一  拗ね諸葛亮

『やれやれ、やはり俺には堅苦しい四書五経を読むなど、性に合っておらんのだ』

 進士試験、不合格。二回目のその通知を家で受け取って、左宗棠は苦笑した。

 時に宗棠二十七歳。清王朝の道光十八(一八三八)年のことだ。

 彼は湖南省湘陰県の出身である。この地方は清王国の首都北京から南南西方面、直線距離にして約一四〇〇キロの所に位置しており、年間を通して比較的温暖で雨が多い。そのすぐ北を長江が流れており、北の湖北省との境に洞庭湖もある。豊かな自然に恵まれた、まことに風光明媚な土地と言えよう。

『蒸し暑い』

「やっておられんわい」

 今、彼が住んでいるのは妻の家である。その窓を開け、彼はぼやいた。

『この俺を合格させんとは、役人どもの目はどうかしているのではないか』

 軒では柳の青い葉が、降り続ける細かい雨に濡れて、時折雫を降り零す。

『さて、これからどうするか。どうやって食っていく』

 それをぼんやりと眺めながら、蚊にでも食われたのだろうか、宗棠は懐へ無造作に片手を入れ、左の乳首の周りをぼりぼりと掻いた。そんな様子からは後に、

「宗棠、覇才アリ、而シテ民ヲ治ムルハ即チ王道ヲ以ッテコレヲ行ウ」

 と称えられたほどの「気迫溢れんばかりの才能」があるとは到底思えぬ。

『ああ、やめだやめだ。カビの生えたようなくだらん書物の暗記など、クソ面白くもない』

 窓を開放していようがいまいが、部屋は変わらず蒸し暑い。宗棠青年はいまいましげに鼻を鳴らして窓を閉めた。

 同室にいた妻は、そんな彼の姿をちらりと見たきり、座っていた椅子に深くかけ直して、手にしている書物に再び没頭し始める……


 この頃、すでに清帝国はイギリスからのアヘンの密輸で国内を侵されていた。 

 なぜイギリスが清へインド産アヘンを密輸出するようになったのかについては、清、イギリス間における貿易不均衡が原因だと言われている。

 イギリスは、清の貿易によって茶、陶磁器、絹などを大量に輸入していたが、逆に清向けに輸出できるものが何もない。イギリス国内で生産していたものといえば、時計や望遠鏡といった、いわば富裕層向けの高級品で、それはどう見ても、普段の生活に多量に必要とされるものであるとは言えないだろう。

 よって、たちまちイギリスのほうが輸入超過の状態に陥ってしまった。そこでイギリスは、当時の植民地の一つだったインドで生産していたアヘンを、インド経由で密輸することにより、収支のバランスを取ろうとしたのである。

 今も昔も、一度薬物に侵されてしまった人の心身を元に戻すのは容易なことではない。清帝国としても、決して手をこまねいていたわけではなく、既に嘉慶元(一七九六)年、アヘンの輸入を禁止していた。しかし今も昔も政府のやることは遅い。禁止した頃には既に手遅れで、一般庶民の間にまで広まってしまっていたのだ。

 いくら法令を出して取り締まったところで、禁断症状に苦しむ人々は役人の目を盗み、必ず何らかのルートを辿って手に入れる。だもので、密輸はなかなか止まらない。加えて清政府は、アヘンの輸入代金をその当時の通貨であった銀で決済したものだから、経済方面もみるみるうちに破綻への道を辿ることになったのである。

 宗棠が生まれたのは、清帝国が最初にアヘン輸入禁止令を出してから、およそ二十年の後、嘉慶十七(一八一二)年。清王朝が少しずつ綻びを見せていた時だった。

 彼は湖南人である。この地方に住む人は、一般的に脂ぎってピリリと辛い料理が好みで、激情にかられやすい性格をしているという。そんな人々からでさえも、

「剛峻ナルハ天性ニ自ル」

 強く激しい性格は持って生まれたものだ、と、評されていたのだから、宗棠がどれだけ頑固で偏屈であったか、というのは容易に想像がつくであろう。

 そんな宗棠が、

『これはいかぬ…』

 欧米諸外国の圧力に、徐々に押されて衰退のかげりを見せている国を立て直すには、俺という人間が必要だ、と、いかにも若者らしい壮大な理想に燃えて、最初に科挙に望んだのが二十歳の時のこと。

 明が滅びた後に異民族が建てた清という国もまた、科挙という官吏登用試験をそのまま用い続けている。

 宗棠は、彼が最初に受けたその、第一次試験ともいうべき郷試には合格して、挙人の資格を得ることは出来た。だから今度は二次試験である進士の資格を得ようと学問を続けていたのだが、必須だった教養試験は、当時の中国社会において一般常識そのものとされた儒学や、特に八股文といった文学の丸暗記というようなものである。八股文に通じることが一番肝心とされていたのに、その古典は彼の興味を引くところでは無かったらしい。

 彼の関心はむしろ、三国時代を代表する軍師であった諸葛亮孔明の著『武侯全集』、『孫子』や『唐書』そして農学関連の学術書といった、いわゆる実用的な学問や兵法に向けられていたのだ。だから自然と学問も実学へ熱が入る。進士試験のために必要な科目の勉強をそっちのけで、自分の好きなことに熱中していたのだから、不合格となったのはむしろ当然の結果といえるかもしれない。

