二 外ハ五省ヲ援ク

 こうして宗棠が張の客となったのが、太平天国の連中が蜂起してから二年ほど経った咸豊二(一八五二)年七月のこと。永安に滞在していた彼らが、そこから北上していよいよ宗棠の護る湖南省の省都(県庁所在地のようなもの)である長沙へと迫ってきていた頃のことである。

 その前月、彼らはすでに、省の最大の川である湘江のほとりにまでやってきていた。

 湘江は長沙のほぼ中心で瀏陽河と撈刀河の二つに分かれて流れ、さらに大小の川と合流して一つの大河となり、その先の湘陰県の濠河口で再び左右に分かれて洞庭湖に注ぐ。当時も現在も変わらぬ、この地方の重要な動脈路なのだ。この川の流れに乗れば、流れに沿って主要な各都市を落とすことも可能だった。

 この川畔での戦いで、清軍側は太平天国幹部の一人である馮雲山を破り、戦死させていた。だがその弔い合戦を、というわけで、天国側の士気は衰えるどころかいよいよ盛んなのである。

「先生の考えを聞きたい」

 早速彼を総督府へ招いた湖南巡撫、張亮基もまた焦りつつ、少々半信半疑で宗棠に言った。

 胡林翼が特にと推したので己の幕下に加えたが、胡と共に現れた目の前の人物ときたら、肩肘張って見るからに傲岸不遜、一癖も二癖もありそうな面構えをしているのだ。

『挙人には合格したと聞いているが』

 なるほど、確かにこれは、進士つまりエリートの顔をしていない、と、宗棠を改めて見直しながら、少々失礼なことを張は思った。教養のほうは大したことは無さそうだ、と、つい考えてしまったのである。

 それに対して、

「長沙は昔から主要都市ゆえ、特に固い壁によって護られております。よってさらに城壁を高くし固く固く護れば、速戦を願う彼奴らめの目論みは崩れ、いずれは自ら腐敗を起こして撤退するでしょう」

 まるで鼻歌でも歌いだすような涼しい顔で、横に長い机を挟んだ向かい側に立っている宗棠は答えた。

 中国の一般的な大都市は、その周りを城壁で持って囲まれているのが普通である。つまり町というよりも一個の城砦のようなものだ。確かに町ごとあげて護り、持ち堪えることが出来れば、遠路はるばるやってきた賊軍もいつかはさすがに撤退するだろうが、 

『なんだ、そんなことか』

 彼の答えに、張はやや失望して、いつも眠そうなその目を一層細くした。

 不敵な面構えであるから、それにふさわしい何か奇策のようなものが飛び出てくるかと思えば、その程度のことである。それなら誰もがやれそうで考え付くことであり、実行しては失敗していることだからだ。しかし宗棠が続けて、

「しかしその兵力は我々が自分たちで作り上げるのであって、朝廷からの援軍を当てにするのではありません。城内の民に自分の町を自分で護ることを教えるのです」

 そう言った時には、さすがに張の瞼が開いた。

 張亮基とて、曽国藩率いる湘軍、同様に李鴻章率いる淮軍などの民間義勇軍のことを聞いているし、十九世紀初頭に白蓮教徒の乱が起きた際、清政府が民間で組織させた「団錬」と同じ名前をその義勇軍が名乗っていることも知っている。

 だが、それを自分が実際にやるとなると、

『曽国藩だからこそ、成功したのではないか』

 俺が同じことをしても、と、つい腰が引けてしまう。

「武器の扱いすら知らぬ一般の民に、それが出来ようか」

「やってやれぬことはありますまい」

 ややためらいを見せながらも、身を乗り出した張へ、宗棠もやや身体を近づけ、

「清帝国のためではありません。自分たちの生活を護るために戦うのだと励ますのです。そうなれば、たとえ武器を持っていなくとも立派な兵力になりましょう」

 途端、張は腕を組んで思わず唸った。

 湖南省においても、はっきりと形にこそなっていないものの、民衆の心の中で清帝国への不満が渦巻いていると言えなくもない。敵を欺くにはまず味方から、というが、「帝国のためではなく自分たちのため」に故郷を護るという言葉は必ずしも嘘にはならない。そう言えば恐らく民衆も納得しようし、結果的にはそれが帝国を救うことにもつながる。

『なるほど、胡が推すだけの人物だわい』

 概して、中国の人々は日本人よりも故郷に対する愛着と執着が甚だ強い。これはその人口を構成している人々の多くが農民であったことと、あながち無関係ではないかもしれない。農民は基本的に自分の耕している土地からあまり離れたがらないし、そういった意味では故郷に対する、というよりも自分の土地に対する愛着のほうが強いと言える。

「やってみよう。民の扱いは先生に全てお任せする」

 張はしばらく考えた後、そう言った。

 失敗したところでその責任を負うのは、皇帝にまで名を知られた左宗棠である。責めを負わされそうになった時は、そう言えば自分の身は安全であろう、と、彼は考えたのである。従って、

『やれるだけ、やらせてみればよい』

 むしろ、肩の荷を下ろしたような気分でそう思った。

 この発想が浮かんだのは宗棠ばかりではなく、先ほど名の出た団練の大将、曽国藩や李鴻章も同様である。

 もう少し詳しく述べると、団練というのは、科挙試験の郷試に合格して、挙人などの資格を得た「郷紳」などと呼ばれる人物によって組織された民間兵組織のことである。よって郷試には合格している宗棠にも、もちろん団練を組織する資格はあった。

