第2話

  厚手の遮光カーテン越しに南国らしい強烈な陽の光と熱を感じ、英昭は寝床からモソモソと起き出す。

 カーテンと陽射しで熱くなっているアルミサッシの窓を開けると、狭い通りを隔てた県立高校の体育館から早朝練習のバスッケットボールの跳ねる音や規則正しい掛け声が、熱風と共に部屋に吹き込んでくる。

 目覚まし時計を必要としなくなって久しいが、沖縄の真夏の朝では爽快な目覚めとは言い難い。

 三か月前迄はスマホの電子音に叩き起こされ、慌ただしく朝食を摂って家を出た。それから満員電車に揺られながらその日の予定をぼんやりと思い浮かべ、スマホで為替の値動きや経済ニュースをチェックしていた。

 それに比べて退職した今の英昭には取り急ぎすることもなく、たっぷりと時間はあるが、その時間の使い方というか消費の仕方が良く分からない。

 四十年近い年月でを経て心身に染み込んでいる習慣という呪縛は、容易には解けそうにない。

 することのないストレスは直截的ではないが、ふんわりと身体にまとわりつく感じで妙に重苦しい。

 東京に居たときは、兎にも角にもやらされている状況から逃げ出したかった。

 自分の好きな時に起床し、好きな時に好きなものを飲み食いし、誰に気兼ねすることなく自分の時間を満喫したいという願望が強かった。

 だが、今はまだ現役気分が抜けきれていないのか、逆に不安が増していくのが腹立たしい。 

 英昭は朝食を簡単に済まし、アイスコーヒーを持ってベランダに出た。

 強烈な直射日光から、わずかに回避できるスペースにあるキャンバス地の折りたたみ椅子に座って、体育館から聞こえる黄色い声や男子生徒の濁声、バスケットシューズが床を擦るリズミカルな音に耳を澄ます。

 岩山のような重量感のある南国の雲がゆっくりと奥行きのある青空の中を流れるのを眺めながら、タバコを一服する。

 その後、日課となったハンディタイプのモップで簡易的な掃除をし、扇風機にあたりながらストレッチとダンベルを使った簡単な筋トレをしてからシャワーを浴びる。

 一息ついてからソファに寝転がり、今日一日をどう過ごすかをぼんやりと考える。

 今の英昭には、掃除・洗濯、買い物以外に日課と呼べるものはない。

 沖縄本島の観光名所はスキューバダイビングをしに来たついでにほとんど見て回っていたので、がつがつしながら行く必要はない。

 引っ越しの荷物の整理が一段落し沖縄での生活リズムをつかみ始めた頃、英昭は那覇で唯一の知り合いの金城信幸というダイビングショップの経営者に連絡を取り、二人で酒を飲んでいる。

 ダイビングショップは書き入れ時だったが、英昭が沖縄で生活することを知っている信幸は、国際通りに近い久茂地にある居酒屋で会ってくれた。

 英昭は真っ黒に日焼けした信幸に転居の挨拶をし、オリオンビールで乾杯をした後に、以前から興味のあった三線を教えてくれるところを知らないかと信幸に尋ねた。

 幸運なことに、信幸の従兄弟が国際通りの近くで三線の販売を行っているという。その従兄弟は、年齢は信幸より二つ上の六十三歳。奥さんと二人で店を経営しているが、販売の方は奥さんに任せっきりらしい。

 本人は牧志駅近くの公民館で開催している三線のサークルの世話役をしているとのことなので、英昭は一度合わせて欲しいと頼んでみた。

 

 翌日、これから従兄弟を紹介するついでに昼飯でもどうかと、信幸から電話が来た。

 炎天下の那覇市役所の前で待っていると、サングラスをかけた信幸とハンチングを被った小柄な男が、笑顔で英昭に近付いて来た。

「従兄弟の金城隆志たかしです」

 信幸がサングラスを外してから、英昭に従兄弟を紹介した。

「なんで沖縄に来たのさ」

 隆志は挨拶抜きで沖縄のイントネーションで話しかけ、英昭に握手を求めてきた。

「庄司英昭です。東京から逃げて来ました。宜しくお願いします」

 英昭は、三線を弾くために爪の手入れをしている隆志の手を握り返した。

 隆志はウチナーンチュらしい太い眉と長い睫毛に縁どられた優しい目で、英昭に笑顔を返してきた。

「暑いから話は店で」

 信幸に促され、市役所近くの定食屋に入る。

 三人は作業着姿やかりゆしシャツ姿の客で混んでいる店のテーブル席に座り、信幸が勧める定食を摂りながら、お互いに簡単な自己紹介をした。

 