 郷試の際も、実は一旦は不合格になっていた。ところが、主任試験管が念を入れてもう一度、不合格者の回答を見直していて彼の論文を見出したので、彼はなんとか合格者の枠に入れたのだ。

『官僚になるには、また三年も勉強せねばならんのか。ああ、面倒な』

 宗棠が思わず右手で頭を乱暴に掻いて、白い物を辺りへ撒き散らしながら心の中でぼやいたように、次の科挙は、三年後である。面倒でもあるし、妻やその両親との約束で、次の試験に不合格だった場合は諦めると言ってある。従って、宗棠もついに諦めた。

 地元では、その科挙を受けて、挙人の資格を得られたというだけで十分尊敬され、話題の種になる。しかし、

「確かに頭は悪くはなかろうが、宗棠さんは、もう少し丸くならねばなるまいよ」

 と、周りの人間の見る目はやや冷ややかだった。

 自分を「湘陰の諸葛亮孔明である」と、当時から彼は吹きまくっていたのだから、無理もない。最初は、

「若いときには己を何でも知っている逸材だと思うもの…」

 若者にありがちな、若者らしい冗談として笑い飛ばしていた人たちも、それが度重なれば鼻につくようになる。当然の結果として、

「科挙を受けたといっても、進士になれたわけではなく、たかが挙人の資格を得ただけの若造が、己をかの軍師になぞらえるとは」

 彼は「変わり者」「大言壮語を吐くだけの奇人」という目で見られるようになった。

 それでも、地域の人から彼が決定的に疎まれなかったのは、宗棠が十八歳の頃から通っていた有名な私塾、城南書院を開いていた賀兄弟の引き立てを得ていたからである。

 人間的に偏屈の匂いがするし、自己顕示欲の強すぎる性格であるから、両親の次に彼を心配してくれるはずの親族からも少し疎ましがられている。だから、彼が二十一歳で同い年の女性、周詒端を娶った時、

「いくら賀先生の紹介であるとは言っても、よくあんな若者に嫁が来てくれたものだ。嫁も相当な物好きなのではないか」

 と、近所の人間は大いに驚いたものだ。

 最も、宗棠本人はそれを別段気にしていた風もなく、

「かの諸葛亮孔明もそうだった。天才は若いうちは理解されぬものさ。俺の嫁は、いわば黄月英夫人さね」

 と、むしろ楽しげに嘯いていた。

 確かに周夫人は、美人とは言いがたいかもしれなかった。だが、知性に秀でた穏やかで美しい瞳をしていて、何より人々に対する時の笑顔が良い。そんな彼女を捕まえて、醜女と評判だったかの軍師の妻になぞらえるとは、と、近所の人はまた苦笑した。

 頑固で、偏屈で、他の人間の目など気にもしない…そのような彼の性格は、祖父、左人錦による所が大きい。左家はいうなれば中流階級で、当時の中国一般家庭がそうであったように農業を営んでいた。要するに、よくある普通の家庭だったというわけだが、学問に対する造詣は深く、

「お前も学問をしろ。世の中のことをよくよく考えられる頭を持て」

「人の基本は農である。農があるから人間は食える。よって農を考えると、おのずと生き方も見えてくる。お前達も自ら鍬を持ち、大地に親しめ。その声を聞け」

 と、言い言い、祖父は宗棠がわずか三歳になるかならないか、という時分から、宗棠の兄の宗椊と共に彼を厳しく指導した。兄弟二人の母は、宗棠を産んでまもなく亡くなっていたから、祖父にとってはこの孫達が余計に可愛く、不憫でもあったのだろう。

 その人錦も、宗棠が五歳の時に他界している。だから祖父との触れ合いは、彼が物心ついてからのたったの数年でしかないわけだが、(厳しく、しかし暖かい祖父)の思い出は、幼い頭に深く刻み込まれた。従って、右に述べた宗棠の性格が形作られたのには、祖父の人錦の教育を受けたということが多分に影響しているのではないか、と言えるのである。つまり人錦も、相当に変人だったということに他ならない。

 祖父の死後、彼ら兄弟の教育は父の左觀瀾に引き継がれた。人錦に鍛えられていただけあって、觀瀾もそこそこ「学者」になっている。兄弟と共に畑へ出、土を耕す傍ら、この国の農学を教え、地理を教えること十年、

『そろそろ俺だけでは役不足だ』

 親の欲目もあったかもしれないが、兄弟が意外に頭が良いのを見て、觀瀾はもっと学問を身につけさせてやりたいと考えていた。

『ひょっとすると進士試験にも通用するかもしれない』

 というわけで、湖南省長沙にある、進士試験に強いと評判の城南書院をたびたび訪れ、息子たちのことを売り込みもした。だが、念願かなって息子達を書院へ入学させることが出来た矢先、彼は亡くなってしまったのである。

 いつもと変わらぬ様子で畑を耕している最中、いきなり倒れてそのまま動かなくなったのだから、何が死因なのかは分からない。

 この時、宗棠は十八歳。働き手である父を失って、兄弟は非常に困惑した。母親もいないから、左家に残された者といったら彼ら二人だけである。このままでは城南書院へ月謝も払えない。とにかく食っていくために野良仕事へ本腰を入れねばならず、そのためには学問も諦めなければならないか、と思ったとき、二人に手を差し伸べたのが、書院の塾長、賀煕齢だったのだ。