 もっとも、宗棠は宗棠で、頭から成功を確信しているため、

『兵法書にも載っているこんな簡単なことを、どうして誰もが実行しようとしないのか』

 と、常々疑問に感じているのだ。

 いつも胡に零しているように「今の政府が弱体化したのは教養を重んじ実学を軽んじたせいである」と、さすがに上役である張へは彼も言わないが、やはり頭でっかちの進士らしく、民衆に目を向けるといったことを、普段からあまりしないために、民に協力を求めることまでは考えが及ばないのだろう、とも―これには幾分かの偏見が混じっているが―思っている。

 進士は、言うなれば政府から給料をもらっている身分である。だから上に弱いし、その言うことに唯々諾々と従ってしまうのは無理もない。それに対して客である宗棠のほうは、皇帝からのお墨付きがあるとはいえ、まだ正式に官位をもらっていないため、上に縛られているわけでも義理があるわけでもなかった。従ってその発想は清政府を根本に置いておらず、実に自由で伸びやかであったと言える。

 どちらにせよ、上役からのお許しが出たのはありがたい。宗棠は早速、長沙の人民を胡林翼やその他、湖南省出身の役人たちにも説かせて、とうとう民兵なるものを創り上げた。民衆のほうにしてみれば、宗棠は別にしても、地元出身の官吏に説かれては、しぶしぶながらも参加せざるを得ない。そのほとんどが官吏らと親戚関係にあるからだ。

 自分たちの土地を護るための戦いである、と聞かされても、

『結局は、帝国のいいように使われるのではないか。太平天国と連呼しているが、そんな胡散臭い連中なぞ、相手にしていなければ、いずれ雲散霧消するのではないか』

 と、ここに至っても省都の人民のほとんどが半信半疑であった。

 そんな民衆の前で、

「武器は扱えずとも良い。扱えずとも戦い方はごまんとあるのだ。敵はもう、川の向こうにまで迫っている。まもなくこちらにも攻めかかって来よう。戦乱が起きれば、あなた方の畑は必ず荒らされる。となれば食うに困る。そうならないために、各々の生活を護るために、我々は戦わねばならない」

 宗棠は熱く説いた。


 湖南省省都、長沙は、古くは楚の国があったところで、中国最初の最高学府である岳麓書院が置かれるなど、経済的にだけでなく文化的にも重要な大都市のひとつである。よって、湘江沿いにある都市の中でも、特に太平天国の格好の目標となったのだが、

「…せっかく耕した田や畑を荒らされるのはかなわぬ」

 というわけで、宗棠が指揮を任された民兵たちは、彼が思った以上に善戦した。

 彼らにしてみれば、支配するのが清であっても、太平天国という胡散臭い国であっても、その年の収穫さえ無事ならそれでいい。とにかく、糧を荒らされるのがたまらないのだ。 

 戦が起きて畑がめちゃくちゃになれば、ただでさえ重税のせいで少ない自分たちの食い分が、さらに減ってしまう。極端に言えば「明日の生死を左右する」のであるから、

「これ以上ひもじくなるのは困る」

 というわけで、自ら陣頭に立った宗棠の指揮の下、武器は持っていなくとも、街を囲むように高く築かれた壁の上から大きな石を転がしたり、糞を浴びせたりと、なんとも民衆らしい戦い方で、一八五二年九月には、ついに太平天国側幹部のもう一人の生き残り、蕭朝貴をも戦死させることになる。

 この二人の幹部が戦死したことで、太平天国内部での力関係は微妙に変化し、太平天国の内紛、「天京事変」に繋がっていくのだが、さすがにこれで太平天国側も長沙の攻略を諦め、一旦囲みを解いて遠方へ退いた。二人までも殉死させてしまったのだから、弔い合戦へ対する意気込みは高くても、兵士達の動揺は避けられなかったらしい。

 こうして奮闘すること二ヶ月。賊軍から一応は主要都市を護りきったということで、

「やはり君ならでは」

 胡林翼は無論、もろ手を上げて喜んだ。現金なもので、張亮基もこの時から宗棠に深い信頼を寄せるようになり、

「貴方のおかげで一面の危機は去ったわけだが、我々としてはこれからどうすればよいと思うか」

 と、彼に今後を問いただしている。

 なるほど、太平天国は長沙からは確かに遠のいた。しかしそれは一時的なもので、またいつ何時、気が変わって攻め寄せてくるかもしれない。その時には長沙をまた攻めるとは限らず、長沙のある湖南省と隣接している他省を襲うかも知れぬ。

 実際に方向転換をした太平天国軍は、一度だけとはいえ、湖北省の省都、武昌を陥落させたこともあるのだから、事態はまだまだ予断を許さない。

「その時に備えて、戦火がこちらへ飛び火せぬように護り、飛び火してきた場合にのみ先だってのように戦うか」

「いや、それではあまりにも消極的過ぎます」

 張亮基の、いかにも保守的な考え方に宗棠は苦笑した。

 確かに張の役目は湖南巡撫であるから、極端にいえば湖南省だけを護っていれば役目を果たしたことにはなる。しかしそれだけでは、

『真に湖南を護ったことにはならない』

 と、彼は考えている。

 もっとも、張にしてみれば、ようやく太平天国を追い払ったばかりで、湖南省内一帯が大変にゴタゴタしている時に、再び攻めてこられてはたまらない。まずは湖南省自体が、政治や経済、民衆の暮らしなど、色々な方面で落ち着くことが必要だと考えている。そしてそれにはかなりの時間を要しよう。湖南省鎮撫だけでも、

