三  迷走

 さて、ここで咸豊帝の名が再び出てきたので、話はこれよりも三年ほど前に遡らなければならない。

  三年前というと、ちょうど駱秉章と左宗棠が出会ったばかりの時期であるが、その頃に、再び清を苦しめたアロー戦争が起きていて、その結果清朝廷は北京を占領され、南京条約よりも屈辱的な北京条約を結ばされてしまった。よって、しばらくはこの戦争について述べる。これにより、清はさらに衰退への道を辿るからだ。この戦いは無論、宗棠にとっても無関係ではありえない。

 第二次アヘン戦争とも言うべきこの戦いで、清政府はイギリスばかりでなくフランスも相手にしなければならなくなっていたのだ。

 イギリス側にも事情があった。先に自国にとって有利な貿易条件を盛り込んだ南京条約を結ばせまでしたのに、それでも清国内へ入ることは認められていない上、不買運動などで国内でのイギリスへの反発が思った以上に強かったため、期待していたほどの貿易効果はさほど上がらないでいたという、何とも皮肉な事情である。これは確かに具合が悪かろう。「何のためにアヘン戦争を起こしたのか」と、つるし上げられるのは当たり前だ。

 しかし、貿易での経済効果が上がらない理由を、

「清政府が、我等とまともに貿易をすることを考えていないからだ」

 清政府に不利な条件ばかりを押し付けた自国にあるとは考えず、全て清の貿易システムのせいであるとしたのは、まさに虫が良すぎるとしか言えない。

 イギリス政府の中では、再び戦争になってもいいから、より都合のいい条約を結ばせるべきだとする考えが主流を占め始めた。そんな折も折、戦争を始めるのに格好の口実を、またしても清側が提供する形になったのである。

 これがアロー戦争の二年前、一八五六年に起きたアロー号事件だった。

 同年十月八日、清の官憲が、イギリスの船籍であると主張していた海賊船、アロー号を臨時検査した際、清人十二名を拘束、うち三名を逮捕したのだが、これが、当時広州領事だったパークスに、「イギリス船籍なのであるから、(南京)条約にのっとって、この臨時検査は不当である」と言いがかりを付けられ、さらにはこの際に官憲が、当時船に掲げられていたイギリス国旗を引き摺り下ろしたということで、

「イギリスに対する侮辱である」

 と決め付けられてしまった。

 こう書くと、いかにもパークスがやり手の老外交官に見えるが、この時、彼はまだ二十代後半の青年である。イギリス下町の工場街育ちの彼は、幼い頃に父母を亡くしたため、嫁いだ姉二人を頼りわずか十三歳で清にやってきて、十四歳でアヘン戦争に加わった。よって中国語ばかりでなく、中国の国情や清人の性癖にもある程度通じている。

 そういう凄まじい経歴を持つだけあって、若いといっても一筋縄では行かない人物であり、決して甘く見てはならなかったはずなのだ。

「どうしてもっとよく彼の人となりなど調査しない。敵を知れば己も危うからず、を、既に彼は我らで実践しているのだ。われらにとっては、敵に手の内を全て知られているようなものではないか。これでは勝負にならないのは当たり前だ」

 と、太平天国軍を相手にしながら、宗棠は自国の不甲斐なさを嘆いたものだ。

 当時の両江総督だった葉名琛こそ、「自分の息子のような若造に振り回された…」いい面の皮の第一号だったと言えるだろう。

 そもそも検査当時、イギリス国旗など揚がっていなかったということは後にではあるが証明されているし、もし揚がっていたとしても、アロー号の船籍登録が期限を数日過ぎていたため無効であったので、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利すらない。つまり、清官憲が行った逮捕は合法であり、イギリス側が口を挟む余地は全く無いのである。

 にもかかわらず、パークスは―彼はこの手を、幕末の我が国でもしばしば用いようとして、部下のアーネスト・サトウにその都度止められている―執拗に逮捕された清人三名の釈放と、葉名琛からの謝罪を求めた。

 当然のことながらその要求は清側に却下されたため、香港総督で清国駐在全権大使であったボーリングは、パークスと歩調を合わせるように、広州の砲台をイギリス兵によって占拠させた。そのことにより、ついに広州の民衆達の不満が爆発したのだ。彼らはイギリス人居留地を焼き払ってしまったのである。


 また、フランスはフランスで、宣教師が清政府によって殺害されたということを口実にした。こうしてついに攻め寄せてきた英仏連合軍は、翌年の十一月十四日に広州を占拠、葉名琛を捕らえて条約改正の交渉を迫った。

 敗戦の将ほど惨めなものはない。徹底抗戦を貫いて破れ、捕らえられた葉名琛はその後、香港のイギリス軍艦に連行された挙句、当時の清国の人々からも「不戦・不和・不守・不死・不降・不走」の六不総督だと嘲られ、約五十日後にはインドのカルカッタヘ送られて幽閉されてしまうのだ。そして自ら飲み食いを絶ち、幽閉されたまま、翌年四月九日に壮絶な餓死を遂げる。

 その後を襲って両江総督に任命されたのが、当時の清国でほとんど唯一、勇猛を誇っていた曽国藩というわけだ。以上のことからも、南京を省都に持つこの地域の防衛が、どれほど難しく、かつ重要なものだったかが伺える。