 煕齢は早くから兄弟二人の、特に次男坊である宗棠の才能に注目していたらしい。

「学問を続けろ。学費は払わずとも良い。生活費の面倒は私が見る」

 とまで言い、若い二人を励ましながら、実際にその面倒を見てくれた。もっとも、煕齢にとって、将来性のある若者を育てることは、半ば道楽のようなものであったらしい。

 さらに、行き過ぎに見えた宗棠の積極性を、兄である賀長齢のほうがより一層買ってくれた。賀長齢は以前、清の朝廷で雲貴総督(わが国で言う県知事のようなものといえる)などを勤めた高級官僚で、思想家の魏源とともに皇朝経世文編一二〇巻を編纂した知識人としても知られている。

 その邸に蓄えられている書物は千とも万とも言われており、彼が気まぐれに城南書院を訪ねた折、

「見所があるから」

 と、弟から紹介された宗棠をそれとなく観察した後、

「確かにこれは逸材である」

 と絶賛し、宗棠に書物庫へ出入りする自由を与えた。若年とはいいながら、熱い志と学問への情熱、そして、今まさに傾城の憂き目を見ている清国家への深い見識を抱いている彼を、高く評価したためである。

 清帝国のほころびを繕う役割の一端を担っているために、長齢も大変に忙しい。だが、その忙しい合間を縫って、長齢は宗棠に会うたび、

「君は素晴らしい才能と覇気がある。わが国のためにそれをぜひ役立てて欲しい。つまらん周りの言葉で気力を萎えさせるな」

 そう言って励ました。科挙必須科目の八股文に通じていないが、とりあえず郷試に宗棠が合格できたのは、実に彼らのおかげであると言っていいかもしれない。

 もっとも、長齢は(いざという時の「憂国の士」を、もっと育てておかねばならぬ)と常々思っていたから、右の言葉は、宗棠のみへ向かってかけたものではなかったかもしれないが……

 先に述べたように、変わり者の彼に嫁を世話してくれたのも、彼ら賀兄弟だった。彼らの塾に通っていた人物の親で、特に懇意にしていた周家が、娘の婿を探しているという話を聞いたからである。

 その娘が宗棠の妻となった周詒端だった。詩もよく吟じて自ら作り、古典にも親しむといった才女である。

 彼女の両親がそういった、女性にはむしろ無用のものと思われていた学問を、彼女にも身につけさせていたところを見ると、周家は湖南でもそこそこに裕福な家の部類であったと考えられる。加えて彼女の父は、学問を続ける貧しい若者にも理解があったし、自身や息子の経験から、科挙試験の厳しさも知っている。そんな周家の娘ならば、宗棠の方も打ち解けるのではないか。

 しかも宗棠は次男坊である。父母の面倒を見る義務は、それらが存命であっても長男ほどにはないし、そもそも父母は他界しているから、経済的なことは別にして、詒端本人にしても嫁ぎやすいに違いない。それに宗棠のような「覇才のありすぎる…」男には、彼と同程度とまでは言わないまでもやはり聡い女性か、あるいは逆に自分というものがなさ過ぎる女性か、両極端でないと合わぬ。

 それやこれやで、長齢から初めて左宗棠という若者を引き合わされた詒端の父は、

「経済的には貧しいが、真面目で一徹、志の高い若者です。きっと将来、頭角を現します」

 という風に紹介されて、目の前にいる彼をつくづく眺めた。

 見れば見るほど、一癖ありそうな若者である。唇は頑固そうに結ばれているし、年長者である自分への態度は丁寧ながら、どこかふてぶてしさが見え隠れしている。しかし考えようによっては、それは逆に頼もしいとも言える。

 自分の娘の詒端も、手慰みには良いだろうと学問を勧めたところが、娘自身がのめりこんでしまい、色っぽい方面とはすっかり無縁になってしまった。男へ興味の欠片も示さず、本ばかりを相手に過ごしてきたものだから、才女としてはそこそこの名声を得たが、女性としては変わり者だと思われてしまっている。容姿のほうは十人並みなのだが、なまじ学問がありすぎるため、男のほうも敬遠してしまうのだ。

 よって当時にしては珍しく、二十一歳で未婚であった。要するに嫁き遅れである。そのことを心配していた彼女の父にとっても、長齢からの紹介は渡りに船だったわけで、

「科挙試験合格を目指しているため、その間は自力で妻女を養うことは出来ません。援助をお願いすることになりますが、必ず二度目までには結果を出します。合格できなかった時には、潔く諦めて働き口を探します」

 さらに宗棠本人からもそう聞かされ、詒端の父も二人の結婚を承諾した。

 こうして宗棠は、妻の実家から城南書院へ通うことになったというわけだが、

「試験の準備をしている間は、お前には指一本触れぬ。子作りはせぬ」

 新婚当初から彼は妻にそう宣言し、そういったことに疎かった詒端の目さえも白黒させた。宗棠にしてみれば、

「役人でもない無職の身で、子など作れるか。それでは子供に対して無責任である」

 という理屈になるのであって、自分が間違っているとは勿論思っていない。

 結果的に彼は二度目の科挙にも失敗しているから、嫁いだといってもほぼ六年、詒端は生娘のままだったということだ。いくら頑固者だとは承知していたといっても、これにはさすがの義父も呆れたろう。「子はまだか」と何度となく催促したであろうことは、想像に難くない。