『正直、手に余るわい』

 と、いささかうんざりもしているのだ。

 しかし、そんな彼に宗棠は黙って、

「内定湖南、外援五省」

 の八文字を書いて差し出した。五省というのは、湖南省と隣接している湖北、江西、貴州、広東そして広西それぞれの省のことである。案の定、たちまち張は険しい顔をして、

「外ハ五省ヲ援ク、など、なかなかもって無理な話だ。確かに湖南を内定することには異論は無いが、せっかく得た安定を放棄して、わざわざこちらから戦火の中へ飛び込むなど、愚の骨頂ではないか」

 と言い、自分の思っていることを正直に述べた。

 張の言い分も分からぬではない。このまま湖南省を護れば自分の地位はとりあえず安泰で、お咎めを受けることも無く、上手くいけば褒賞さえ出よう。そんな官僚意識丸出しの上役に対して、

「ですから、それでは本当に湖南を護ることにはなりません。これから先、そのよう事なかれ主義では、この省すら護れないでしょう」

 と、宗棠はいよいよ持ち前の頑固さを剥き出しにして説き始めた。事なかれ主義、など、仮にも上役に向かって言うような言葉ではない。共に伺候している胡林翼が、ハラハラしながら彼を見守っているのも意にも介さず、

「乱を起こしているのは、何も太平天国ばかりではありません。政府に対して不満を持つ者どもが、アヘン戦争に乗じて、国内至るところで蜂起の機会をうかがっていると言っても過言ではないのです」

 宗棠はさらに食い下がった。

「それは分かっている」

 張のほうも不機嫌さを隠さず、面倒くさそうに片手を振って、また眠そうな目をした。

 宗棠のおかげで、今回の手柄は張のものになるが、それを恩に着せているわけではないらしいことも、目の前にいる宗棠を見れば分かる。しかし、

『もう十分ではないか。我等が他省のために骨折る必要などないだろう』

 これまた進士らしい考え方で、張は思っている。

 宗棠の言うようにしていたら、五省だけではなくて、いずれはこの国全てを助けなければならないではないか。五省それぞれにも張と同じような巡撫使はいるのだし、

『俺にそんな力はない』

 それに、無駄な労力を使う必要もない。そんな風に張が思っていることを、頑固だが聡明な宗棠はすぐに察し、

「五省はそれぞれ、昔から湖南と緊密な関係にあります。いずれか一つの省内に戦乱が起きても、その省ばかりだけではなく、これら五省にも動揺が走りましょう。その結果、便乗して乱を起こすことを企む輩が出ぬとも限りません。内部に亀裂が走るのですから、外部に対してただ固く守っていればいい、というばかりの問題ではありません。よって、これらを援けることこそ、湖南をも安定させる道に他ならぬと私は考えています」

 再び熱っぽく説かれて、張も鼻から大きく息を吐きつつ低く呻いた。

『確かに、街中で乱を起こされては事だ』

 よくよく考えてみると、確かに宗棠の意見には筋が通っている。長江流域では太平天国が暴れまわっていたが、政府の首都のある黄河流域では、捻軍とか、捻匪とか呼ばれている農民反乱軍があちこちで蜂起しているし、

『もしもそういったような輩に倣って、こちらで農民どもが騒ぎ出しても困る』

 食うに困った、なかばヤケクソになって蜂起した農民達の結束力は、太平天国の例に見るまでもなく強い。

「よし、やろう」

 ようやくそこで、張は重い腰を上げた。宗棠がいった「五省」に向けて使者を発し、

「有事の際は援軍を差し向ける。援け合おうではないか」

 と言わせたのである。これにより、太平天国に恐々としていた湖北などの省は、驚きながらも安心した。中には内乱を密かに企てていた農民達もいたかもしれないが、

「あの太平天国から省を護りきった奴らには叶わない」

 ということで、なりを潜めたろう。


 それから三年、湘江流域の六省は、互いの団結によりひとまずは安定した。

 この功績により、張亮基は湖広総督に任ぜられることになる。いわば栄転であるが、

「所詮はこんなものかい」

 宗棠は、そういって苦笑いせざるを得なかった。今回の功績は、ほぼ全て宗棠が挙げたものであるのに、実際にその栄誉に預かったのは上役のみで、

「上手くおだてて使われたものだ。この今臥龍が」

 皇帝もその名を知っていると言われながら、宗棠自身には何の沙汰も無い。自分の能力を発揮し、それが周囲に認められたということには大いに満足しているが、やはりそれに対する何らかの評価は欲しいのが人情というものだろう。

