくれよ」
横にいる夫人に頷きかけながら長野が言った。
「ああ、今のところ予定はないけど、行く前には必ず連絡するよ」
初日の夕食の時とは表情が大違いだな、と英昭は思った。
「連絡待ってるよ。じゃあな!」
長野が握手を求めてきたので、英昭も握り返した。
その時長野が耳元に口を寄せてきて、「たまに家を離れて、女房と二人きりっていうのも中々良かったよ」と、照れながら囁いた。
結局、夕飯作戦は失敗したが、二人共上機嫌だからそれなりに楽しんだのだろう。
英昭は来た時より仲睦まじい長野夫妻を見て、少し羨ましい気がした。
手を振りながら空港に入っていく二人を見送りながら、英昭は長野の機能面がどうだったのかを確認しなかったのを悔いた。
二か月ぶりの東京は、残暑の真只中でアスファルトからの熱風もあり、沖縄より暑く不快に感じる。
航空運賃の節約のためにLCCを使い、成田空港から京成、東葉高速、東京メトロ東西線を乗り継いで、英昭は東陽町駅で下車した。
英昭は久しぶりに訪れた街を懐かしむようにゆっくりと歩き、老朽化の目立つ築四十年を優に超えているマンションに入る。
今は誰も住んでいない実家の玄関を、キーケースから取り出した鍵で解錠した。
一昨年前までは母親の妹、つまり叔母が娘と間借りをしていたが、五十歳過ぎの娘の再婚を機に一緒に仙台へ転居してからは、時々英昭の姉が仏壇の手入れや掃除をしに訪れるだけだ。
玄関までこもっている熱気で更に汗が噴き出す。埃っぽい空気の中に、微かに線香の匂いがした。
英昭はキャリーバッグを玄関に置いたまま家中の窓を開けて換気を行ったあと、エアコンのスイッチを入れた。
少しかび臭い温風が噴き出て、英昭は一瞬顔を顰める。
部屋が冷えるまでベランダに避難をして、途中のコンビニで買って来た缶ビールを一口飲んで、タバコに火をつけた。
都会の喧騒という言葉が頭に浮かぶ程雑多な音が混じり合って耳に届き、沖縄の自分の部屋で聴く音と、空気の違いを感じた。
英昭の母親が介護施設に入居して五年が経過した。持病の心臓疾患と、その後顕著になった認知症は改善することはなく、先は長くないと医者からは言われている。
姉の弘子から沖縄での新生活の報告も兼ねて一度上京するようにと言われたが、母親との最後の別れに来いと言う事なのは英昭には分かっている。
だが、顔を見ても自分の息子と認識できない母親と会うのは気が重い。
時計を見ると夕方六時になるところだ。
電話をすると姉夫婦の家に来いと言われるので、英昭は実家に着いたと、弘子にショートメールを送った。
今日は特に予定もないので、夕飯は久しぶりに実家近くにある、いかにも下町の中華料理店といった店で野菜炒めと餃子、それと生ビールにする予定だ。
エアコンをつけっ放しにして出かけようか迷っていると、スマホの着信音が鳴り出した。
「無事に着いたのね。部屋はそんなに汚れてないでしょ?先週、掃除と仏壇の花の交換と観葉植物の水やりに行ったばかりだから」
スマホから、弘子の少し甲高い声が聞こえてきた。
「エアコンが少しかび臭かったけど、後は大丈夫だよ」
「夕飯どうするの?予定がなければ家に来れば?旦那も会いたがっているし」
「いや、今日は高校時代の仲間と飲む約束をしてるんだ。義兄さんにはよろしく言っておいてよ」
実は高校時代の友人とは三日後に合うことになっているのだが、英昭は咄嗟に嘘をつく。
義兄の佐久間和則は気の良い人で英昭とも気が合うが、どのみち明日浦安にある介護施設の帰りに一杯やることになるので、今夜は遠慮することにした。
「そう、じゃあ、あんまり飲み過ぎないでね。明日は昼過ぎに来ればいいから。私は昼前には行っているので、何かあったら電話頂戴。メールではなく!」
老眼のためか、弘子はメールを嫌がる。
「分かったよ。昼飯食ってから行くので、三時前には着くと思う」
「そう、じゃあね。それから部屋ではタバコを喫わないでよ。勿論、寝タバコは厳禁!」
「はいはい」と言って、英昭は電話を切った。
五歳違いだが、いつまで経っても子供扱いされるので困る。