 隆志は高校卒業後に復帰したばかりの本土に渡り、東京にある遠い親戚が営む宝飾品製造販売の会社に就職し、そこで指輪などのデザインと加工を行っていた。

 先輩職人の下で忍耐強く一通り仕事を覚えたが、東京の生活に馴染めずに三十歳の頃に沖縄に戻り、中堅規模の宝飾店で働き口を見つけた。

 宝飾店に勤めながら元々弾いていた三線の勉強を再開し、その後、手先の器用さを活かして三線の製造を独学で取得した。

 始めは趣味で制作していた三線の評判が良く、結婚を機に独立して三線の製造と販売を本業にしたようだ。

「毎週水曜日の午後七時から九時迄で、月謝と言うか受講料は二千五百円。冷房費のかからない冬場はひと月二千円。だから正確には施設使用料と先生へのギャラなわけさ」

「安いですね!」

 英昭は驚いた。

「趣味のサークルやっさ。先生も知り合いだし」

 厚揚げを口に運びながら、隆志は人懐っこい笑顔で応えた。

「生徒さんは何人くらいいるんですか?」

「そんな敬語っぽく言わなくてタメ口でいいさ。沖縄で堅苦しい話し方はしなくていいさ。な?ノブ」

「そう、庄司さん、もう友達なんだから気を遣うことないって」

「はー、でもお二人は年上だし」

「還暦過ぎたらみな一緒やっさ」

 隆志は信幸に同意を求めるように頷きかけて、マカロニサラダを頬張った。

 信幸も「そうそう」と頷きながら味噌汁をすする。

「三線は持ってるの?」

 隆志は三線を弾く格好をして、英昭に訊いた。

「いえ、できたら金城さんのところで見繕ってもらおうかと」

「隆志でいいさ。この後時間があれば店に来る?」

「お願いします」

 英昭は丁寧に応えるがすかさず「タメ口で」と、隆志から注意を受ける。

「俺はショップに戻るから、隆志、後は頼むな。庄司さん、落ち着いたらケラマ辺りに潜りに行きまっしょ」

 信幸は自分の定食代金をテーブルに置いて、店を出ていった。

 英昭と隆志も食後にさんぴん茶を飲んでから、勘定を払って定食屋を出た。二人は国際通りをブラブラ歩きながら隆志の店に向かう。

 〈三線製造販売 三光堂〉の看板は、ドラッグストアと土産物屋の間の路地に入ったところにあり、小さなショーウインドウに三線が飾られている。

 南国の強烈な陽射しの中から店に入ると暗い印象だったが、目が慣れると五坪程度の店内の様子が見えてきた。

「いらっしゃいませ」

 三光堂という文字と三線のイラストが描かれている紺のTシャツを着た女性が、英昭にお辞儀をしてきた。

「東京から来た庄司さん。沖縄こっちに移住して来たって信幸に紹介されたさ。これはうちの奥さん」

 隆志が紹介してくれたので、英昭は「宜しくお願いします」と、奥さんに頭を下げた。

 店の壁際に腰の高さ程の陳列台があり、その上に五棹の三線が飾られている。

 値段は一万五千円から十万円を超えるものまでと幅がある。

 レジの横にあるショーケースには調弦用のチューナーやバチ、教則本等が置かれていた。

「始めは本革じゃなくて、フェイク革のでいいんじゃない?」

 隆志は陳列台の左端から取り上げた三線を、英昭に渡してくれた。