 それが清政府から授けられる官位や爵位である、というわけではないが、

「なにやら、虚しいな」

 彼は、友人の胡林翼にそうこぼした。所詮、宗棠は政府の人間にとって「挙人風情」でしかなく、正式に官位を持っているわけではないから、

「それを与えるわけにはいかん、というところか」

「そういうわけではないはずなのだが」

 胡林翼も、慰めるように言って、この頑固で偏屈な友人のために気を揉んだ。

 とにもかくにも賊軍から町を護りきった、その功績は多大なのだから、

「朝廷の人間が知らぬはずはないし、張殿とて何らかの根回しをしてくれているはずだ。だから、どうか気を落とさず、これからも湖南のために尽くしてくれ」

 張が湖南から去ると同時に、胡もまた、湖北巡撫に任ぜられている。故郷である湖南から離れたくなかった胡にとっては、痛し痒しといったところだったろう。

 後任の湖南巡撫には駱秉章という広東省出身の、これまたエリート組である進士が任命されてやってくるらしいが、

「進士を相手にするのははもうこりごりだ。俺を利用することしか考えていない。俺は見返りを要求しているわけではないが、利用するだけ利用して、後は捨て去られる。そんなことはもう真っ平ごめんだ」

 どうやら宗棠は、このたった一度の出来事で、すっかり臍を曲げてしまったらしい。

「君に去られてしまっては、私は安心して湖北に赴くことが出来ない。それに君は、この国を護るのは俺自身だと常々言っているではないか」

 胡は、心底困った様子で眉をひそめ、言った。

「今回の君の活躍については、私も大将の曽国藩殿へいちいちを報告している。私も君が、見返りばかりを求めている人間ではないことを知っている。主力は追い払ったとはいえ、まだまだ太平天国の残党は五省でくすぶっているのだ。君がいなければ湖南を護りきれぬし、駱秉章殿もまだ見ぬ君に大いに期待していると聞いている」

「君がそこまで俺を買ってくれるのはありがたいが」

 この素直な友へ、しかし宗棠はあくまで首を振った。

「駱秉章殿とて進士だろう。君は別としても、おそらく俺とは折り合いがあわぬ。俺は俺自身を誰よりも良く知っているよ。俺は自分を曲げてまで人に合わせることは出来ん。俺なりのやり方でこの国を護るさ。その方法をこれから故郷に帰って探すことにする」

 そして唇をゆがめて笑い、

「俺は結局、そうやって民草の間で拗ねているのが一番お似合いなのだ」

 言い放つ。その言葉に、胡もまた腕を組んで嘆息した。

 確かに、左宗棠という人間を理解するのは大変に難しい。何より宗棠のほうが、彼自身は意識していないのに、仕える相手を選んでいるように―実際にそういった節は無きにしも非ずなのだが―見えてしまう。さらには、

「己の信ずるところはこうこうこういったことであり、いささかも動かせぬ」

 といった頑なさでもって、上役にも遠慮なく食ってかかるものだから、そのような人間を相手にしたことのないエリートはまず、それだけで竦んでしまうか、激怒はせぬまでも限り無い不快感を覚えて、二度と宗棠を用いるまいと思ってしまうかもしれない。

 つまり、使いこなすのには相当の根気が要る、癖のある「馬」と言ったところであろうか。張とのやりとりが良い例である。

『だからこそ張殿は、己が栄転しても宗棠のことをあまり上へ言わなかったのだろう』

 宗棠へは言わないが、胡はそう思っている。あれほどの功績を挙げさせてもらっておきながら、張亮基が宗棠のことを喧伝しないのは、ウマが合わなかったということも一因ではなかろうか。

 そもそも客というのは、己はあまりでしゃばらず、雇い主に功績を立てさせていくら、というものなのだ。宗棠とてそれは重々承知しているのだが、

『それでも納得いかぬ』

 一旦賊を追い払って、湖南には平和は戻ってきたものの、そんな風になおも宗棠はブリブリと怒っていた。張からの宗棠への給金が、張が栄転すると同時に、宗棠自身には何の沙汰も無く打ち切られてしまったために、(俺は軽く扱われた)と彼が思い込んでいるせいもある。もしも張亮基が長沙を去る時にでも、少しでも給金を水増しして宗棠へ与えていれば、彼もさほど不満は抱かなかったかもしれない。

 また、そういった、「性格的に合わない人間とはとことん合わせることが出来ぬ」という己自身を、

『俺はこういった不器用な人間なのだ。己が世に出るために人に媚びへつらうなど、到底出来たものではないわい』

 と、聡明な宗棠は十分自覚しているのだから、余計に始末が悪い。

 繰り返すが、確かに彼は実学に精通していて、実際にそちら方面の才能が突出していた。しかし「自分の見るところは常に正しい」と、口には出さぬでも頑固にそう思っており、間違っていると思えば上役でも歯に衣着せず、ずばずばと追及するような人間である。こういう人物が役所勤めをするなど、どだい無理な話なのかもしれない。

 そういった(己には到底真似出来ぬ)ところも、胡林翼は「大いに好もしい」と認めているのだが、

「君の気が向いたら、また出てきてくれ」

 ともかく、その時はそう言って宗棠が故郷に帰るのを止めなかった。この頑固な友が、一度言い出したことを、他者の言葉では絶対に翻さないのを良く知っていたからだ。

『翻せるとするなら、駱秉章殿の人柄だろう』

 胡林翼はこの頃、太平天国撲滅の総大将である曽国藩直属の指揮下に入っていた。であるから、他の将帥とも顔見知りであり、今度湖南へやってくる駱秉章のことも良く知っている。