だが、英昭は弘子には心から感謝をしている。介護施設入居を含めた母親のことや、古くて売り物にならないこの実家の管理など全て引き受けてくれて、英昭はこれらの件で何か特別な事をしたことがない。
二人姉弟で育ってきたが、少し気は強いけどしっかり者の弘子は、子供がいないということもあってか常に英昭の味方だった。
離婚問題でゴタゴタしている時も何かと世話を焼いてくれ、十二年前に父親が亡くなった時も、海外出張などで飛び回っている英昭に代わって、葬儀やその他の差配をしてくれた。
義兄の和則も弘子同様に、英昭には親身になってくれている。
英昭は姉夫婦には感謝の念で、足を向けて眠れない。
会社を早期退職して、沖縄に住むと言った時も、弘子は特に文句を言うことなく、英昭が拍子抜けするほどだった。
母親は一段とやせ細り、英昭を見ても何の反応も見せなかった。
想像はしていたが、一抹の寂しさは隠せない。
弘子だけは認識しているようだが、それも自分の娘と認識しているかどうかは怪しいということだ。
「私はお母さんに夕飯を食べさせるから、あなた達先に帰っていいわよ。どうせ、早く一杯やりたいんでしょ」
夕方の五時過ぎに弘子がありがたい提案をしてくれたので、英昭と和則は早々に介護施設を出て、東西線の浦安駅迄歩いて居酒屋に入った。
生ビールが届いたところで軽く乾杯をし、二人共一気に半分近く飲む。
喉が渇いていたので生き返った気分になった。
「沖縄はどう?」
義兄の和則が、柔和な表情で訊いてくる。
「まだ三か月ですからね。でも、友達も出来たし、退屈しながらも楽しくやってます」
「それは良かった。誰も知り合いがいないところで大丈夫かなと弘子と心配していたけど、友達が出来ると心強いよね」
「そうですね。それに沖縄の人達は、特に僕の友人達がそうなのかもしれませんが、あまり干渉しないというか詮索してこないんですよ。程良い距離感で接してくれるので、そういう意味では気が楽です」
「お義母さんの状態次第だけど、一度遊びに行きたいな」
「是非来てくださいよ。義兄さん、沖縄は?」
「僕も弘子も行ったことないんだよね」
「だったら、是非来てくださいよ。もうじき台風シーズンも終わりますし、マリンスポーツとかはしないでしょうから、観光だけだったら十月以降が気候も良くてベストですよ」
「うん、考えておくよ。ところで、息子さん達とは連絡は取っているの?」
和則は言って、少し心配顔になる。
「恥ずかしながら全く……。二人共もう三十二と二十九ですからね。野郎というのは僕もそうですけど、親父と緊密に連絡を取ったりしませんよ。しかも家を出るときに、別れた女房から子供達にはもう父親はいないと思うように言ってあるからそのつもりで、なんて言われてる始末ですからね」
「真理子さんだったけ?結構ズバズバ言いにくい事言うからなー。でも、息子さん達もそんなものかね。うちは子供がいないから、そういうことが良く分からないんだよね……タバコ一本もらえる?」
和則が右手で拝むように言うので、英昭はタバコを渡し火をつけてあげた。
美味そうに鼻から煙を吐き出す和則を見て、英昭は自分もタバコを咥えて、火をつけた。
「禁煙させられてるんですか?」
「弘子がうるさくてね」
和則は恥ずかしそうに笑った。
「姉貴が厳しくてすみません……。でも男ってそういうもんですよ。自慢じゃないけど僕も音信不通で、しょっちゅうおふくろと姉貴に怒られていたじゃないですか」
「そうだったね。英昭君はしょっちゅう引っ越しをするから、お義母さんが弘子に、英昭君は今何処でなにをしているんだって良く聞いてきたからね」
「親不孝ですみません。親父が亡くなった時もそうだったけど、おふくろの面倒もみてもらって、自分だけ好き勝手に沖縄にスタコラ行っちゃって……。本当に申しわけありません」
英昭は深々と頭を下げた。
「いいんだよ、そんなこと。弘子も僕も気にしていないし。特に弘子は英昭君には好きなことをして欲しいんじゃないの」
「本当に義兄さんと姉貴には感謝しかありません」
英昭は再び膝に手をついて頭を下げた。
注文したつまみ類が届いたので、ついでに生ビールを追加注文をした。
「おふくろの容態、医者はどう言ってるんですか?」