 ともかく、こうしてアロー戦争は始まってしまった。アメリカ・ロシアは参加こそしないものの、イギリスとフランスへ、自国が条約改正に参加する権利を主張している。そして実際、一八五八年二月に天津を占拠した折には、この四カ国でもって清政府に一方的な条約改正の交渉を求めたのだ。

 この折に連合国側が提示した条約が天津条約であるが、それは軍事費の賠償以外に、中国国内における外国人の移動と旅行の自由、外交官の北京駐在、キリスト教布教の自由などのほか、先だって開港した貿易港以外に、漢口、南京、九江他、十港の開港などの要求が盛りこまれているといったものだった。


 ただでさえ、国内では「外国人」に対する嫌悪の情が充満しているのに、これではそれをさらに煽るようなものだ。おまけにこの条約によって、なんとアヘンの輸入が公認されてしまったから、民間は無論のこと、宮中でも、

「こんな条約は到底呑めぬ」

 という意見が主流を占めたし、この条約を何とか改正しようとする動きが出たのは当たり前だろう。

 そして上のこういった気分は、下にも敏感に伝わる。葉名琛が捕らえられてからほぼ一年半後、条約の批准のために天津南、白河口に来た連合軍の船に対して、議論百出、紛糾している最中の清政府から出迎えは無かったし、民衆は民衆で軍船が通れないように河へ柵を設けたりなどして妨害したものだから、

「即刻、撤去せよ」

 苛立った連合軍がその障害物を退けようとしたところへ、清側からの大砲が炸裂、連合軍兵士に見事に命中してしまった。これによってうろたえた連合軍は、さらに先だって北京から太平天国軍を追い払ったセンゲリンチン将軍の攻撃を受け、ほうほうの体で上海に撤退するのである。

 当然ながら、連合国軍側は激怒した。そして再び大軍でもって押し寄せ、かつて痛い目を見たその砲台を占拠した上で、再び交渉を迫ったのだが、ここでパークスを含む英国使節団がセンゲリンチンによって捕らえられ、そのうち十一名が拷問の末殺害されてしまったのだ。

 パークスでさえ、殺されはしなかったものの、翌一八六一年十月までのほぼ一年、鎖につながれたままで、たっぷりと牢屋に入れられることになるのである。

 この報せは、太平天国と戦っている政府関係者たちにももちろん伝えられ、

「なんとも拙いことをしたものだ。せめて俺が北京にいたら」

 曽国藩に依頼された、長沙での義勇軍編成という任務をこなしながら、左宗棠は何度も呟いて苦い顔をしたものだ。この事件の実行を指示したのは、時の皇帝である咸豊帝だとされているが、

「君の意見も聞きたい」

 と、内なる敵との戦いで忙しい合間を縫い、胡林翼が伝え聞いたままを述べに来た時、

「君も分かっているはずだ。それは違うだろう」

 宗棠は即座に否定した。恩義を受けたからというばかりではなく、優しいというよりも軟弱とすら言われている皇帝が、そのようなむごたらしい殺し方を命じたとは、到底考えにくいからだ。

「周りの人間が、皇帝命令だということで片付けてしまったのだ。決まっている。政府の連中は相変わらず、まるで周りの情勢が見えていない。あまりにも浅はかで反吐が出るよ」

「確かに私もそう思うが」

 宗棠が言葉どおり苦々しく吐き捨てるのへ、この穏やかな友は頷きながら苦笑する。

「私ですら、これまでの連合国のやりくちはあんまりだと思う。政府のお偉方が激情に流されるのも無理はないではないか」

「だからといって、上の人間が冷静さを見失ってどうする。俺も決して連合国の連中は好きではないが、捕虜も人間だ。憎さのあまりいたぶり殺すなど、同じ人間のやることではない。この点だけでも、我々は列強に舐められるに十分な条件を備えてしまっている。大国だというなら大国らしく、逆に捕虜を歓待して寛容さを見せてやれば、我が国の民はともかく、周りの国からの我が国の評判も少しは変わろうものを。いくら敵が憎くても、今の我が国は残念ながら、その敵よりもはるかに劣っているのだから、力で攻めかかったところで歯が立つわけがない。ならばここはぐっと耐え、己を鍛えなおして、せめて彼らと対等の力を持てるように努力すべきなのだ」

「ふむ。しかしそれは現実問題としては難しいな」

 宗棠の意見も最もだと思いながら、胡は大いに嘆息したものだ。どうしても感情は理性に勝ってしまいがちなものだし、現状の清の国情を思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ぬ。

 宗棠のモットーは、

「敵であっても相手の優れたところは取り入れることによって、自己の向上を目指す」

 というものである。

 多分に『海国図志』の影響を受けてはいるが、つまり己に欠けている部分を素直に認めて鍛錬することによって、たとえどれほど長い年月がかかろうと、いつかは不利な状況をひっくり返すことは可能であるというのが彼の理屈なのだ。