「そうですね。弾けるようになったら本格的なのを買いますよ」

「それだって音はちゃんとしてるさ。商売的にはもう少し高いのを買ってもらいたいけどね」

 隆志は悪戯っぽく笑った。

「じゃあ、これを頂きます」

「またタメ口じゃなくなってるさ。しかも今はお客さんだしね」

 隆志がツッコむと、お盆にお茶を載せて運んで来た奥さんも笑った。

「まだ慣れなくて……。幾らですか?」

「一万三千円でいいさ。バチはこの中から選んで」

 隆志は、陳列台に様々なバチを並べてくれた。

「人差し指をバチの穴に入れてみて。あまり窮屈じゃないのから好きなのを選んでみて」

 英昭はいくつかのバチに人差し指を入れて試してみる。

 その中から黒っぽいバチを隆志に差し出し、「じゃあこれを下さい……じゃなくて、ちょうだい」と言って、照れ笑いをした。

「ケースはこれしかないけど勘弁して」

 隆志は黒い布製の携帯用のケースに、三線を仕舞ってくれた。

 英昭は現金で支払い、携帯用ケースに入った三線を受け取る。

「教室は来週の水曜日から来る?あ、でも七月最後だから月謝がもったいないなー。八月の第一週の水曜日から通えば?」

「そうですね。じゃあ、来月最初の水曜日から参加します。何か持っていくものとかあります?」

「なーんにもいらないさ。三線だけ持ってくればいいよ」

「場所はどの辺です?」

「牧志駅近くに〈ほしぞら公民館〉というのがあるの知ってる?」

 英昭が知らないと言うと、隆志はチラシの裏に地図を描きながら説明をしてくれる。

「国際通りを牧志駅方面に行って、ゆいレールをくぐった先にある大きな建物で、ホテルもあるからすぐに分かるさ。そこの三階のプラネタリウムがあるフロアに、第四学習室というのがあって、入り口に〈安里三線サークル〉と立て看板が出てるよ」

「今度、散歩がてら行ってみます」

 英昭は受け取ったチラシを、携帯用ケースに仕舞った。

「図書館もあるから、一度行ってみたら」

「図書館もあるんですか?普段は県立図書館に行ってるんだけど……」

「小さい図書館だから、余り古い本とかはないけどね」

「別に調べものをするわけではないので、ヒマ潰しができれば十分ですよ」

「雑誌とかはそこそこあるよ」

「そうですか……じゃあ、来月から宜しくお願いします」

「待ってるよ!時間があったらさっき渡した〈工工四クンクンシー〉を見て、弦の位置をおぼえたらいいさ。三線の男弦側に指の押さえ位置のシールを貼ってあるからすぐに分かるさー。分からないことがあったら店に来ればいいし」

 〈工工四〉とは、三線の楽譜みたいなもので、原稿用紙のような罫線が引いてあり、そこに〈合〉〈五〉〈老〉〈尺〉〈四〉等の漢字が書いてある。

 その横にルビのようにウチナーグチの歌詞が書いてあるが、五線譜を見慣れた英昭には違和感がある。慣れるまで時間がかかりそうだ。

「最初は戸惑うかもしれないけど、慣れれば指を押さえる位置はすぐ分かるよ。ギターみたいに複雑なコードを覚える必要もないさね。あと、ネットとかに初心者向けの動画もあるから観てみるといいさ」