 それに、何といってもまだ二十代の若者なのである。女性という「好餌」が目の前にちらついているというのに、

「俺にはまだその時間も資格もない。子作りをしてしまえば、俺は嘘を吐いたことになる」

 と、宗棠は頑なに言い張るのみだった。

 詒端経由でそれを聞かされて、宗棠の言うことはもっともだと頷きながら、『あの婿には正常な性欲というものが無いのか』と、同性であるだけに、詒端の父などは特にそう思い、余計な心配もしたに違いない。

 古くは紀元前から中国人の考えを支配していた儒教の観点から見れば、彼のしていることは不孝の極みである。ゆえに陰では「周家の婿さんは種無しではないか」という、大変不名誉な噂さえ立つほどだったのだ。

 しかしそんな頑固な面がある一方で、宗棠は詒端に対しても、例えば彼女が詩を作って吟じようが本を読んでいようが、自分の学問の邪魔さえしなければ、うるさいことは一切言わなかった。

 妻が作る飯のことついても、それを出す時間には「学問の時間に支障が出る」と、異常なほどこだわるものの、その味や作った飯そのものには全くこだわらない。とにかく腹に溜まりさえすれば良いようなのだ。

 農を研究している人間らしく、「いかに収穫量を上げるか」「この土地にはどういう作物が出来るか」といったようなことには大変に関心が高かったが、それが食い物として自分の前に出された途端、おかしなことに興味を失うらしい。妻にとって、ある意味かなりありがたい夫ではあったと言える。

 従って詒端のほうも、結婚したとはいえ実家暮らしであるし、読書や詩作に熱中していても夫も何も言わないし、で、娘時代とあまり変わらぬ生活を送っていた。繰り返すが、彼女自身、文学に対する造詣は深くはあっても、男女関係という点での機微には少々疎い。

 よって夫が自分に手をつけずとも一向に構わないと思っていたのだが、あまりに実父から子作りを督促されるものだから、さすがに彼女も困惑して、その都度夫である宗棠へそれとなく訴えはした。

 妻からの訴えの頻度はあまり多くはなかったが、それでも、

「他のヤツの言うことなど放っておけ。俺には俺の考えがあるのだ」

 と、やはり宗棠は頑なな態度を崩さない。

 彼も「男」である。いくら理解してくれているとは言っても、一家をなした男がいつまでも経済的に妻の世話になっているなど、彼の矜持が許さないのだ。妻にも話すことはなかったが、

『いつかこの借りは返さねばならない。妻の両親を、早くに亡くした実の親とも思って孝養を尽くさねばならない』

 とも宗棠は考えていたのである。

 かくて道光十九(一八三九)年。彼は二回の科挙に失敗し、

「今まで面倒をかけて、まことに相済まなかった」

 彼は妻と義理の両親の前で、そう言って頭を下げることになったというわけだ。

「あの変わり者が、塾に勤め始めたらしいよ」

 妻の家の門に宗棠が自身でかけたらしい垂れ幕を指差しながら、近隣の人々が囁くようになったのは、それから間もなくのことである。

 科挙に失敗した人間が生計を立てるには、私塾を開くか有力者の子弟の家庭教師になるというのが一般的な方法だった。宗棠が勤めたのは、湖南省醴陵の淥江書院である。書院から招かれたのを幸い、彼も同じ道のりを辿ったというわけだ。

 ちなみに彼が門前に掲げた幕に書かれていた文字は、

「文章ハ両漢ノ両司馬、経済ハ南陽ノ一臥龍」

 といったものである。ちなみにこの時代の経済とは、経世済民すなわち「政治によって民を救う」ということであり、現代で言う一般的な経済学を指しているのではない。 

 つまり、文章を書かせれば前漢、後漢の代にそれぞれ活躍した司馬遷、司馬相如並みであり、政務を執らせても「南陽ノ一臥龍」、すなわち諸葛亮孔明並みの才能がある、という意味で、

「宣伝にしても度が過ぎる」

 ついに人々は、憐憫すら伴う微苦笑でもって、彼を眺めるようになった。周家の人々にしても、自分の家の婿だと思えばこそ、宗棠自身には面と向かって文句は言わなかったが、この行動にはかなり閉口したであろう。

 こうして宗棠は、官吏として衰退していく国政の一端を担いたいという志に燃えながら、その志とは裏腹であるが、

『いつまでも妻の実家の世話になっていてはならぬ。妻や子は自分で養う』

 と決意して、私塾の一教師として教鞭を執り始めた。その傍らで、幼い頃から続けていた農学や地理の研究を再開している。

 その他、給金が実際に手元に入ってきてからであるが、彼は子作りも行っている。詒端との間に最初に娘が出来たのを皮切りに、その数年後にはまた二人の息子を立て続けにもうけた。よって、彼が種無しであるという怪しからん噂は自然に消えた。

 一方、詒端は詒端で、

『この人は、こういう人なのだ』

 と、結婚十年目にしてやっと、夫の性格の一端を理解したような気がしていた。

 一度自分でやると口にしたことは決して後から取り消さず、必ずやり遂げる。良くも悪くも、自分は決して間違うことがないと信じている。彼の心の中には独自の信念があって、それに従って動いているのだ。