「あくまで隠忍自重。戦は最後に勝つ者が勝ちなのだ』

 というわけである。頑固な人間は大抵短気さも持ち合わせているが、このことからも、宗棠が決して頑固なだけの人間ではないということが分かる。

 今回の場合の敵は西洋諸国であり、太平天国であるわけだが、とにかく彼の考え方は当時の清国の人々にしては新しく、それゆえに少数派で、大半は、

「金ピカの武装でもって威嚇して、こちらにばかり不利な状況を押し付けおって」

 と、とにかく西洋列強憎しという感情で動いている。

 憎悪の感情は、どんな理性的な人間でも、「これが同じ人物か」と周囲が思ってしまうほどに、その人の理性や普段の人間性さえ吹き飛ばしてしまう。そんな憎悪渦巻く真っ只中に、自分を気にかけてくれた若い皇帝がいて、気の弱い彼がこのことによってどれほど苦しんでいるのかと思うと、宗棠にしてみればとても他人事とは思えない。

「俺がすぐにでも北京へ飛んでいけたら」

 実際に北京へ行けた所で、どういう風に役に立てたかは分からないが、宗棠は繰り返しそう言い言い、咸豊帝が気の毒なのと、悔しいのとで胸を一杯にしながら、音を立てて歯を噛みあわせたものだ。

 実際、咸豊帝は、ついに北京へやってきた連合軍に到底敵わないとばかりに、後を異母弟、恭親王に任せてわずかな側近を引き連れて熱河へ逃げてしまっている。

 そして、置き去りにされた格好で後に残った恭親王もまた、

「一人ではどうにもならない」

 と言いたげに、どこかへ雲隠れしてしまった。周囲が認めていたように、覇気があるだけではなく、聡明な上に先見の明もあった恭親王だったから、自分の国が世界と比べて格段に劣っていることも十分承知していたに違いない。


 しかし、いくら覇気があったところで、己より優れている者へ立ち向かっても敵わないのが道理である。それにもともと皇位継承の件で、普段から異母兄へはあまり好意を抱いていない彼であったから、

「こういう時にだけ皇帝ヅラして命令しおって。戦続きでろくな装備もない、こんなボロボロの軍隊で、どうやって最新式の兵器を備えた軍隊と戦えというのだ」

 と、全てを自分へ押し付け、さっさと逃げてしまった咸豊帝に対する当てつけも、そこにはあっただろう。 

 それにしても二人とも、皇帝とその一族の癖に無責任だし、あまりにも不甲斐ないという気がしないでもない。一方、イギリス・フランス連合国軍は、そんな政府を尻目に「誰もいない」北京をいともやすやすと占領、名高い円明園を焼き払ったり、貴重な国宝を略奪したりの乱暴を尽くした上で、

「このまま出てこないとなれば、我々にも考えがある」

 と、いっかな出てこない「清国代表」恭親王へ向かって、最後通牒を突きつけたのである。

 そこで北の大国、ロシアの登場とあいなった。清国政府の大半の人間が、

「イギリス、フランスは脅威である」

 と、憎みながらも恐れていたから、ロシアが仲介を申し出たことに、むしろホッとしたかもしれない。ロシアが「おせっかいながら」と腰を上げたのだから、恭親王も姿を現さざるを得なくなった。これ以上引っ込んでいては恥の上塗りになるだろう。

 こうしてアロー戦争の条約交渉は、北京で行われた。もちろんこれは不平等条約である。

 賠償金の支払いはもちろん、先だって交渉していた天津条約の施行、香港島を含む領土を一部割譲することなど、連合国側により有利に改正された条約で、これにとっとと調印してしまったのだから、恭親王もまた非難の矢面に晒された。さらに、

「ひょっとすると西洋と通じているのではないか」

 とさえ思われて、排外主義者からは「鬼子六」、つまり「西洋の鬼どもと手を結んだ六男坊」という、実に手厳しい、不名誉なあだ名で呼ばれる羽目になる。

 さらに、直接の交戦相手だったイギリス、フランスばかりではなく、

「我らとも同じような条約を結ばないのは不条理である」

 などと言って、仲介役に立ったことを恩に着せつつ、ロシアまでもがちゃっかりそれに便乗した。ロシアが主張したのは、当時外満州といわれていた地域の一部だったウスリー川東よりアムール川南までの地域の割譲と、中国の支配下にあった新疆地区の都市カシュガル、モンゴル地方のウランバートル及び張家口における商取引の自由である。

 ロシアは割譲された土地を沿海州(別名プリモルスキー)とし、州都をウラジオストクとした。つまり元々、この地域は中国側の領土だったのだ。北の地にあるロシアが、凍らない港をどれほど切望していたかは周知の事実であるし、その気持ちは理解できなくもないが、これではどちらが不条理なのか分からない。

「やり口が酷すぎる。やはり林殿の見解は正しかった」

 そしてこのことは、宗棠の考えをいよいよ強固なものにした。彼のほうではこの間、太平天国の討伐のために組織した、五千名の義勇兵「楚軍」を引き連れた堂々たる将帥になり、中国大陸南部地域をあちらこちらと転戦している。

「外の敵まではさすがの俺も手が回らぬから、せめて内の敵の一つなりと、皇帝陛下のためにも鎮圧したい。そうすれば彼の憂いを少しは取り除けるだろう」

 と、彼は近しい人に漏らしつつ、その言葉どおりに太平天国軍を迎え撃つさら鎮圧したから、大将である曽国藩からも高い評価を得た。その推薦で咸豊十一(一八六一)年春に宗棠は清政府から浙江巡撫に任じられている。