「時間はたっぷりとあるので、とにかく触ってみます」

「そうそう、慣れればどうってことないから大丈夫やっさ」


 Tシャツを突き抜けて肌を射るような西陽の中、英昭は三線を入れたケースを担いで公設市場の工事現場を抜けて国際通りに出た。

 夕方七時近くだが南国の日没は遅く、昼間のように明るい。

 風もないので蒸し暑さに汗が滴り落ちてくる。

 横に広がってのんびり歩く外国人が目立つ観光客の群れを、英昭は苦労してかわしながら〈ほしぞら公民館〉に歩を進める。

 〈工工四〉は見ただけでは理解できなかったが、ネットで検索した初心者向けの動画は参考になった。

 隆志の店には二度訪れたが、行くたびに奥さんは接客中、隆志は不在のようだったので商売の邪魔をしないように店内には入らなかった。

 指の押さえる場所はある程度理解できたが〈工工四〉にはリズムが書かれていないので弾く速度が分からない。リズムは今日から通う教室で習うしかない。

 牧志駅から延びるモノレールの跨座式軌道の下を通り、蔡温橋を渡って〈ほしぞら公民館〉に入る。エアコンの冷気が心地よい中、エスカレーターで三階に上がった。

 〈安里あさと三線サークル〉は、英会話サークルの隣の学習室の前に看板が出ていたが、部屋の中から三線の音が聞こえてくるので迷うことなくすぐに分かった。

 英昭が扉を開けて部屋に入ると、隆志が恰幅の良い老人と話しているのが見えた。

 部屋の中はコの字型にテーブルが並べられていて、年配の男女十人程が三線を弾いていたり話をしている。

 英昭が入ってくるのを見て視線を送ってくる人が何人かいて、その気配に隆志も英昭に気づき、「よー」と声をかけてきた。

 英昭は隆志に向けて軽く会釈をする。

「場所、すぐに分かったでしょ?」

 隆志は笑顔で英昭に近付いて来た。

「下見を兼ねて、何回か図書館に来たので大丈夫でした」

「そうね。庄司さんの席はあそこ」

 隆志はコの字型に並べられたテーブルから少し離れた場所に二台あるテーブルに、英昭を案内した。

「ここは新人さんの席。新人さんは庄司さんの他に二人いるから仲良くね。少しは弾けるようになった?」

「いやー。工工四に慣れるのが大変で。あとリズムが全く分からなくて……」

「だからよー。店に来れば良かったのに」

「二度ほどお店に伺ったんだけど、隆志さんは居なくて、奥さんも接客中みたいだったので声をかけるのを遠慮しました」

「そうね、俺は裏の工房にいたかサボってお茶してたかも」

 今は室内だからかハンチングを被っていない隆志は、笑いながら頭を掻いた。

 開始時間の午後七時を少し過ぎたがまだ席は埋まっておらず、先生らしき人も見当たらない。

 英昭はとりあえず三線をケースから取り出して、電子チューナーで〈B・E・B〉の本調子に合わせるが、中々ギターのようにピタっと決まらない。

 調弦に悪戦苦闘していると、新人用のテーブルに七十歳近い小柄で枯れ枝のような女性が、英昭から離れたパイプ椅子に座った。

 英昭が軽く目礼すると、女性も頭を下げながら挨拶を返してきた。

 七時十分過ぎに恰幅の良い体形で貫禄のある四十代の女性と、三十前後のヒョロリとした茶髪の男性が入ってきた。

 コの字型に並べられたテーブルに座っている生徒達が、入室してきた二人に挨拶をしているので、英昭にはこの二人が先生らしいと見当がついた。

 恰幅の良い女性の方がベテランの生徒を教えているようで、ホワイトボードの前にどっかりと座り、生徒達に挨拶をした。

 茶髪の男性の方は新人用のテーブルを挟んで英昭の前に置いてあるパイプ椅子に座った。