 駱秉章は胡、宗棠の二人よりも二十ほど年上の、学も深く大変に温和な人物である。雰囲気的にはどことなく、先だって亡くなった林則徐に良く似ていた。

『彼ならばきっと宗棠の才能を引き出せるし、宗棠自身を認めてくれるに違いない』

 そう考えると、胡も後世、名政治家と呼ばれた者らしく、行動は早い。

『湖南に宗棠は絶対に必要だ』

 頭からそう信じているので、彼は早速、巡撫に着任したばかりの駱秉章の元を訪れて、

「閣下にもお聞き及びでしょうが」

 と、熱っぽく彼の友人のことを語った。さすがに胡の説くところは、実際にあの攻防を目の当たりにした者らしく、現実味がある。

 全てを聞き終わった後、

「私は実際に、その戦いをこの目で見たわけではないが」

 駱秉章は大きく頷いて、

「彼の噂はよく聞いている。惜しくも田舎に引っ込んでしまったというが、私からもぜひ、私の元で働いて欲しいと要請するつもりだったのだ」

 と言った。

 個人の戦功が大げさに喧伝され、結果、噂だけが先行するのは、今も昔もありがちなことである。だが、今回の場合、宗棠には実際に大きな功がある。曽国藩に付き従っている将なら、誰もがそのことを知っていた。

 しかし功績を立てた宗棠自身、正式な政府の役人ではなかったということも災いして、何の褒章も得ていない。宗棠の方も(俺が何を言っても、また「今更」などと思われる)と思って、日頃の彼に似ず、大げさに言い立てるのを好まなかったから、

「彼への評価は、大変に不当である。私も個人的に気の毒だと思っていた」

 駱秉章は、義理ばかりでなく、心からそう思っている様子で胡に告げた。素直な気質の人間の元には、やはり似たような素直で大らかな人間が寄ってくるものらしい。

「彼の力は必要だ。すぐにでも私の元へ呼び寄せる。決して悪いようには扱わない」

 繰り返しそう言う駱秉章を見て、

『これならば』

 胡は思い、ホッと胸を撫で下ろして、彼の新たな赴任先である湖北省へ向かっていった。

 とりあえず、かつての陶澍邸へ身を寄せた宗棠のもとに、「再び湖南のために働いて欲しい」という駱秉章からの使いがやってきたのは、それから間もなくのことである。

「先生にはさぞや不快なこととは存知ながら、駱巡撫閣下は先生のお出ましを切望しております。どうぞ曲げてお越し下さいますよう」

 と、床に這いつくばるようにして使者が頭を下げるのを、苦笑しながら止めさせて、

『これは胡が何か言ったな 


 カンも良い宗棠のことだから、すぐにそう察した。ついで(アイツは相変わらずお節介焼きだ)とも思ったが、胡林翼が常々彼に向かって、

『君を野に埋もれさせておくには惜しい』

 と告げている言葉を思い出し、自分へ寄せてくれている友情と信頼は、ここまで重いものであったかと考えると、

「分かりました。どこまでお役に立てるかどうか分かりませんが、力を尽くしましょう」

 長年の胡の知己に応えるため、そう言わざるを得ない。

 その答えを聞いて、使者もまた安心したような顔をして去っていくのを見送りながら、

『さて、駱秉章とやらの人物を見てやろうか』

 宗棠は自分を奮い立たせるためにも、そのような傲岸不遜なことを敢えて思った。


 元々失うものなど無い自分である。息子達はそれぞれの書院へ通っていて、引き立ててくれる人物もいるし、娘もついに陶の息子に嫁いだ。四人目の子を身ごもった妻、周夫人も、散逸していた文学書『筠心飾性齋遺稿』とやらの編纂に着手した。どうやらそれを自らの生涯の仕事としているらしく、自分に夫としての役目を期待している風でもない。

 強いて言うなら、子供が無事に生まれてくるかどうかだけが心配ではあるが、

『俺がいなくとも、他の者がなんとかしてくれるだろう』

 そう考えると、決断はいつもの事ながら早い。家族へ別れを告げ、宗棠が再び進士の帷幕へやってきたのは、彼が初めての功績を挙げた三年後、咸豊五年のことだった。

「これは、左先生でいらっしゃるか」

 そして駱は、宗棠が長沙へやってきたことを知ると、飛び立つようにして省庁から出て、

「貴方のおいでをお待ちしておりました。貴方の武勲は、胡林翼よりつぶさに聞き知っております。先ほどの戦ではかくも功績を挙げられながら、不当な取り扱われよう。まことに気の毒に思っておりました」

 二十も年下の「若造」へ向かって、慇懃に腰を折った。これには、さしも不遜な宗棠もいささか慌て、

「貴方のような年長者が、私ごときへそのような丁寧な礼は」

 少年のように、髭の中の頬を赤くした。それを見て、

『なるほど、少々偏屈ではあるかもしれないが、根は素直なのではないか』

 駱秉章は思った。彼とて太平天国の乱の平定を任されている、いっぱしの政治家である。宗棠が、自分を値踏みにも来ていることくらいは百も承知であるから、

『一度、全権を任せてみようか。どのような働きをするか』

 と、大胆なことも考えた。これが駱の、一種の人物試験のようなもので、自分の帷幕に新たに加わった見込みがありそうな人間には、一度自分の仕事の全権を委任し、試しにやらせてみた上で、実際にその人物がどのような部署で使えるかを見るのである。