 例えば、収入を得られるようになってからの宗棠は、彼女の両親がどんなに「もう十分に返してもらったから」と断っても、必ずその中からいくばくかを渡し続けている。

 彼らがすまながって、「せっかくだが…」ともらった金を娘の詒端を通じて返させたことがあったが、その折も、

「何故受け取らん。俺の誠意は、お前の両親にとってそんな程度のものか」

 そんな風に反って烈火のごとく怒ったので、ついに義理の両親も諦めて、その誠意を受け続けることに決めたのである。

 その仕送りは、後に宗棠が官位をもらって大陸を転戦するようになってからも、彼女の両親が亡くなるまで続いたのだから、

『コツさえ飲み込めば、むしろ扱いやすい夫』

 その頑固さを微笑ましいものとして見るようになっていた詒端も、この「誠意の押し売り」とでも形容すべき、しつこいまでの義理堅さにはさすがに辟易したことと思われる。


 さて、こうしてこの頑固者が塾に勤め始めたのと同じ年、清政府は高名な政治家である林則徐を広東へ派遣し、アヘンの取り締まりに当たらせていた。

 林は取り締まりを徹底して厳しくした。清、イギリス両商人達へ向かっては「アヘンを二度と清国内へ持ち込まず、取り扱わない」という誓約書を出させ、彼らが隠し持っていた、一四〇〇トンを超えると見られるアヘンを同年六月六日には全て焼却処分している。

 さらには、この法に従わなかった商人達を港から追放したりもした。道義的に言っても彼のしたことは正しいし、高く評価されるべきなのだが、

「わが国の商人を退去させたのは遺憾である」

 当時のイギリス監督官、チャールズ・エリオットは、これを不服として即刻、無条件での貿易再開の申し立てをし、実際に誓約書を出して貿易を再開しようとした自国のトマス・カウツ号その他の商人達を、軍艦まで出し威嚇した上で、再度同じような申し立てをした。 

 が、これも当然のごとく、林は却下している。

 非人道的で一方的な貿易のやり方を執拗に押し付けてくるのだから、林でなくても拒絶するのが当たり前である。しかし、このような毅然とした林の処置を、イギリス側は清を攻めて自国側を優位に立てる格好の口実にしようとしたのだから、

「こんな恥さらしな戦争はない」

 イギリスの国会内でも、保守派のウィリアム・グラッドストンらがそう批判した。

 つきつめれば麻薬の密輸が開戦理由で、人道的な観点においても大国がする戦争とは到底思われぬ。いうなれば、貿易摩擦が高じた結果のアヘン戦争がついに勃発したのが、同年の十一月三日のこと。 

 イギリス国会内でも開戦賛成派が二七一票、反対派が二六二票の僅差であったこの戦いは、清側も奮闘したものの、結局は清の大負けであった。大敗の報せに慌てた時の皇帝、道光帝は、一族である愛新覚羅耆英を和平大使として交渉に当たらせ、清にとって大変に屈辱的な南京条約を結ぶに至る。

 この条約で、清は多額の賠償金を払わされた上で、香港をイギリスへ割譲するのを認めさせられ、さらには関税自主権、治外法権の放棄を認めさせられ、広東、厦門、福州、寧波、上海の五つの港を開港させられた。

 また、戦争の原因を作った責任を取らされて、林則徐は清帝国の最西方、新疆地区のイリへ流されることになった。正しいことをやって戦争を吹っかけられ、負けた挙句に責任を取らされる…彼の政敵はともかく、多くの人が処分された彼を悼んだに違いない。林はいわば、貧乏くじを引いたようなものだ。

 武器の点からしても、大砲、鉄砲といった圧倒的な強さを誇る近代的なそれの前に、昔ながらの刀や鎧が「歯がたつ…」わけがないのだが、

「武器など、なければないで、戦い方はごまんとあるものを」

 自国の歴史的大敗を知った宗棠は、そう言って切歯扼腕した。彼に言わせれば、近代的であろうが古臭くあろうが、武器など使う者次第である。

「俺に指揮を取らせれば、英国など寄せつけなんだものを」

 しかし、そう思っていても、さすがに彼もその類のことは口にしない程にはなっていた。

 その先を言えば、身の程知らずとして笑われるだけでは済まず、悪くすると政道を批判したということで、手が後ろに回ってしまう。だもので、彼の心の中にはその分だけ、さらに鬱屈したものが溜まったに違いない。

 戦争終結後しばらくして宗棠は、勤めている塾でも生徒たちに向かって、

「今の中央政府によくいるような、芯まで腐った役人にはなるな」

「お前達は、今諸葛亮ともいうべき俺のような人間に教わっているのだから、大変に幸運である。であるから、もっと謙虚に学べ」

 と言っては彼らを失笑させ、科挙に失敗した塾生たちには、

「この俺が教えているのに、なぜお前は不合格になったのだ」

 と、落胆している彼らをさらに鞭打つような言葉をかけるようになった。

 そんな話が塾外に伝わるのは時間の問題である。

 城南書院の賀兄弟の引き立てがあったとはいえ、このような人間を淥江書院側もよく雇っていたものだ。やがて人々は彼をいささかの揶揄を込め、「拗ね臥龍」と呼び始めた。臥龍とはむろん、諸葛亮孔明のことを指している。