「古堅です、金城さんから聞いています。三線は初めてですか?」

 沖縄のイントネーションで自分の三線を調弦しながら、古堅と名乗った茶髪男が英昭に挨拶をした。

「庄司です。全くの初心者ですが、宜しくお願いします」

 英昭は頭を下げて挨拶を返した。

「最初はこのテキストを使ってください。五百円になりますが、後で休憩の時に会計の内間さん、あそこに座っている赤いTシャツの人に言えば分かります」

 古堅は六十歳前後でTシャツ同様に赤いフレームの眼鏡をかけた女性を教えてくれる。

「そうだ、まだ会費も払ってなかった」

「一緒で大丈夫ですよ」

 古堅は席を立とうとする英昭を手で制し、〈三線の手習い(サンシンヌテジナレー)〉と楷書で書かれた緑色のテキストを英昭に渡してくれた。

「ありがとうございます」

 英昭は礼を言いながらテキストを受け取り、頁をめくった。

 初めの方は三線の基本的な事柄が図解入りで書かれており、練習曲はその後に二十数曲が目次に記載されている。

 全て伝統的な沖縄民謡で、〈島唄〉や〈涙そうそう〉など英昭が知っている唄はない。

 古堅は「調弦をしましょう」と、英昭の三線を受け取り、キッチリとチューニングをしてくれた。

「先ずは、指使いから始めますか」

 古堅は〈三線勘所〉と書かれた頁を開く。

「開放弦からですが、男弦、手前側と言うか一番上の弦は〈アイ〉、中間の中弦は〈四〉、下側の女弦は〈コウ〉になります」

 古堅は自分の三線で、各弦の開放弦の音を出した。

 続いて一の指人差し指二の指中指四の指小指の各頁を開きながら丁寧に教えてくれる。

 基本的にギターとは違って薬指は使わない。

「少し、各指の練習をしていて下さい」

 そう言って古堅は隣に座っている七十近い女性の前に移り、課題曲を女性と一緒に弾き始めた。

 英昭は指を押さえる位置を確かめながら練習をする。

 ベテラン組の方から、聞いたことのあるメロディーの沖縄民謡が聞こえてきたので部屋を見回すと、いつの間にか二十人位の生徒で席が埋まっていた。

 恰幅の良い先生のリードで三線を弾きながら、ベテラン組はきれいな声で唄っている。

 男性は少なく、女性の方が多い。

 五十代から七十代の主婦らしき人がほとんどだが、中に一人だけ三十代前半に見える女性がいた。

 三十分を過ぎた頃、新人用の席に髪の長い二十代の女性が汗を拭きながら座った。

 見慣れない英昭を一瞥したが、すぐに古堅に会釈をして仕事が長引いてしまったというようなことを話している。

 十五分の休憩をはさんで九時迄みっちりと練習は続き、終了後は生徒全員で移動式の机とパイプ椅子を片付けた。

 世話役の隆志が部屋の消灯を確認して施錠をし、鍵を管理事務所に返却した。

 午後九時を過ぎているので商業施設を含めて全て閉館となっていて、エスカレーターは止まっている。

 隣の英会話サークルの三線教室と似た年恰好の生徒達と、二基あるエレベーターに乗り込むが、隆志の他に三線教室の男性の生徒三人が一階まで行かずに二階で降りた。

 隆志が降り際に「庄司さんも!」と、エレベーターを降りるように促すので、英昭は慌ててエレベーターの外に出た。

 二階から外に出ると、そこは安里駅への屋根のある連絡通路になっていて、英昭を含めた五人は駅に向けて歩く。

 隆志は歩きながら、「こちらは東京から来た庄司さん。今日からサークルに通うので、よろしくね」と、英昭を三人に紹介した。

 浅黒い顔をした中肉中背でかりゆしウェアを着た男が、「長嶺です。よろしく」と、ぴょこんと頭を下げる。

「玉城です。よろしくです」

 禿頭の小柄な男が、人懐っこい笑顔で挨拶をしてきた。