 もっとも、これはある面で職務の怠慢ということにもなるが、今までに駱のお眼鏡に適った人間は現れたためしはない。そしてこれも当たり前かもしれないが、今までに彼に紹介され、または彼を訪れた客は、大きな口を叩く割に、それぞれがそれぞれに得意とする分野でしか能力を発揮できず、

「この人物なら、この仕事が適当…」

 確実に任せて安心と、駱が判断した以外の仕事はさせてもらえないか、口先ばかりで全く役に立たないと判断されてしまい、そもそも客としては迎えられなかった。

 したがって、これまでに駱の帷幕に迎えられている人間は、いわゆる糧秣担当なら糧秣担当、苦情担当なら苦情担当と、その人間のこなせるそれぞれの分野でのみ使われていたのである。

 もっとも雇う側の駱秉章やその他、帝国に「雇われている」進士にしてみれば、今はまさに国家存亡の際である。一地方に生じた小さな傷によって、いつ何時国家全体にヒビ割れが走るか分からないのだから、滅多な人物に重要な仕事を任せるわけにはいかないのだ。大雑把どころか、むしろある意味、非常に冷静で公平な人物評の物差しを持っていたと言えるのではないか。

 というわけで、

「貴方には、しばらく私のお仕事全体をお任せする。ご自身で考えられ、ご自身の良いように治めてくださればよい。もちろん他の人間にも、貴方の命令には絶対に従うよう、私から申し渡しておく」

 初対面で彼は、いつも新しく帷幕に迎える人間にするように、

『この方は気前がいいのか、それとも』

 さすがに「変人」宗棠も目を丸くするようなことを告げた後、続けて、

「失礼かもしれないが、それによって、貴方がどういった分野に適しているかを拝見させていただくし、その結果いかんによっては、客としては迎えられぬこともあるかもしれない。そのことは、先生にも十分ご承知おき頂きたい」

 至って真面目に、ずばりと本音を言ってのけた。

『この人物は張亮基とはまた違う』

 宗棠もまた、駱秉章に対する見方を改めると同時に、亡くなった林則徐に通じる懐かしさを彼に感じた。よって、

「湖南を護るため、先だって太平天国を追い払ったという先生のお力を、ぜひ私にもお貸し頂けますまいか」

 駱が改めて腰を折り、頭を下げるのへ、

「誓って犬馬の労を厭わず尽くしましょう」

 むしろ奮い立ってそう答えたのである。

 果たして駱秉章は大いに喜び、湖南巡撫の官印を彼に預けた。もちろんこれは、湖南における反乱掃討の全権を宗棠へ委ねたということで、

『これは冗談ごとではない。これまでのように、ただ策を立てて、それを上役に実行させていればよいというものではない』

 手のひらへ載せられた小さな印のその重みに、宗棠は改めて責任の重大さを感じ取り、口を結んで鼻の穴から大きく息を吐き出した。

 官印を預けられたということは、実際に反乱掃討の指揮を取るのは宗棠であり、実質的な権力は宗棠にあるということを、湖南人へ強く印象付ける一方、本来の巡撫である駱への敬意と権威を損なわせないように気を遣わねばならないということである。

 要するに、大きな功があるからといって、客が本来の主にとって代わって、大きな顔をしていいものではないということだ。

 兵力はあくまで主のもので、客はその兵力を借りて己の才能を実現するに過ぎず、成功したとしてもその功績は全て主に帰するものでなければならない。一人の客が、「己の功だから、己が主に代わって褒美を受けるべきだ」と主張してしまえば、後から加わった客もまた、それに倣って主を軽く見ることになり、ひいては新たな混乱の火種になる。

 張亮基もひょっとするとそのことを心配して、敢えて己に褒賞を与えなかったのかもしれぬ。そのことに考えが及ばなかったわけではないが、宗棠は改めてそう思い直し、自省するとともに、副次的な災難を避けるためにも、

『駱秉章に功を立てさせつつ、大いに敬わねばならない。果たして俺にそれができるか』

 己が仕事を上手く裁量できるかどうかよりも、むしろ己の世渡りの下手さを心配した。

 もともと彼は「俺ほど才能のある人間はいない」と、周囲へ常々言っていた人間であるし、四十歳を越えた今も、いささかもその自尊心に変化はない。

 実際に彼は、頭と舌、二つながら回転が非常に早かったから、たとえ教養は深くても響きの鈍い人物を相手にすると、もう尊敬する気持ちをなくしてしまう。つまり、自分が心から敬服出来る人間でないと、敬うというポーズさえ出来なくなってしまうのだから、

『俺という人間は、本当に厄介だ』

 張との場合を思い出して、彼は苦笑した。しかし幸い、初対面での駱秉章に対する彼の印象はさほど悪くない。

 どちらにしても、彼にとって才能発現の機会が再び巡ってきたのは喜ぶべき事で、

『やれといわれたのなら、俺の才能の限りを尽くしてやらねば』

 彼は再び褌の紐を締め直すつもりで事にあたったのである。

 吹き付ける風が次第に冷たくなる頃、宗棠がいわば巡撫代行として、再び湖南の護りについたのと同時期に、再び太平天国が長沙に攻め寄せてきた。

 この時もまた、宗棠は民兵を組織して、正規軍とともに大いに戦わせている。結果、十二月初旬には太平天国もついに長沙の攻略を諦め、その北の武漢へ矛先を変更した。宗棠は再び長沙及び湖南省を護りきったのである。