 しかし彼は喜ぶどころかむしろ浮かない顔で、

「たかが浙江巡撫では、国家の危難を救うことは出来ない。もっと働きたくとも、権限に限りがありすぎる。これくらいならいいだろうと働けば、すぐに誰ぞが足を引っ張って、越権行為だなどと言う。言われないためには俺をもっと高い地位につけることが必要だというのに、政府の連中はまるで分かっていない。俺はもっと役に立つ人間なのだ」

 彼が今しも任ぜられた浙江省へ赴こうとしていた折、祝いの言葉を述べに訪ねてきた胡林翼にそう零した。

「相変わらずだな、君は」

 穏やかな胡も、宗棠のこのような「独特の正直さ」には時々辟易することがある。宗棠自身も、そんな自分が時折嫌でたまらなくなるということは知っているが、

「皇帝陛下の憂いは、浙江一省における太平天国を一掃したところで、到底晴れぬよ。この国は、根元から間違っている。思い切った改革が必要なのだ」

「それは正論だが」

 と、その気宇壮大さに本音からの苦笑がつい漏れてしまう。

 世に出た当初は己の才能を表現する場として見ていたかもしれないが、宗棠は今や、心からこの国の行く末を強く憂えている。その強い憂いはどこから発しているのかと問えば、

「全ては俺を気にかけてくれた咸豊帝陛下のためだ」

 と彼は言うだろう。

 内には太平天国や捻匪の乱、外からは西欧列強の圧力を受けるなど、まさに内憂外患といったこの状況下、優しい気性の咸豊帝の心身が耐えられるはずがない。繰り返すが、優しさはこういった動乱の時期には到底向かないのだ。

 それに、それら二つの敵を裁ききれぬということは、清政府自体の土台がぐらついているということに他ならない。実際、見る人が見れば、清はもうダメだということになるのだろうが、

「たとえそうなるにしても、俺の目の黒いうちにはそうさせぬよ」

 宗棠は熱を持ってはっきり言い切った。

「君ならやってくれるだろう。私は信じている」

『彼は有言実行の人間だ』

 彼同様、小鬢に近頃めっきり白いものが増えた胡林翼は、信頼を込めて頷く。

「君は、いずれは海軍も構築するつもりなのだろう」

「その通りだ。わが国も海に面している以上、列強と肩を並べるためには必ず必要になる。場所としては福建が最適だ。福建で俺は、フランスに協力させて我が国の海軍を創る。時間がかかるであろうから、俺の目の黒いうちに完成させられぬかもしれないが、その母体を作ることは出来るだろう。そのことも常々、大将(曽国藩)に進言しているから、いずれその通りになる」

「そうだな。そうなるとかなり心強い」

 胡は、こういった「自分なら、思っていても実行する前から諦めるだろう…」ことを、五十歳近くになっても果敢に実行する友を、改めて尊敬の目で見直したものだ。

 宗棠は、一度腹を割って話し合った人間を、自分からは決して裏切らない。自分から去っていく人間を追い求めたこともない代わりに、戻ってきた人間をまた容れる度量もある。

 しかし、あまりにも自尊心が高すぎるため、自分よりも年上だろうが年下だろうが、一旦彼が「話すに足らず」と思い込んでしまうと、たちまち見向きもしなくなってしまう。つまり、彼が他の人間を容れる心の幅そのものが、もともとあまりにも狭い。そのため、

「頭は良いが頑固で偏屈すぎる。思い込みが激しすぎる。ゆえにとっつきにくい」

 と、初対面で周りの人間に思われてしまう。

 実際、もう一人の恩人であるはずの曽国藩に対してさえ、曽が彼の弟や息子で己の周りを固めようとした時、宗棠は遠慮なく「軍の私物化に繋がる」「軍記がたるむ」と、彼にとっては間違いであると信じているところを糾弾した。太平天国の乱を平定した後、清政府に睨まれるのを恐れた曽国藩が、直属の軍隊を解散させたことについても、

「何もやましいところがないのだから、何故そこまでする必要がある。貴方のそういうところが、小心者といわれるのだ」

 と、面と向かって非難したものだ。

 その他の折にでもふとした拍子に言い合いになったとき―その大半は、宗棠が一方的に曽国藩を罵るといった風だったのだが―あまりにもその語気が激しいので人々は、

「大将ですら、宗棠とはウマが合わない」

 と見て、

「抗行シテ少シモ屈セズ、スナワチ時ニ合イ時二合ワズ」

 と言い切ってしまった。

 なにさま、宗棠が己の心に思いつくままを怒鳴り散らかして歩くので、人はその美点に気付きにくい。よって、彼を好きな人間はとことん好きになるし、嫌いな人間は嫌いなまま、と、評価が極端に分かれてしまう。

 若い者は特に、宗棠という人間を理解することが難しい。己以外の人間をより深く理解しようという辛抱強さが、年寄りに比べるとやはり欠けているからだ。

 それに宗棠のほうでも、彼を気遣って曽国藩がわざわざ彼の元へ寄越した若い者さえ、気に食わなければ遠慮なく叱り飛ばして、そのまま曽の元へ送り返してしまう。彼より若い者が未熟なのは当たり前で、だからこそ長い目で見て育てなければならないのだが、