「こちらは庄司さんと同じく移住組の松本さん。もうこっちに来て十年になるかね?」

 隆志は白髪交じりの長髪で、身長も英昭と同じくらいの男の肩を軽く叩いた。

「松本です。こっちに来て十一年になります。移住者同士ですので宜しくお願いします」

 松本は標準語で丁寧に挨拶をしてきた。

 長嶺と玉城は英昭と同年配のように見えるが、松本は二人よりは少し若く、五十代前半に見える。

 五人は隆志を先頭に安里駅の改札口を通り過ぎ、階段で国際通りに降りる。

 青信号に変わったところで横断歩道を渡り、モノレールの軌道に沿って美栄橋駅方向に、三線のケースを担いで、話をしながら歩いた。

 「どこに行くんですか?」

 英昭が隆志に聞くと、隆志は「皆でビールを飲むんさ」と、応えた。

「この辺に行きつけの店があるの?」

 サークルの後の飲み会かと思い、英昭は隆志に訊いた。

「飲み屋なんかに行かないさ。そこのスーパーで缶ビールとつまみを買って、ちょっと先の川沿いでゆんたくおしゃべりしたり、三線の練習をしながら飲むんよ」

 隆志は、あっさりと言った。

「えっ!外で飲むの?雨とか降ってきたらどうするの?」

 英昭は驚いて隆志に訊いた。

「雨が降ったら解散さー」

 気軽な調子で言って、隆志は笑った。

「お金がもったいないからねー」

 長嶺も横から口をはさんできた。

 三線を担いだ中高年の男五人がスーパーに入っていく様は、英昭には違和感があるが、郷に入れば郷に従えだと諦めた。

「今日は何本?」

 玉城が確認すると、隆志が、「ロング二本と半分で」と応えた。

 半分とは、三百五十㏄のことらしい。

 つまみは鳥の唐揚げと枝豆、魚肉ソーセージにポップコーン。ビールは発泡酒なので、一人あたり六百五十円の割り勘となった。

 買ったものを持参したビニール袋に詰めて、三線を担いだ怪しい一団は横断歩道を渡って安里川に向かう。

 美栄橋駅との中間にあたるモノレールの軌道下近くに三線とビニール袋を置き、皆それぞれが座る位置を決める。

 松本が全員にロング缶を配ると、「では、お疲れさん!」と隆志がビール缶を掲げた。

 玉城が唐揚げや枝豆のパックを開けたので、英昭はポップコーンの袋を開封する。 

 魚肉ソーセージはそれぞれが一本ずつ取った。

 気温は三十度近くあるが、風が少し出てきて心地良い。

 那覇市内なので星はそれ程多くは見られないが、それでも東京に比べればきれいな星空だ。

 英昭は外で飲むのは花見とかバーベキューしか経験がないが、コスト面も考えると、このような飲み会も中々良いものだと思い始める。

 時折通行人が怪訝な表情で見ていくが、隆志たちは一向に気にかけなる様子がない。

 今日、サークルで練習した曲で、少し難しい箇所を長嶺達に教えるために、隆志が三線をケースから取り出して調弦を行う。

 時々頭上をモノレールが通る中、英昭を除く三人は交代で隆志からレクチャーを受ける。

 英昭は練習の合間に手の空いている者と話をしている中で、知り合ったばかりの三人について知ることが出来た。

 長嶺は五十八歳で、ボイラーや空調などのビル管理の会社に勤めている。

 玉城は長嶺より一つ上の五十九歳で、国際通り近くで駐車場を経営しているが、独身で結婚の経験はない。

 松本は群馬県出身の五十二歳で、若い頃はアメリカや中南米諸国を放浪していて、四十歳の頃に沖縄に流れてきたという。こちらも独身で、仕事は塾の講師や沖縄の時事問題に関する取材のアシスタント。その他にタウン誌などの情報誌に掲載する記事を書いて、糊口をしのいでいるとのことだ。