「口先だけの人間にはお似合いであろうよ」

 というところであろう。確かに世が太平であったら、「拗ね臥龍」の名に相応しく、変わり者と噂されたままで一生を終えたに違いない。

 アヘン戦争が起きて、清帝国が大敗したといっても、

「清は所詮、夷狄(女真族)が作った国であるから」

 というように、人々はそのことを重大視していなかった。中国大陸に住んでいる人々の大半が漢民族である。だから人々の全てが、つまるところ夷狄である女真族が負けたこの戦争に関心を持っていたわけではない。

「これまでと同じで、清王朝が続くというなら続くだろうし、そうでなくてもまた、新たな漢民族の国が交代に現れるだろうよ」

 とまで楽観的とはいかないものの、人々の意識はこの時点では、まことにお気楽なものだったのだ。

 そもそも中華が夷狄(中国では広く異民族を指す)に破れることは、これまでにもままあることだったし、戦争の起きた場所が、帝国の中央から遠く離れた広東に限られていたということもある。

 それに何より清帝国の鎖国制度のせいで、欧米列強のことをまるで知らないし、知ろうとも思わない、というように思想教育されていたのだから無理もない。この点、初めて黒船が現れた時のわが国に良く似ている。

 しかし、この出来事を重く見ていた政府高官や有識者も当然ながら多かったわけで、例えば、林則徐の幕僚でもあった思想家の魏源などは、イギリスが今までに出現してきた夷狄とは異なる相手であると感づいており、林が清国最西端のイリへ流されるにあたって『海国図志』の編纂を任されている。

 宗棠も無論、この著作に目を通し、その語るところの、「夷ノ長技ヲ師トシ以テ夷ヲ制ス」といった一文に大きく頷きながらも、

「このまま古い体制を維持しようとすると、国はだめになる…だが俺は官吏ではない」

 うつうつとした感情を抱いたまま、失意の日々を送っていたのだ。

 実際、官吏でもない人間がいくら声を上げたところで、帰ってくるのは冷笑ばかりである。たとえ先ほどの科挙に合格していたところで、やっと下っ端の役人になれたばかりの年齢、という計算になろう。そのような人間の言うことになど、誰が耳を傾けるだろうか。

 だが、運命とは面白い。そうして宗棠が国の行く末を憂えて忸怩たる思いを抱えながら、相も変わらず、

「ありとあらゆる知識を身につけている俺に比べて、お前達はまだまだだ」

「たとえ科挙に合格しても、役立たずの官吏にはなるな。アイツらときたら、自分で自分が生きているか死んでいるかさえ分かっておらん。その癖、金だけはどうにかして少しでも多くもらおうとしおる」

 などと、好き放題を言い散らかしながら塾に勤め続けていたある年、たまたま湖南に帰省していた陶澍が彼を訪ねて来るのである。

 地方総督の中でも、特に南京を有するために高い位置づけにあった両江(江南、江西両省を統括したのでそう呼ばれる)総督その他、要職を歴任して功績をあげたこの人が、故郷である湖南省へ戻ってきたのはまさに偶然で、

「この私塾には、拗ね臥龍がいるそうな」

 と言い言い淥江書院を訪れ、はじめは興味半分で宗棠に面会を求めた。

 恐らく書院に勤め始めて数年経った頃ではないかと思われる。その頃には、宗棠の「変人ぶり…」は故郷や書院だけではなくて、湖南省一体に広まっていたらしい。

 政府の高官が訪ねてきたということで、

「左先生が吹きまくったことが、何かに触れたのではないか…」

 怯えた塾生や教師たちも、しかし陶がただ純粋に宗棠を訪ねてきただけで、しかもたった一度のその面会で、

「私の息子の家庭教師になっていただきたい」

「貴方の娘さんを私の息子の嫁にぜひ」

 と、宗棠を口説いたということが分かり、

「高官に見込まれるくらいだから」

 と、現金なもので、宗棠への見方をがらりと変えた。

 乾隆五十三(一七八八)年生まれのこの高級官僚には、晩年にもうけた幼い息子がいたのである。しかし肝心の宗棠のほうはといえば、家庭教師のほうはともかく、

「私ごときの娘を貴家へ嫁入らせるなど、とんでもない」

 そう言って最初は固辞した。

 陶と宗棠では、当たり前だが年齢といい、身分といい、あまりにも差がありすぎる。普段は大言壮語して憚らない彼も、

『娘が苦労するのではないか…』

 己の志とそれとはまた、別の次元の話である。

 宗棠は一人の父親として、娘が嫁入った後、身分と風格の違いから、彼女が不当な扱いを受けるのではないかと心配したのだ。それにさすがに娘を自分の出世のための道具に使う気にもなれぬ。

 なるほど、高級官僚と姻戚関係になれば、彼にも幾分かのおこぼれは期待できるだろうし、ひょっとすると彼が昔夢見た進士でなくとも、幕賓として政治の一端を担うことも出来るようになるかもしれない。しかし、そのようなやり方で出世するなど、

