第134話 狂犬と呼ばれた男
「警備の体制は
ユーフェミアは部下たちに細やかな指示を送りながら、数日前から徐々に高まる緊張が極限に達しようとしているのを感じていた。
ダニア本家の評議会である十刃会。
その長である彼女はこの日、朝から各方面に指示を出し続け忙しい時間があっという間に過ぎていくのを感じていた。
今日は公国からの客人であるトバイアスが来訪し、ブリジットと初の面談を行う日だ。
公国軍の総責任者であるビンガム将軍の息子との縁談は、公国とダニア本家に一定の協力関係をもたらすはず。
そう考えていたユーフェミアは1人、天幕の中で誰にも聞かれぬよう小さな
「こんなはずではなかったのだがな……」
本当ならばビンガム将軍の息子であるカーティスを迎えて意気揚々と縁談を進めるはずだった。
だがその
今からやって来るのは同じビンガムの息子でありながら、カーティスとは大違いの人物だ。
素行の悪さから狂犬などと
ブリジットはこの縁談を突っぱねるつもりだ。
彼女の意思は固い。
ユーフェミアはため息をついた。
「ふぅ……世の中というのは、ままならぬものだな」
ユーフェミアはこれまでダニアのために人生の全てを
ブリジットには気品と格を兼ね備えた女王になって欲しいと願い、彼女が幼い頃から教育係として厳しく接してきたのだ。
そのためにブリジットからは
そのことに後悔はない。
だが、それでもここまでの道のりが本当に正しかったのかといえば、ユーフェミアはそれを完全に
特に情夫ボルドの一件は、ブリジットとの間に深いしこりを残すことになった。
そんなことは分かっていてボルドの処刑を裁判で争ったのだ。
本家を率いる女王であるブリジットにとってそれが正しいことだと思ったからだ。
だがユーフェミアは目算を誤った。
ブリジットがあれほどまでにボルドを深く愛していたとは思いもしなかったのだ。
ボルドを失って一時的に失意に沈んだとしても、いずれ心の傷は
今にして思えば浅はかな考えだったと思う。
そうした理由もあって、この縁談の
だが、出来る限り公国との
そう考えるとブリジットの言った通り、トバイアスの悪評は返って好都合かもしれない。
「狂犬と呼ばれるほどの人物ならば、断られたとて当然だろう」
それから一時間後。
ついにトバイアスが到着した。
その出迎えに出たユーフェミアは思わず驚きに息を飲む。
落とし
護衛の兵士を数十名、多ければ100名は連れてくるだろうと思っていた。
だが、彼が連れてきたのは従者らしき1人の女だけだった。
トバイアスの後ろに静かに付き従う侍女は、落ち着いた深緑色の
他には兵士の1人すらもいない。
その様子に目を
「時刻通りだと思ったが、少し遅れてしまったかな?」
狂犬の名に似つかわしくない、落ち着いた美しい声と口調でトバイアスはそう言った。
ユーフェミアは
「い、いえ……そのようなことは。失礼いたしました。ダニア十刃会の長・ユーフェミアと申します」
「あなたが十刃長ユーフェミア殿か。大変聡明な方だとお
そう言うとトバイアスは優雅に一礼してみせる。
その姿はまるで貴族教育を幼き頃から叩き込まれた令息のようだった。
(これが……本当に狂犬か?)
ユーフェミアは内心の戸惑いを表情に出さぬよう努めた。
「こちらこそ。しかし……護衛の方々は?」
「ああ。父上からは護衛をつけるよう言われたのだが、私が断りました。今日はあくまでもブリジット殿へのご
「……そうでしたか。では、どうぞこちらへ。ご案内いたします」
そう言うとユーフェミアはトバイアスをブリジットの天幕へと
真っ白な頭髪が特徴的なトバイアスは顔立ちも美しく、周囲で整列して見守るダニアの女たちは思わず熱っぽい視線を彼に向けていた。
それを厳しい視線で
そこではブリジットがいつもの
だが天幕の戸布を開けたユーフェミアは思わず声を
「なっ……」
ブリジットが身に着けていたのはドレスではなく、銀色の胸当てと手甲、それに皮の
戦に
つい一時間ほど前にユーフェミアが確認した際には確かに
(くっ。アタシが目を離した
ユーフェミアは苦い表情でブリジットを
「ようこそおいで下さったな。お待ちしていた。トバイアス殿。ブリジットと申す」
「これはこれは。勇ましいお姿ですな。さすがダニアの誇る女王ブリジット殿」
面白そうにそう声を上げるとトバイアスは深々と一礼した。
「トバイアスと申します。本日は貴重なお時間を頂きまして深く感謝申し上げます」
「こんな姿ですまないな。アタシは
「いえ、そのお姿こそが戦に生きるダニアの女王としての在るべき装いなのでしょう。お美しゅうございますよ。ブリジット」
ブリジットとトバイアスは互いに笑みを浮かべて視線を交わした。
その様子を緊張の
そんなユーフェミアは気付かなかった。
トバイアスの後ろで穏やかな笑みを浮かべながら控える侍女のその目に、ほんの一瞬だけ鋭い光が宿ったことを。
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