例えば、平気な顔で赤信号を渡るような話
緋稲
第1話
24:01。信号は赤だった。車はいない。見ている人もいない。
仲田夏希は、退屈な日々の中にいた。身を焦がすような陽光が注ぐ七月、もう暦しか梅雨だと言わないような日照り続きの日だった。
街の中にいては汚れた空気に肺を蝕まれ、学校にいては喧騒が耳を貫くため、14:00だというのにひとり、公園のベンチに腰を下ろしていた。隣に佇むごみ箱からはすでに空き缶であふれており、ぬるくなったソーダを飲み終えた夏希は、小さく舌打ちをして空き缶を放った。
鞄を漁ると、布でくるんだ弁当箱が出てきた。傷む寸前の野菜や昨晩に見覚えのある炒め物などが、それでも彩りを保とうと並んでいる姿を、夏希は見なかったように蓋をして元の通り鞄に戻した。
遠くから、子供たちの声が聞こえる。今日は短縮日課なのだろうか、直にこの孤独の園も崩壊するだろう。そう考えると、この退屈な光景も色あせた遊具もやたら崇高なものに見えてしまうから不思議なものだ。
そういえば、クラスメイトに弟がいると聞いた気がする。自分にもいたらあんな感じなんだろうか、本人にとっては邪魔なことこの上ないらしいが、兄弟のいないものに邪魔だのなんだの言ったところでわかるはずもないだろう。
家に着くと、先月までは斜陽が照っていた部屋の中すら薄く白がかっており、夏至という日の存在を仄めかすように明るくなっていた。つい先日から片付け始めていた部屋は閑散としており、昼の公園を彷彿させる。少し暑くなってきた。
何もせずに無為、弁当の片づけをどうしようか考えているだけで二時間も経っていたようだ。母親に夕食の催促を受けてしまった。これは仕方のないことだと自分に言い聞かせつつ、二階にあるほうのトイレに中身を空けた。
仲田夏希は、退屈な日々の中にいた。しかし、生きることに事欠くようなことは何一つなく、そもそもいないことが相まって友人トラブルもなかった。
彼自身、他人の悪意が見えるという自覚があった。物心ついた時から彼の眼には、自身に向けられたものもほかの何かに向けられたものも、森羅万象に対する悪意が映っていた。それ故に信頼する人もおらず、どちらからの意図なのか距離を置いた人間関係のみが残っていた。
この世にある悪事のほとんどは人の悪意の上に成り立つ。
そのことを理解していた彼は、人の悪意を読み取ることで、安全かつ退屈な日々を過ごしていた。目立つことで悪意を浴びるような例を見て、通りすがりの名もなき人の何かに対する悪意を見て、人間の醜悪さを見て、そんな世界を嫌悪して生きてきた。
傍を通り過ぎるために一段階スピードを上げた自動車の運転手、わざわざ騒がしい話をするためだけに静かな自分の後ろの席を占拠して喧しく啼くクラスメイト、これ以上の片づけをしたくないがために敢えて二週間も見ないふりを続ける清掃員、座る人に青春を見せつけるかのように騒ぐ子供たち、持たざるものと知っておきながら持つものを卑下するような高等な手段で相手を貶めるようなクラスメイト、子供の自由な時間を奪っても自分たちの生活のルールに縛り付ける両親......
悪意を向けられることを不幸とするなら、自分の不幸自慢は小説化されてもいいとさえ思ってしまう。彼はそう、自らの悲運を呪っていたのである。唯一言えるとすれば、見られていることも知らず悪意を振りまく周囲の人間が、ひたすら愚かに見えることで優越感を味わえる程度か。自分を受け付けない世界のことなんて、そんなものでよかった。
隣に並ぶ者に縛られたくない。誰かの悪意に自分のペースを乱されたくない。誰もが思いやりを持てば、もっとこの世界は円滑に進むだろう。
24:01。信号は赤だった。車はいない。見ている人もいない。
いつも信号の色を見ずにわたっていた交差点の真ん中で、夏希は腰を下ろし、横になった。街灯も少ないこの道で、律儀に路面の安全確認をする車もいないだろう。
少し眩しい。エンジンの音が近づいてきた。
何もない部屋で「管理者」たちは語らう、人間の自由意志の在り方に気づけなかった一人の男の話を。
例えば、平気な顔で赤信号を渡るような話 緋稲 @hi-na1110
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