「この切羽詰った折に、そのような悠長なことをしておられるものか。俺に必要なのは、今すぐ役に立つ人間だ。俺はこういう短気な人間なのだわい」

 そういうわけで、この点では、宗棠の気の短さが剥き出しになっているし、彼自身もすでに彼の性癖を改められず、開き直ってしまっているらしいのも大変に惜しい。

 だが、曽国藩自身と宗棠は、本当にウマが合わなかったかどうか。

 宗棠は多分に、

『大将なら、俺が何か無礼を言っても笑って聞き流してくれるし、重要だと思ったことはきちんと聞き入れてくれる』

 と、ある意味一つ年上の曽国藩に甘えていた節がある。先ほどの国藩を罵った言葉も、弟が兄に対するのと同じような気持ちから、つい出たものではなかろうか。


 曽国藩のほうでも、宗棠が限り無く不器用で、しかも裏表のない、ある種大変に魅力に溢れた豪傑であることを十分に承知していた。それに彼ほどの人物なら、他人が自分に対して本当に好意を抱いているかどうかくらいは、すぐに察しただろう。

 怒鳴りあっているように見えても存外、その怒鳴りあうこと自体が二人にとっては―他人から見れば一風変わった―楽しみでもあったかもしれない。

 胡林翼もまた、この二人の間に漂う独特な空気を感じ取っていたから、周囲の人間ほど気を揉んでいたわけではない。むしろ、

『なるだけ素直な後継者に恵まれれば良いのだが』

 と、例によって人付き合いという方で宗棠を心配しながら、

「私はこれから、武昌へゆくよ。太平天国軍がまたぞろ、湖北省へ入ってこようとしているのでね」

 安慶へ向かった曽国藩の弟、曽国荃を助けに行くように頼まれたのだと告げた。

「しばらくお別れだが、何、浙江とならさほどの距離ではない。君の噂も即日、入ってこようよ。それを楽しみにしているさ」

「ああ、俺も君が窮地に陥っていると聞けば、すぐに助けにゆこう」

「頼りにしているよ」

 二人は言い合って、固い握手を交わした。

 だが、そんな風に、誰よりも彼を好きでいてくれた胡林翼という得がたい友は、それから半年後の九月末、任地先である湖北省武昌で病没してしまった。そのことを伝え聞いた折にも宗棠は、情の豊かな人間らしく、

「アイツはいいヤツで、俺なんぞを好きだった。俺なんぞを好きだったヤツなのだから、いいヤツに決まっている。なぜいいヤツばかりが先に死ぬのだ」

 と、繰り返し叫んでは号泣したものだ。

 たとえ知り合っていても、深く惚れ込まなければ、胡とて決して、積極的に宗棠を売り出そうとはしなかったろう。そしてそんな胡がいなければ、宗棠は世に知られることさえなかったはずである。

 『読史兵略』という書まで表していながら、あくまで慎ましく、穏やかな性情であった胡林翼は、宗棠や曽国藩とともに清中興の名臣とされ、功績があった臣下に対して通例の、文忠の諡号を贈られている。

 胡林翼が亡くなったさらにその三年後には、宗棠は浙江、福建省を兼ねた閩浙総督に昇格して、イギリス、フランスの協力をも得ながら、太平天国軍から杭州を奪回している。五十歳で「たかが挙人風情」にしては異例の出世を遂げたわけだが、

「ああ、虚しいよ。せめて二人にはもう三年、生きていて欲しかった」

 宗棠はうかない顔をして、胡のほかにいた、数少ない親しい友に繰り返し零した。同年八月二十二日(中国暦では七月十七日)、彼のもう一人恩人である咸豊帝が、逃亡先の熱河において、まだ三十歳そこらの若さで亡くなってしまっているからだ。

 しかしとにもかくにも、咸豊帝の死後の同治三(一八六四)年七月、太平天国内部で「天京事変」のゴタゴタがまだ続いていたのに乗じて、清政府側はようやく乱を平定した。

 宗棠が咸豊帝にもう三年生きていて欲しかったと言ったのは、このことによる。もちろん、政府軍が太平天国を討伐したといっても、実際は曽国藩とその幕下にある左宗棠らの働きによるところがほとんどで、彼らの名は今や、中国大陸中に轟き渡っているといっても過言ではない。

「捻匪の討伐を行え」

 と、清朝から宗棠へ直々に依頼が来たのも、それまでの活躍が物を言ったのだろう。

 咸豊帝崩御後は、慈禧皇太后すなわち西太后の腹になる載淳が即位して、同治帝と呼ばれている。これについては、恭親王を含む故咸豊帝の異母弟その他、皇帝に近しい一族内での争いがあったわけだが、

「俺には関係ないことさね」

 いよいよ彼が北京へ出発し、皇帝へ拝謁を願うとあって、

「俺は、与えられた任務をただこなすだけですよ」

 福建省総督府内の己に与えられていた一室で、彼を見送るためにやってきたそれらの人々に向かい、宗棠はそう言って嘯いた。

 今回の任務は、

『つまりは元農民反乱軍討伐で、性質的には太平天国を掃討するのと似ている』

 己が出たならすぐに片がつく、と、彼は思っている。

 太平天国討伐の功で己が侯爵となれたのは、宗棠の活躍のおかげでもあるからというわけで、彼を朝廷に売り出した当の本人である曽国藩は、

「ああ、君ならやる。私は信じているが」

 相変わらずの部下の様子に苦笑した。彼ももちろん、北京で起こった政権交代劇の経緯と、今、実際に政権を握っているのは幼い同治帝ではなく、その母である西太后であることを知っている。