『己が信ずるのは、己の才のみ。我は今臥龍なり』

 とする、誇り高い彼の性分には到底合うものではなかった。

 しかし、右のようなことを正直に述べ、再三固辞する宗棠を、逆に陶は余計に気に入ったらしい。

「ともかく、息子の専属教師になっていただくだけでも」

 そう言って、彼の湖南の邸へ丁重に招いた。宗棠も、陶のこちらの要望にはとりあえず、

「誠意を持って、ご子息の薫育に当たりましょう」

 と返事をした。

『あとはゆっくり口説けばよい』

 陶がそう思ったかどうかは定かではないが、ともかく政府高級官僚専属の家庭教師ともなれば、古くからの慣習によって、その邸へ家族ごと住み込むことが出来るようになる。家族同然の扱いと敬意も受ける。 

 そうなった場合、宗棠の側にしても衣食住の心配がなくなるのだから、

『後々、断りづらくなろう』

「左先生」「左先生」と、ことあるごとに己の長子と同じ年ほどの宗棠を敬意でもって呼びながら、決して悪意からではなく、陶はそう考えた。考えたばかりではなく、

「先生のご夫人の両親もこちらへ招かれ、共に住まれたが良い」

 と言い、自分の屋敷からさほど離れていない場所に、周夫人の両親のために、小さくはあるが快適な屋敷を建てもした。

 つまるところ、陶澍はそれほどまでに宗棠に惚れこんでしまったのだ。こういった陶の真心からの厚意をむげにし続けるわけにも行かず、ついに宗棠も淥江書院を辞めて、家族とともにその屋敷へ移住した。アヘン戦争終結からおよそ二年後のことである。

 この大陸には昔から「奇貨置くべし」、つまり自分にとってこれはと思う人物がいれば、損得を考えずにその人物に入れ込むという、侠気から発した精神的伝統があるにはあるが、それでも人を見る目が少しでもある人間は、滅多なことで他人を認めたりはせぬ。両江総督まで勤めた人物に気に入られたということからも、宗棠が周りから噂されていたように、ただの大言壮語癖のある変わり者ではなかったということが伺えるであろう。

 結果的に彼の娘は陶の幼い息子に嫁ぐことになり、宗棠の陶家滞在は実に八年の長きに渡っている。

 この間に高齢であった陶澍は亡くなったが、宗棠は変わらず陶家に滞在し続けて、残された娘婿の指導に当たり、陶の女婿であった胡林翼という人物と知り合った。

 胡もまた進士試験に合格したエリート組で、すでに幾度か地方総督を任ぜられたこともあるという、錚々たる官僚である。当時は湖南省のちょうど西にある貴州の知府として働いていた。

「伺えば私と同い年ということだが」

 と、胡はそれだけでも宗棠へ好意を抱き、親戚ということで、政治向きの話だけではなく、互いが抱く世界情勢観などまでも宗棠と語り合った後、

「貴君には何でも話せる、相談できる」

 ついには宗棠自身に魅せられ、そう言うまでになってしまった。

 頑固で偏屈な人間はその分不器用で、自分にも裏表を作ることが出来ない。良く言えば、まことに正直で素直な情熱家で、悪く言えばごくごく単純な性分である、といったところだ。だもので、自分を見込んでくれた人とは誠意を持ってとことん付き合うし、また、そういう姿勢を素直に態度に表す。

 あくまで負けん気が強く、時には彼と親しい人間でさえも呆れるほどに頑なではあったが、宗棠もそんな侠気たっぷりな一面を持ち合わせていたに違いない。

「貴君の学識は深く、見解は素晴らしい。貴君ほどの才能を持った人がなぜ世に出ず、埋もれているのか。私も含めて世の人は、人物を見る目がない」

 胡は、宗棠でさえ照れてしまうほどに彼を褒め、それからはそれとなく、またははっきり、「この国に左宗棠あらずんば」などと宮廷なり地方府なりで、宗棠のことを吹聴するようになった。

 変わり者の宗棠を気に入ってしまうくらいだから、胡もかなり寛容な人物だったのだろう。言い方は少しく乱暴だが、胡は左宗棠の「エリートであれば絶対にしない物の考え方」に感服したのではないだろうか。早い話が、育ちの違いに魅せられたとも言える。

 ともかく胡林翼は、宗棠の噂をばら撒くだけではなく、実際に林則徐にも彼を会わせた。林がアヘン戦争の責任を取らされ、天山山脈北西にある辺境都市イリに流されていたことは先に述べた。その時ちょうど赦されて雲貴総督を拝命し、任地へ赴く途上だった林を、

「面白い人物がいます。旅の垢を落とされるついでにでも、ぜひお立ち寄り下さい」

 と言って、胡は引き止めたのである。

 胡も、まだまだ駆け出しの官僚である。その下っ端に招かれて、無礼を怒るどころか林もまた、「どれどれ」とばかりに気軽に応じたものだ。

 林則徐は、アヘン戦争以前の道光十七(一八三七)年、二人の住んでいる湖南、湖北省を合わせた湖広の総督をも勤めている。そのこともあって、胡林翼も義理や「宗棠を世に押し出さねば」という使命感ばかりでなく、相当の懐かしさと親しみを込めて林を招いたのではなかろうか。それに、ひょっとすると林のほうも、胡のばらまいていた湖南の拗ね臥龍の噂を聞き知っていたかもしれない。