「あまり芳しくないみたいだね……。年齢も年齢だし、体力的に手術に耐えられないようだしね」
「来年は米寿ですからね。二十年前の手術の時とは違いますよね」
「食事の量も減ってきているし、最近はほとんどベッドから起きてこない状態だしね」
「年を越せるんでしょうかね?」
「この間の検診ではそこまで深刻ではないような事を言ってたけど……。あとは本人の気力次第だって」
「気力と言ったって、ボケちゃってるからねー」
英昭は肩をすくめた、
「確かにね。弘子は気丈にふるまっているけど、内心はね……」
「そんな時に弟は沖縄くんだりで、気ままな生活を送っているっていうのもあるんでしょうしね」
「それはないと思うよ。お義母さんの意識がはっきりとしていれば別だろうけど、今の状態では側にいてもいなくても一緒だというのが僕と弘子の考えだから。それは気にしなくていいよ」
和則は顔の前で手を振った。
「ありがとうございます」
英昭は三度頭を下げた。
「その代りと言ったら変だけど、なるべく東京に帰る機会を増やして弘子に顔を見せてくれればいいんじゃない……。と、噂をすれば電話だ」
和則は電話でまだ二杯目だとか、タバコは喫っていないとか、携帯電話に話しかけている。
「弘子は先に家に帰るようにするから、早めに店を出て家に来いってさ。簡単なつまみを作るから、無駄な金を遣わずに家で飲めってご指示のようだ」
和則は携帯電話をテーブルに置いた。
「そうですね。お言葉に甘えてお邪魔しますか」
二人はタバコを更に一本喫ってから、ジョッキの残りを飲み干してから店を出た。
結局、昨夜は姉夫婦の家で飲み過ぎて一晩泊まることになってしまった。
英昭は姉夫婦のマンションのエントランスを出たところで、午後の強い直射日光を浴びて少しクラッとした。
昼飯は弘子に冷やし中華を作ってもらったが、和則が暑いのでと缶ビールを冷蔵庫から出した瞬間、弘子の金切り声が二日酔いの頭の芯まで響いてきた。
和則が「二人で一本だけだから」と、言い訳にならないことを言っているのを、英昭は見ないふりをして麺をすすった。
「あなた達、本当の兄弟じゃないの?呑兵衛でマイペースなところはそっくりよ」
弘子があきれたように吐息を漏らした。
相変わらず仲の良い夫婦だが、和則の飄々とした優しさがあってのことだ。
この義兄がいるから、弘子は安心して母親の面倒を看ることが出来るのだろう。
もちろん、英昭も和則が大好きだし、感謝もしている。
「あんたも沖縄で飲んだくれてばかりじゃ駄目よ。大体まだ若いし動けるんだから何かやったら?」
ビールの代わりに麦茶をコップに注ぎながら、弘子は説教口調になった。
「還暦過ぎた爺さんが若いってことはないだろ。それに仕事をするんだったらわざわざ沖縄には行かないよ」
英昭は注いでもらった麦茶を口に含んだ。
「仕事じゃなくても運動とか趣味みたいなもの探してさ。ダイビングはやってるの?」
「いや、まだやってない。いつでも行けるとなると、逆に興味と言うか関心が薄くなるね。仕事とかのストレスが溜まっている時に来月は潜りに行けるっていうのが楽しみにつながるんだよ。ストレスフリーになると、先の楽しみを見つけるのが難しい気がするな」
「なに言ってんだか。そんな贅沢なこと言ってるのはあんたくらいなもんよ。巷では老後破産とか下流老人とかいって、大変な思いで生活している人が沢山いるっていうのに」
「まあ、いいじゃない。ずっと仕事一筋で頑張ってきたんだから、英昭君なりにゆっくりと過ごせば」
チビチビと麦茶を飲みながら、和則が助け舟を出した。
「あなたには全く説得力を感じないわよ。二人揃って身体はなんともないのに、昼間からビールを飲んで……本当に生産性がないんだから」
「今は麦茶だよ」と、和則が抵抗すると、弘子から雷が落ちた。
「今の話じゃない!普段の話をしているの!そんなことも分からないの!」
初老の男二人は、厳しい女性教師の説教を聞いているときのように、項垂れるしかなかった。
強烈なアスファルトの照り返しの中、英昭は葛西駅まで歩いて東西線に乗って東陽町駅で降りた。