「貴方は噂どおりの人物だった」

 果たして駱秉章は大喜びで、

「これからも貴方に任せておけば安心だ。私もやっと安心して楽が出来るというものだ」

 と、宗棠に向かって冗談交じりに言った後、

「官印は貴方に預け置く。私の代理として大いに働いて欲しい」

 とまで告げた。

 駱の人物試験は、この時点で終わったはずで、それなら官印は、ここで宗棠から返却を命じねばならないはずのものである。

 それさえあれば、湖南省の政治一切を牛耳ることが出来るほどの重みがあるものを、宗棠に預けっぱなしにしておくということは、駱秉章が宗棠を大いに気に入り、その人物を見込んだということになろう。

 駱ももともと、胡林翼から宗棠についての良い噂を散々に聞かされているから、宗棠に対して悪い先入主は全く持っていなかった。その上、彼の不遇についても大いに同情していたから、

『<挙人風情>で、官位を持てぬ身なのだから、せめてこれくらいはいいだろう)』

 と考えて、己の仕事のほぼ全部を宗棠に任せたのかもしれない。

 こうすれば功績は駱秉章のものにはなるが、実際に湖南のために役に立っているのは宗棠なのだと、広く民衆に知らしめることが出来る。そうなると宗棠も多大な敬意を彼らから受けることになるわけで、少しなりとも宗棠に、というよりも、彼の智謀に報いることが出来るかもしれない、と、駱秉章は純粋な好意から思ったのだ。

 いったいに智謀の士を自認する人間にとって、他の人間にその才能を認めてもらえることほど嬉しいことはないし、それによって生じる褒賞などは、まさに付加価値に過ぎない。つまり、「金や地位などは二の次三の次」なのだ。

 ましてや宗棠の場合、喉から手が出るほどに切望していた才能発現の場を、駱がぽんとばかりに与えてくれたのである。よって、

『この人のためならば』

 ここで良い意味での彼の単純さが再び顔を出した。

 そこまで自分と自分の才能を信頼してくれる駱秉章と、湖南のために、今臥龍である己の智謀の限りを尽くそうと奮い立った結果、太平天国はついに長沙ばかりでなく、近くにある大都市の一つだった桂林もまた、落とすことを諦め、ついに六省から去って湖北省武漢から北へ去った。よって、駱秉章の功績はさらに大きくなったのだが、これはあげて、左宗棠の働きのおかげである。

「胡林翼ではないが、やはり湖南には先生ならでは、と、私も言わせていただこう。さすがは今臥龍だ」

 そのように、駱が宗棠へ寄せる信頼はいよいよ大きくなった。

 それからも、この二人はそういった、息の合うコンビとして湖南省を護っていったのだが、当然、それを見ていて面白くない人間も出てくるもので、

「これは問題ではないか」

 張亮基の後、湖広総督として新たに就任した官文が、そう言って二人を弾劾したのがそれからほんの一年半あまり経った咸豊十(一八六〇)年のことである。

 官文は旧満州出身の人間で、漢民族ではない。中央政府から派遣されていながら、漢民族である彼らほど、太平天国掃討にはかばかしい成果を上げられなかったという焦りや、左宗棠のようなブレーンが自分の左右にいないという嫉妬もあったろう。

「駱秉章殿は職務怠慢、その客の左宗棠殿は越権行為に当たろう」

 ともかく、官文がそんな風に政府に上奏までしてしまったものだから、

『官僚はこれだから』

 それを湖北で聞き知った胡林翼は、自分も官僚の癖に、舌打ちしたい気分になって慌てた。

 国の内外に敵がいるというのに、今はつまらない妬みで官僚同士、足を引っ張り合っている場合ではない。胡の理屈からしてみれば、

『湖南省だけでなく、長江一帯における太平天国に対するには、左宗棠でなくば』

 一日たりとも宗棠という駆除薬は欠かせないのだ。

 よって、弾劾されている当の二人よりも、むしろ胡のほうが焦り、

「あの二人が弾劾されています。お聞き及びでしょうが」

 と、早速、太平天国掃討の総大将である曽国藩を訪れた。実刑が確定してからでは遅いし、事実、駱も宗棠も、そういった政治的駆け引きに長けているとは到底言い難いから、

『ここは、やはり私が骨を折らねば』

「あの二人はこれまで私腹を肥やしたこともありませんし、また、そういったことをそもそも考えもしない人物です。事実、湖南省の民は宗棠が賊を追い払ってくれたというので大喜びしているくらいです。一体何の罪があるというのでしょうか。ここでお上が宗棠を罷免なさるようなことがあれば、再び反乱が起きるでしょう」

 半ば脅しとも表現すべき物言いで、胡は曽へ申し述べ、宗棠の弁護を強く要請した。

 実はこの間、総大将である曽国藩のほうの戦いは、決して上手くいっているとは言えない。北京へ向かったはずの太平天国軍が、清側モンゴル人将軍センゲリンチンに敗れて反転、再び南下してきたのを迎撃している最中だったのだ。

