不合理な妄想について

東 哲信

不合理な妄想について

不合理な妄想について

 私は、多少疲れたようである。これは肉体上の問題というより、形而上のことで、もっともらしくいうのであれば、私は、激烈に多忙を極めた前期が済み、広大な自由を湛える夏季休暇を目前として狼狽しているのである。

 むろん、このことは、まるで具体的、実体的ではない。自由に対する恐怖というものは、不自由に対する恐怖とまったく本質が同じように、わけもなく私は感ぜられるのだが、いな、おおよそそのわけなどは知れていることだが、今、それを私の人生を含む、人類めいめいの個人の問題に帰属してしまうことは、如何せん悪だと感ぜられるのである。正論は、強い力を持っている。強い力を持つ者は、弱いもの、誤った者をねじ伏せる実力がある。だが、これを、どのような手法を以て建設的に行使するか、あるいは、これを望む志があるか否かという問題こそが、正論の本質、ひいては正義の本質であると私は考えるから、私は、不自由の苦悩と、自由の苦悩について今後しばらくは触れようとは思えない。なにせ、正しいことは、嘘よりも大きな力を持つのだから、大きな嘘が渡世に要求せられるのはなによりもその証左だ。

 

 ところで、最近、人の目が嫌いになった。

 とはいえ、以前より私は、人の目というものが多少嫌いであった。少しばかりでも相手の眼球が、私に向けた侮蔑心の色を映したのなら、とてつもない殺意に襲われてしまうからである。しかして、最近になってまたその機会が増え、つまり不合理な妄想が私の胸の中で存在感を増し、通りゆく人々すべてが、私を小ばかにしているように見え始めたのである。

 つまり、統合失調症の始まりとでもいうのか? この疑問については、私は、心理学者が嫌いなので予め考えもせずに背理している。私は、精神科に通うくらいならば、精神的な死も辞さない。

 だが、殺意を起こすとか、悲しむとか、こうしたことは精神衛生上よろしくないことは事実である。精神的な死は辞さないとは言ったが、死ぬことはだれしも嫌なことで、精神科を頼りにしないと啖呵を切ったからには、私は、自分自身の行動を以て、私の精神的生命を死守せねばならぬと思う。むろん、決死の覚悟でだ。

 

 だが、いずれ限界がくるだろう。不合理な妄想が、合理もへったくれもない現実に代替する日が、海は灼熱に沸き立ち、空は握りつぶした麩菓子のように実体を失し、人々の肉体は真緑に腐り、街には電柱くらいの蛆が沸き立つ日が、やがて来る。

 そうならぬためにも、この夏季休暇は重要な意味を持つのだが、その重要な意味を行使するためには、不自由の恐怖と、自由の恐怖について論じ、動かねばなるまい。だが、私にはその気力がない。むしろ、このまま不合理な妄想の世界へ魂を奪われてもよいとさえ時折思う。

 つまり、不合理な妄想とは、突き歩詰めのプリュレードである。多くの人は、これを演奏しきるだけの寿命を持ちはしないが。

 

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