 全員が何故沖縄に移住したのかと訊いてくるので、英昭は六十歳で早期退職し、独り身の気楽さで暖かい土地に住みたかったからと、当たり障りのない範囲で答えた。

 十一時過ぎにお開きになり、ゴミを分別して家が近い隆志と長嶺が持ち帰る。

 松本の家はおもろまち方面なので橋のたもとで別れたが、玉城とは帰る方向が一緒なので、英昭は二人で国際通りに出た。

 てんぶす辺りに来たところで、玉城が「近くの飲み屋でもう一杯やりますか?」と訊いてきたが、英昭は慣れないことの連続で疲れていたので遠慮した。

「そうですか。では今度ゆっくり行きましょ。家こっちなので、僕はここで!」

 玉城は片手を挙げて、路地に入っていった。

 一人になった英昭はコンビニに立ち寄り、牛乳と明日の朝食用のハムを買って家路についた。

 初めてのサークルだったが、肩の凝るような自己紹介をすることもなく、先生も親切なので初回を終えた印象では通い続けることが出来そうだと、英昭は思った。

 サークル後の飲み会らしきものに参加したメンバーも、気の良い人達のようなので、今後交友関係が広がるかもしれない。

 翌週の水曜日にも英昭はサークルに参加し、〈デンサー節〉等比較的弾き易い曲を習った。

 小節がなく、音符もないのでリズムを取るのに苦労するが、先生に合わせて弾くと、次第に慣れてくる。

「曲ごとにリズムが違うので、CDなんかで曲を聴いてリズムを覚えるのが一番ですよ」

 そう言って、古堅が中古のCDを売っている店を教えてくれた。

 今日は七十代の女性は不参加で、新人用の席は髪の長い二十代の女性と二人だ。

 休憩時間に英昭が挨拶すると、彼女は武田浩美ですと自己紹介をした。

 浩美は学生時代に旅行で訪れた沖縄が好きで、どうしても住みたいと思い、福岡県から移住して来たようだ。

 現在は小禄にある建築会社の事務職の仕事を得て、お金は無いけど楽しく暮らしていますと明るく話してくれた。

 サークル終了後は、前回と同じメンバーによる野外での飲み会となった。

 今日は、来月の敬老の日に行われるボランティア活動の一環として、首里にある老人ホームでの演奏会で披露する曲の練習がメインのようだ。

 英昭は練習の合間に、ウチナーンチュならではの情報を取材する。

 主に買い物の場所や、安くて旨い定食屋・飲み屋。観光客があまり訪れない名所旧跡や、地元の人ならではのお勧めの場所を聞くことが出来た。


 翌日、天気も良く絶好のドライブ日和に、英昭は新車で購入した車で沖縄本島の主要幹線道路の五十八号線から三百三十一号線を糸満方面に走り、大渡海岸を目指した。

 平日だが夏休み真只中で、〈わ〉〈れ〉ナンバーのレンタカーが多く、中には外国人が運転しているレンタカーも目立つ。

 ひめゆりの塔を過ぎ、暫く走って三百三十一号線から外れて、農道になっている狭い道を通って大渡海岸の駐車場に車を止めた。

 ここはジョン万次郎がアメリカからの帰国途中に上陸したところで、別名ジョン万ビーチとも呼ばれている。

 無料の駐車場にはレンタカーはなく、沖縄県民の車だけが駐車していた。

 海岸に降りると、干潮時で露わになっているゴツゴツとした岩のようなリーフが広がっていて、その先の海は透き通ったグリーンとブルーのグラデーションだ。

 目の前に広がる海を見て、英昭は沖縄に住んで良かったなと思う。

 東京周辺で海に行こうと思うと渋滞で何時間もかかるし、海の色や透明度は残念ながら比較の対象にもならない。

 節約のためポットに入れてきたアイスコーヒーを飲みながら一服し、スマホで写真を数枚撮ってから、古びたトイレを拝借してから車に戻る。

 数十分しか車から離れていなかったが、車内は熱気がこもっていた。

 エンジンをスタートさせ、オートエアコンが冷風を吐き出す中、新都心近くの銘苅にある地元量販店までのルートをナビで選択した。

 英昭は車を駐車場から出し、三百三十一号線に戻り、海岸線をスマホからブルートゥースで飛ばした音楽を聴きながら快適に走る。

 小腹が空いたので、途中のコンビニでサンドイッチと、必ず店員に「温めますか?」と訊かれる鮭のおにぎりを買い、遅めの昼食を駐車場に停めた車内で摂った。

 のんびりと車を走らせ、途中寄り道をしたので量販店の駐車場に到着したのは、午後六時近くになってしまった。

 英昭はローカルテレビのCMでこの量販店は知っていたが、まだ来たことはなかった。

 昨夜、長嶺から聞いた話では、銘柄にもよるがビールは全般的に安いとのことだ。