 曽国藩も団練、つまり私的な義勇軍を組織して戦っていることは先に述べた。後に湘軍と呼ばれたその軍隊の強さは、堕落してしまった清政府軍を圧倒するほどだったという。しかしその湘軍でさえ幾度となく敗戦して、曽も密かに自殺さえ図ったことが何度かあるのだ。それをようよう盛り返して一息ついた、といった状況だったのである。

 これは決して曽国藩の戦い方が拙く、宗棠が上手であったというわけではない。太平天国軍が湖南よりも湖北省をより激しく攻めたためである。敵が北のほうから向かってきたのだから、湖北と湖南で北に位置しているほうが激戦になるのは当たり前で、しかしそんな状況でも、

「よく分かった。君の言うように私からも朝廷へは申し添えよう」

 曽国藩は勇猛さを謳われた湘軍の親分らしく、そう答えている。情の面において湖南は故郷であるし、作戦の面においても、左宗棠の見事な働きを失うとなると、自分にとって大いに痛手であることには変わりはない。

 よって、曽は早速朝廷へ上奏した。政府軍よりも強い軍隊を後ろに持ち、実際に太平天国側も恐れている人物の言うことであるから、清朝廷としても無視できない。それに、ここで曽に臍を曲げられると、太平天国軍が再びなだれを打って北へ向かってくるだろうことは、いくら軍の事に疎くても分かる。

 そればかりか、朝廷中枢にいる御史で、近隣の江蘇省出身である潘祖蔭という者も、

「天下ハ一日トシテ湖南ナカルベカラズ、湖南ハ一日トシテ左宗棠ナカルベカラズ」

 この国に湖南がない、などということは一日でもあってはならず、また、湖南に宗棠がいないなどということは一日でもあってはならない、と言い切った。

 この時まだ三十歳という若さだった潘は、二十二歳で三番目の成績を修めて科挙に合格したエリート学者である。また、その祖父も一番の成績で進士試験に合格しているという、まさに秀才の家系だった。早くからその才能を買われて政府の中央にいたのだから、「たたき上げ」の宗棠には実際にはまだ一度も会ったことはない。

 しかし、会ったこともない人間までもが、ここまで宗棠を高く買っているのである。したがって、

「引き続き、湖南方面を護るように伝えよ」

 という咸豊帝の直々の言葉で、この件は即座に不問に付された。また、これで宗棠の名は政府側でなく、太平天国側にもさらに広く知られることになったのである。

 また、咸豊帝は、

「曽国藩の元へ赴き、彼の帷幕に加わるように言え」

 と命じてもいる。皇帝自身も、周りに言われたばかりではなく、宗棠の実績を大いに買ったのだろう。

 これによって、宗棠は再び咸豊帝直々のお墨付きをもらったことになり、咸豊十(一八六〇)年内に、当時太平天国討伐大将として両江総督に任じられていた曽国藩の帷幕に加えられた。

「先生のご活躍をお祈りしています」

 駱のみならず、その帷幕で知り合った若き武将、譚鍾麟や劉松山、そして文官向きではあったが、宗棠の博識にすっかり傾倒してしまっていた楊昌濬といった面々は、彼との別れを心から惜しんだ。

 三人とも宗棠が日頃から目をかけていた人物で、特に譚鍾麟や劉松山、二人の方は、すぐに部下を怒鳴り散らす宗棠の隠れた暖かさ、といったものを感じ取っていたから、

「いつなりと先生をお助けしに参ります」

 素直に告げて宗棠を感激させたものだ。

 さて、早くから曽の元にいたかつての友、胡林翼は、宗棠がついにやってくると聞き、今か今かとその到着を待っていたらしい。その当時、曽国藩の本陣は、激戦の最中の江蘇省にあったのだが、報せを受けるとその省舎から転がるように出てきて、

「いや、懐かしい。君が加わるとなれば万の味方を得た気分だ。離れていても、君の活躍は絶えず耳に入ってきていたよ」

 と、数年ぶりの再会を心から喜んだ。胡林翼のほうも、太平天国の手に落ちてしまった武昌を曽とともに再び奪回して、その功績により湖北総督に昇格している。

「再び戦いに出るつもりは無かったのだが、つい、でしゃばってしまった。俺も君にまた会えて嬉しい」

 宗棠も、この友の純粋な気持ちが嬉しく、同じように懐かしくもあって照れながら、

「咸豊帝陛下にも、深く感謝せねばならんな」

 素直な気持ちでそう言うと、胡は声を上げて笑い、

「全くだ。恐れ多くも皇帝陛下のお声がなければ動こうともしない。そんな頑固で偏屈な人間は君くらいなものだろうよ」

 親しみを持ったからかいの言葉を返して、再び笑った。

 友の言葉に苦笑いしながら、宗棠は天を仰ぐ。地上の人間の戦などそ知らぬ風に、今日も空は晴れ渡っており、

『お会いできるものなら、ぜひ拝謁願って、一言なりと御礼申し述べたい』

 まだ見ぬ若き皇帝がいる北京の方角を向いて軽く一礼した後、彼もまた胡に続いて省舎へ入っていった。

 結果的に、咸豊帝は宗棠と一度も会うことも無く、その短い生涯を終えることになる。


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