 このたび、

「戦のついでだから」

 ということを口実に、太平天国が滅亡したばかりの混乱の中、忙しいはずの曽「侯爵」がわざわざ彼を訪ねてきたのは、

「くれぐれも、皇帝一族や側近どもに失礼のないようにせねばならん。君にはそういった配慮が根本から欠けているからね」

 ひとえにそのことが心配だったからなのだ。

 もっとハッキリ言うなら、曽国藩が特に憂慮しているのは、

「女なぞに大の男がへいこら出来るか」

 と、宗棠が言い出しはしないかということである。

 古来、中国大陸では女性の地位は男性と比べ物にならないくらい低い。よって、たまに呂后や則天武后などの個性のきつい、男勝りの女性が現れたりすると、それらの女性はすぐに悪女呼ばわりされてしまうのだが、

『あの女にもそのきらいが濃厚にある』

 北京からはるか南にいながら、曽は西太后に、呂后、則天武后の二人と同じ匂いを嗅ぎ取っていた。自分の夫である咸豊帝が亡くなって、その死を嘆くどころか、恭親王と共謀して己の腹を痛めた子を帝位につけ、その他にも大勢いた皇帝候補の親王たちを、それこそ夫の遺体が冷めぬ間に、一気に片付けたほどの女なのだ。と、少なくとも清国内にはそう伝わっている。

 彼もまた、この時代の常識人であったから、本音は宗棠と同様、「女なぞに…」といったところであろう。あまりにも素早い皇室関係者の粛清、味方であるはずの恭親王に対してさえも、彼が頭を出そうとするのを巧みに押さえつける手腕…当時の宮廷関係者のほとんどが西太后のことを「悪女の再来」と思ったに違いない。

 しかし、その「女ごとき」が、今は実質上、政権を握りつつあるのである。

「今の権力者が誰なのか、よくよく見極めて慎重に動いたがよい。でないと君の首はすぐにでも胴体を離れるぞ」

 つまり、はっきりと口に出しては言えないが、西太后の機嫌を主に取り結べ、ということで、そこまで曽が述べるのは、故胡林翼ほどとはいかないまでも、宗棠へ好意と信頼を寄せてくれるからである。

 それをありがたいと思いつつも、

「それも重々承知しています」

 宗棠は、ほろ苦い笑いを漏らした。自国の歴史と、朝廷の中において、役人どもが必ずといっていいほど醸し出す腐敗臭の危険さは、繰り返し勉強して熟知しているし、もちろん今回のクーデターについても知らされている。

「それについても、いちいちつっかかってはならんよ。君が述べる意見はいつでも正論だと私自身は思っているが、今回ばかりは全く見知らぬ土地へ行くのだから、勝手も分からないだろう。何事も中枢役人どもの協力を得なければ、実行するのは難しいかもしれん」

 当時の感覚としては、中国大陸の南から北への移動はまさに別の国へ行くようなものだ。

 この物語の最初でも述べたが、中国大陸南部は温暖湿潤で、昼夜の寒暖の差は比較的に少ない。逆に北京は内陸で、吹く風にはほとんど湿り気もなく、朝晩が大変に冷える。

 気候も風土もまるきり違っているのだから、その折の曽の心配も決して非現実的なものではないのだ。加えて、宗棠ももう決して若くはない。初老の身体が、気候の変化にどれだけついてゆけるか。

「ああ、そうですな」

 宗棠は、曽が心配して繰り返す言葉に一応は頷いた。曽も(聡明な彼には要らざる繰言)と思いながらも心配でならず、

「君には難しいだろうが、せいぜい糞役人どもの機嫌を取り結ぶことだ」

『俺が庇ってやらねばどうしようもない』

 と、つい、そう口出しせずにはいられないのだ。

 曽国藩も宗棠の才能についてではなく、五十歳になっても相変わらずの、世渡りと人間付き合いの下手さを心配している。宗棠と一度でも深く知り合った人間は、意外に彼が憎めない人物であるのが分かるから、宗棠に鬱陶しがられながらも、どうしても世話を焼いてしまうのだが、

『そこまで行くのが大変だ』

 理解するまでにかかった時間を思い出して、曽はゲッソリしながらため息を着いた。

 この、変に頑固で、いささか偏った正義感と侠気心に溢れていて、偏屈であるが大変に単純という複雑な性格を持った宗棠という人間を、陰湿な謀をめぐらすという点では天下一品の政府官僚たちが、果たしてまっとうに理解してくれるだろうか。誰もが亡くなった胡林翼のような人間ばかりではない。自分がそうであったように、宗棠という人間を真に理解するのには、いささかの労力が要求されるのだ。

 これまでの宗棠の活躍が物を言って、宮廷の中でもまだ一面識もない彼を熱く支持する人間が多くいるらしいのは心強いが、

「それらの人間まで、敵に回すようなことがあってはならん。それが出来なければ、すぐにでもここへまた戻って来れば良い。君には私だけではなく、駱殿(かつての宗棠の上司、駱秉章。この当時は四川総督に任じられていた)もいる。君一人だけで戦っているのではないということを忘れるな」

「そのことなら、もうこれ以上口を酸っぱくして言われずとも大丈夫です。せいぜい肝に銘じておきましょう」

 何度も言われると、「日頃から仲が悪い者同士」と周囲のものに見られているように、さすがにムッとしてしまう。宗棠は仏頂面になってそっぽを向き、馬に乗るために足早に厩舎へ向かった。