 夕方の買い物客で混雑する店内に入ると、洗剤やトイレットペーパー、インスタント食品・菓子類、カー用品に家電製品など何でもある。

 長嶺の情報は正確で、少なくとも英昭の愛飲しているビールは普段購入しているスーパーより安い。

 ツナ缶やパスタ類も安いので、英昭はそれらも一緒にカゴに入れてレジに向かった。

 数台あるレジには、地元の買い物客が列をなしていた。

 英昭が男性客の多いレジの列に並ぼうとすると、重そうにカゴを持った女性と鉢合わせになりそうになった。

 英昭がどうぞというように順番を譲ると、女性客はペコリとお辞儀をして作業服姿の男性のあとに並んだ。

 レジの順番が女性客になり、女性が横向きになった時に英昭を見て、あらっというような表情を見せた。

 英昭もつられて女性を見て、どこかで見た顔だなと考えていると、「三線のサークルに来ている方ですよね?」と、女性から標準語で訊かれた。

「あー、サークルの方ですよね」

 英昭も女性を教室で見た記憶がよみがえった。

 年配者の多い三線サークルの中で、唯一の三十代と思われる女性であった。

「そうです。お住まいはこちらの方ですか?」

「いえ、サークルの人にこの店はビールが安いと聞いたので、ドライブがてらに来てみました」

 英昭は、少し重いカゴを持ち上げて見せた。

「ここは結構いろいろなものが安いですよ。私も家は少し離れているんですけど、ちょくちょく利用しています」

 女性はきれいな歯並びを見せた。

「そうなんですか。あ、私、庄司と言います。まだ、沖縄に来て間もないんですけど、宜しくお願いします」

「私はカワナです。移住されてきたんですか?こちらこそ宜しくお願いします」

 カワナと名乗った女性も、軽く頭を下げてきた。

 白いTシャツにジーンズ、スニーカー姿だが、栗色の長めの髪を無造作に縛った姿は清潔感があって好印象だ。

 カワナと名乗った女性は商品の支払いを済ませると、英昭に軽く頭を下げてレジを離れた。

 それから出口近くに立っている、いかにもウチナーンチュのオジイといった感じの老人に、お待たせしましたと言って、連れ立って駐車場に向かった。

 標準語で話をするし、顔のつくりが沖縄っぽくないので、英昭には彼女は本土からの移住者のように見えた。

 カワナの漢字がどのようなものなのか聞かなかったが、結婚してこちらに来たのか、旦那の転勤でこちらに来たのかどちらかだろう。

 先程の老人は、彼女が近付くときの態度を見ても実の父親には見えない。多分、旦那の父親なのかもしれない。

 夕方の渋滞に巻き込まれながら部屋に帰ると、除湿器が満水で停止していた。

 部屋の湿度計を見ると八十二%になっている。

 暑さには慣れてきたが、湿気には中々適応出来ない。

 英昭はエアコンのスイッチを入れ、買って来たものを冷蔵庫や食器棚に仕舞う。

 今夜は人参しりしりとサラダ、トースターで少し焼いた厚揚げを肴にビールにしようと考えながら、冷凍庫に薄はりのグラスを入れて冷やした。

 手早く料理という程のものではない数品を作り、冷えたグラスに缶ビールを注いで一口飲んだ。こんなことでも十分に幸福感を味わえる。

 観たいテレビ番組がないのでスマホをチェックすると、長野からメールが届いていた。

 英昭が会社を辞める際に、メールはあまり使わなくなるのでLINEを始めろと何度も言ったのだが、結局メールのままだ。

 メールは、役職から離れ夏季休暇を取得するのに遠慮がなくなったので、八月下旬に家内同伴で沖縄に行く。三泊四日の予定だが、どこか都合の良い日に那覇で一杯やろう、といった内容だ。

 特に用事もないので、待ってるぞとコメントを送信したら、直ぐに長野から返信があった。

 少し遅れた俺の還暦祝いを兼ねたフルムーン旅行だから、子供達には留守番を命じて連れて行かない。庄司はどうせ暇だろうから、毎晩付き合ってやるとあった。

 フルムーン夫婦の邪魔をしたくないから一晩だけ付き合ってやる、と英昭は返信した。

 今時フルムーンなんて言うのかと思わないでもないが、久しぶりに会える長野と、話ができるのは楽しみだ。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 暇つぶしになって次回も読んでみたいと思っていただけましたら、励みになりますので、ハート・星・フォローをお願いします。


他に【シンビオシス~共生~】【ポイズン~自己中毒~】という物語もアップしていますので、ご一読いただけたらと思います。

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