実家のマンションに戻り、冷蔵庫を開けたが弘子の叱責を思い出して、英昭は缶ビールはやめてミネラルウオーターのペットボトルを取り出して飲む。
今日は長野と船橋の居酒屋で夜の七時に待ち合わせをしているので、それまでの時間潰しを考えるが、暑い中一人で出かけてまで行きたいところが思い浮かばない。 こんな時は姉の弘子や長野のように、仲の良いパートナーのいる夫婦が羨ましく思える。
部屋の外から入り込んでくる車の音や、工事の音を聞きながら独りでぼんやりしていると、結局別れることになってしまった有香里と続いていたら、どうなっていたかと考えてしまう。
一回りの年齢差だったから有香里も来年は五十歳になる。
勤めている通信会社の業績が芳しくないというニュースを最近見たが、忙しくしているのだろうか。
十年以上の長い付き合いで一緒になろうかという話が出たこともあったが、彼女にもくも膜下出血の後遺症で軽度とはいえ左半身麻痺の父親がいて、年老いた母親一人では介護が出来ず、家を出ることが難しい状況だった。
結婚して別に所帯を持っている兄はいるが父親との折り合いが悪く、家にはほとんど寄り付かない。結果的に両親と同居している有香里が、父親の介護にかかりきりの母親のサポートをしていた。
仕事と家事、介護で忙しい有香里とは頻繁に会うことはできなかった。
だが、お互いの立場や環境を理解していたので、マンネリ感はあったが関係は悪くはない方だと英昭は思っていた。
ただ、決して若いとは言えない二人の将来の事を考えると、いつまでも現状のままではいられないという漠然とした不安があったのは確かだ。
一方で、二人共具体的な将来像を描くことを意識的に回避していた。
有香里は年老いた両親の事がネックだと考えていた。
その事を十分に知っている英昭だったが、有香里の悩みを解消する有効策を見い出せないまま、結婚に踏み出すことが出来なかった。
英昭は以前から六十歳を機に退職することは決めていたし、有香里もそのことについては消極的ではあるが理解を示していた。
しかし、英昭が会社を辞める事を決めた頃、有香里に沖縄での新生活をした時は猛烈な反発を食らった。
「私の家の状況が分かっていて、よくそんな勝手なこと言えるわね!」
英昭は、その時の有香里の哀しそうな表情が忘れられない。
元々有香里は沖縄が好きで、二人はダイビングを兼ねて宮古島や西表島等の離島へは年に一度は出かけていた。
そして旅行から帰ると、いずれは沖縄辺りに住んでのんびりしたいと有香里は言っていた。
頻繁に引っ越しをする英昭は、「引っ越しばかりして無駄遣いしないで、沖縄にボロくてもいいから、自分の家でも建てたら?そうしたら犬と猫と、ついでにヒデを飼ってあげるからさ」と、笑いながら有香里に言われたこともあった。
英昭としては、先に自分が沖縄での生活基盤を築き、有香里は両親の様子次第だが、都合の良い時に沖縄に来てゆったりと過ごしてくれれば良かった。
その先に、有香里が沖縄に住みたいとなれば二人で住める住居への転居を考えるし、東京に残りたいというのであれば、いずれは自分が東京に戻って二人の生活を始めても良いと考えていたのだが……。
英昭の会社を退職して沖縄に住むという提案以降、何となくお互いに本音を言わなくなった。
英昭の個人的な事では揉め事や諍いを回避する性格もあって、真意を説明する機会も作らず、徐々に会う頻度が少なくなっていった。
有香里の英昭に対する不信感や、自分勝手な提案をした英昭自身の引け目もあって疎遠な状態が続き、明確な別れの言葉がないまま連絡が途絶えたのは、昨年の今頃だ。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
暇つぶしになって次回も読んでみたいと思っていただけましたら、励みになりますので、ハート・星・フォローをお願いします。
他に【シンビオシス~共生~】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご一読いただけたらと思います。
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