『この癖が北京でも、なるべく出なければ良いのだが』

 その後を、曽は苦笑しながら追いかけて、

「君の家族は、私が責任を持って面倒を見よう。私も忙しい身だが、私の代わりに信頼できる人物を派遣させる。決して君に心配はかけさせぬよ」

 言うと、宗棠はやっと足を止め、この上司の顔をまじまじと見つめた。

『家族、か』

 思えば己の才能を買われて世に出て以来、彼は己の家族を一度も顧みたことはない。たまたま以前、彼を慕って長男の左孝威が尋ねてきたことがあったが、

「国務と私事は別である。だから息子とはいえ会うわけにはいかない」

 と言って追い返しさえしていたから、

『嫁や子等のほうが、不実な俺のことなど忘れているだろうよ』

 そう思い、宗棠は無造作に伸ばした胡麻塩髭の中で苦笑を噛み殺した。

 忙しい仕事の合間に、ちょくちょく家には帰るようにはしているが、その期間もせいぜい二晩か三晩だけで、再び慌しく勤務に戻る。そのたびに妻を身ごもらせて、今では合計五人の子持ちになったが、何のことはない、子作りのために帰宅していたようなものだ。

 最初に出来た子以外は全員男子で、その点では立派に家長としての役割の一つを果たしていると言えなくもないし、正規の官位をもらっているから、経済的にも全く不自由していない。彼の家族に定期的に送っている金も、塾勤めをしている頃の倍以上になった。従って子が多いと言っても、家族の暮らし向きは格段に楽になっている。

 しかし、

『それだけでは夫であり、父であるとは胸を張って言えぬだろう』

 そう思ってこみ上げる苦笑を噛み殺しながら、

「よろしくお願いします」

 宗棠は曽国藩に深々と頭を下げた。己の家族のことまで頼めるのは、彼の唯一無二の親友であった胡林翼が亡くなって以来、彼の性癖をよく飲み込んでいる数少ない人間の一人であるこの曽しかいない。

 しかし宗棠にとって気がかりなことは、あくまで家族以外のことで、

「海軍のことを、誰ぞに頼めませんか。フランスとの交渉も出来る人間がいれば」

「うむ」

 宗棠が言うと、曽もまた難しい顔をし、高く大きな鼻の穴から息を吐き出した。

 宗棠が言っているのは、閩浙総督になって数年、東南における太平天国の残党を掃討する合間に、福建において彼が手がけていた海軍建設のことである。

 太平天国が滅亡した同治三(一八六四)年七月から、かねて彼が言っていたようにフランスの協力も取り付けて、ようやく本腰を入れることが出来るようになった。フランスから技師を招いて、船も作りかけている。なんとか形にはなってきたか、というところでの今回のお召しである。当たり前だが、実戦に使えるほどにはまだまるきり達していない。

 何においても言えることだが、せっかく物を創っても、それを継承させ、発展させる人間が後にいなければ意味がないのだ。故胡林翼が心配していたのも実にこの点で、

「煮えかけた鍋を放ったらかしにするようなものです。大変に気持ちが悪い」

「よく分かるよ」

 曽もまた頷いて、再び吸い込んだ息を大きく吐き出す。その拍子に、手入れを怠った鼻毛がちろりと覗いて、それが少しくすぐったかったらしい。無造作にその鼻毛を指で摘んで抜きながら、

「それについてはこちらも考えておく。しかし人選が難しいので、時間がかかることを承知しておいて欲しい」

『というよりも、見つからないかもしれん。その可能性のほうが高いな』

 告げて、この髭と眉の濃い、したがっていささか毛深い侯爵は思い、抜いた鼻毛を指先でピンと弾き飛ばした。

 彼が「人選が難しい」と言ったのには、何も彼の元に大した人間がいないというわけではない。むしろ「自分を使ってくれ」と売り込みに来る人間のほうが多く、その選り分けに四苦八苦しているくらいなのだ。問題は、宗棠が己自身の後継者となる人間について、厳しい条件を付け過ぎるために、人選が困難だという一点につきる。

 宗棠は未だに「国事に自分の血縁者を参加させると、かならず私情が出る。ゆえに自分の帷幕には加えない」と頑固に主張している。曽国藩に言わせれば、その息子が訪ねてきた折にでも息子を訓育し、後継者にしてしまえば良かったのだが、そんな偏屈な宗棠であるから、彼の下につこうとする奇特な人間は、はっきり言うとほとんどいない。

『敢えて言うなら、李か』

 海軍、と言われて、まず曽の頭に浮かんだのは、彼の後継者の中で最も年若く、その割に学も深い李鴻章のことだった。これは上海で後の淮軍派軍隊、「北洋軍」なるものを、現在構築しかけているところである。

「だが、たとえ李でも、この頑固者は首を縦にふるまい。李のほうでも、あちらから願い下げだと言ってくるに違いない。乃公出ずんばとはよく言ったものだ』

 性格的にあまりにも対極的な二人を思い浮かべて、彼はわずかに苦笑しながら首を振った。 

 李鴻章は、宗棠が何よりも嫌いな―と、曽国藩は勝手に推測している―エリート、進士である。彼らよりも一回り以上年下で、まだ四十歳には間があるというのに、既に曽の推挙で江蘇巡撫に任じられており、彼ら二人ほどではないにしても、太平天国討伐において重要な拠点のひとつであった上海を護りきるなど、かなりの功績を挙げているのだ。加えて人となりも、古典文学を深く研究したせいもあってか、少なくとも表面上は宗棠よりも温和であり、人とうまくやるコツというものを知っている。

 二十四歳で科挙試験に合格し、そのまま政府中枢、上の地位を目指すことも可能なほどの優等生であったが、

「北京に引っ込んでいては、国は護れない」

 と言って、太平天国討伐のために自ら団練(民間義勇軍)を組織したところなどは、宗棠に通じるものがあるかもしれない。

 そんな彼を、たってと請うて、曽国藩は自分の帷幕に加えた。

 李鴻章はその後、自分の団練を曽の湘勇(湘軍のこと。当時は曽が組織していた義勇軍を民間ではこう呼んだ)に倣い、己の故郷にちなんで淮勇とし、蘇州や常州などで大いに戦ったのだが、これも宗棠は、

「所詮は大将(曽国藩)の猿真似だ。優等生には得てして独自性がないものさ」

 と、片付けてしまっている。そう考えたのは彼だけではなく、他にもいたかもしれないが、どちらにしてもいい年をした人間が口に出すべき言葉ではない。

 しかし、口に出した後のことを考えず、また、そうすることで自分への評価へ跳ね返ってくるということを十分承知の上で、言わずもがなの一言を言ってしまうのが宗棠なのだ。当然ながら、先の言葉は李の耳にも入ってしまっている。

 繰り返すが、深く付き合えば、彼にはあくまで悪気は無く、思ったままを言い散らかしているに過ぎないということが分かる。しかしあいにく人はそこまで暇ではない。誰しも評判の悪い上司と一緒には働きたくなかろうし、ましてや酷評された本人である李鴻章なら尚更であろう。

 福州における船政局、つまり海軍の母体を創設するに当たって、李は曽の依頼で宗棠へ力を貸そうとしたことがあるが、

「あの御仁だけはどうにも…ご自身の構想で頭が一杯で、他の意見を容れる隙がこれっぽちもないようで。ご自身の手足になる人間だけを欲しているように見えます」

 いくら宗棠へ献策しても、「若輩者が何を言うか。まずはフランスに学べ」とばかりに鼻先であしらわれるのだと、苦笑混じりに曽へ向かって嘆いたことがある。

『自分がなれなかった進士というものに、よほどのコンプレックスを持っているらしい。俺の意見を容れないのも、俺が彼より若いからというだけではなくて、進士だからだろう』

 と、先に宗棠が放った一言のこともあって、

『なるほど、頭の回転は速いし学もある。出来る人物ではあるが、くだらん嫉妬で目を曇らせている。まことに尻の穴の狭い御仁だ』

 若かりし日の李はそういった方向で宗棠を誤解してしまった。よって李鴻章もやはり、宗棠へ良い感情を抱いているとは言えぬ。

 同じように曽国藩という大将を頂いて、

「西欧列強の科学文明を積極的に取り入れ、自国の強化を図る」

 という思想―つまりこれが後世、洋務運動と呼ばれるものになる―同じ思想を抱いていながら、個性の強い両者の目指すところは、まるで違っていた。しかし、後ほどこの二人が清朝廷において政治的に対立するとは、この時点では誰も想像しなかっただろう。

 ともあれ、そんなこんなで曽国藩は、宗棠の思うような海軍に発展させられる人間を見つけるには時間がかかる、と言ったのである。

 たとえ後続の人間が見つかって、その人間がどのように尽力しても、宗棠は悪気ではなく必ず文句を言うに違いないから、彼が構想していた海軍建設は、最悪このまま頓挫するかもしれない。

「まことに心残りです」

 そのことを自分でも承知しているだろう宗棠が短く言うのへ、

『李のほうが年上であったら、どうであったか。李なら案外、コイツを使いこなせたかもしれないが』

 そう思いながら、それ以上は何も言わずに曽も頷いて返した。いずれが年上でも、それに相手が例え誰であっても、宗棠の態度は変わるまい。

 これは後日のことながら、曽にはその帷幕に左宗棠、李鴻章そのほか、錚々たる後継者がいたのに対し、『清史稿』左宗棠伝の、

「宗棠ハ鋒頴凛々トシテ敵ニ向カウ。士論ココヲ以ッテ益々コレニ附ク。然レドモ好ンデ自ラ矜伐ス。故ニソノ門ヨリ出ズル者、成徳達材ハ国藩ノ盛ンナルニ及バズ」

 という記述からも窺い知れるように、結果的に、宗棠のもとに優秀な人材が集まってくることは絶えてなかった。あげて頑固すぎ、強気すぎた彼の性格が大元の原因である。

 ともかくも、こうして故郷一帯を護ること十数年あまり、左宗棠は、いよいよ皇帝の膝元である北京へ向かうことになった。

 宗棠にとっては、まさに見たこともない別国だ。漢民族ではない異民族が支配しているので言語も少し違うし、同様に人々の性情も違うらしいと聞いているが、

『同じ清人同士だ。恐れることはなかろう。俺は誠意で持って事に当たるのみ』

 鬢のほとんどが白くなっても、まだ見ぬ北京の空へ向かって、彼の意気はますます盛んであった。


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沙ニ抗ス せんのあすむ @sennoasumu

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