 さすがに恐れ入りながら、しかしいつものように、

「先の戦の根本的な敗因は、わが国が諸外国のことを知らず、また調べようともしなかったことにあります。敵を知れば危うからずというではありませんか。わが国もいたずらに歴史を誇るだけではなく、学ぶところはイギリスなどの西洋諸国に学び、軍備を充実させねばならぬと私は考えています。西洋式に学び、十分な訓練を施せば、我が国の兵とて、決してイギリスやフランスなどにも劣らぬはずです」

 陶澍邸において、宗棠は自分の考えを熱く語った。

 現在ならば常識過ぎるくらい常識のことで、何を当たり前のことをと一笑に付されるかもしれないこの考えを、しかし「わが国こそが最強である」と信じていた当時の中国の人が持てたということは奇跡に近い。

 時に国内での小競り合いや乱はあるものの、長らくの鎖国状態で「この国以外のことを特に知らずとも生きてゆける」と、ほとんどの人々が、貧しくはあってもそこそこの太平な生活に浸りきっていたし、なによりも「三千年の長きに渡って存在し続け、周りの国へも文化的な影響を及ぼしてきた我等が漢民族」としての誇りが、自国以外の文化を学ぶのを邪魔していたからだ。

 一度口を閉じた宗棠の顔をじっと見つめながら、林則徐はしばらく黙って考えた後、

「君たちを含めて世の人々は、イギリスやフランスの海軍を恐れているようであるし、事実、彼らはわが国とは比べ物にならないほどの軍事力を持っているが、私の意見とは少し違うな」

 宗棠へも、同席している胡へも等分に目を注ぎながら、ゆっくりと口を開いた。

「それはどういう事でしょうか」

「君たちの考えも一つの意見ではあるが」

 自分の顔を見つめ返してくる青年達へ頷きながら、

「本当の脅威は、わが国と陸続きであるロシアだ」

 林は老いた、いかにも好々爺といった顔で、ニコニコしつつそう断じた。

 若かりし頃は髭も濃く、見るからに精悍な面構えであったと聞く。しかしこの時分には鼻の下と顎に優しげな白い髭をふっさりと蓄えて、

「イギリスやフランスの人間達と同じ肌色目色をしていながら、ロシア人のやり口は、彼らよりも小ざかしく、老獪だ。よってわれらの脅威となるのは、北や西から容易くわが国を狙えるロシアである」

 笑顔と口調は柔らかいが、その口から繰り返し語られる言葉は厳しい。

 彼もまた、腐敗しがちな政治の場では珍しいほどに正義感の強い、清廉潔白な人物で、何より嘘を嫌った。湖広総督であった頃もアヘンの取り締まりに大層厳しく臨み、ついにはこの地方からアヘンを根絶させた。それにその前からも他の地方の行政官として、この国の基本産業である農業に欠かせぬ治水問題にも取り組み、大いに成果を上げているから、彼を慕う国民も多かったのである。

 不幸にも左遷の憂き目を見たが、新疆イリでも、彼は同じように善政を敷いた。イリはまさにロシアとの国境に面しており、周辺に住む少数異民族が遊牧を営んでいる。

 三年という短い期間ではあったが、それら少数異民族をよくまとめて、彼らの言うところによく耳を傾けながら、清へ向かってじわじわと南下してくるロシアの脅威を林は肌で知ったのだ。

『わが国にとっての真の敵は、ロシアか』

 そしてこの老政治家の言葉は、宗棠青年の心の中に深く刻み込まれた。林も、彼が裏表の無いまっすぐな人間だと思え、またそんな彼の気性を気に入ったからこそ、ここまではっきり言ったのであろう。でなければ、欽差(特命)大臣まで勤めた彼が、何の官位も爵位も無い人間に対して、国際問題にまで発展しそうなことを語るわけがない。

 林がこうして何気なく宗棠に告げたことが、後に清朝廷において、対ロシア戦略を唱えた塞防派を形作る元になったのだから、まことに運命とは分からない。林の左遷は彼自身にとっても、清帝国にとっても、決して不幸であったとは言えないかもしれぬ。

 林則徐は、それから間もなくの道光二十九(一八四九)年に引退したが、その翌年に起きた太平天国の乱に対するために再び欽差大臣に任命された。しかし、任地である福州へ赴く途中の晩秋、六十五歳で亡くなっている。

 つまり、彼が宗棠に語った言葉は言うなれば遺言に等しく、

『この国を護らねば』

 という、宗棠の火のような意志に油を注いだ結果になったのである。また、胡にばかりでなく、林にまで知られたことにより、左宗棠の名は、

「湖南に拗ね臥龍あり」

 として、いよいよ広まることになった。


 この拗ね臥龍が本格的に世に出た、というよりも清朝に正式に知られたのは、林則徐が亡くなった翌年、いよいよ太平天国の乱が清朝廷においても「捨て置けぬ」となった咸豊元年のことである。

 太平天国の乱はあまりにも有名すぎるので、その過程をいちいち記すことは省くが、要するに「俺はキリストの弟である」と宣言した洪秀全率いる宗教団体「太平天国」が引き起こした、清末期の大規模な内乱のことを指す。

 太平天国の前身である拝上帝会が、道光三十(一八五〇)年に、広西省桂平県の金田村において終結させていた信徒と、清帝国側の軍や自警団との間に小競り合いが起きたことがその発端とされており、その翌年、道光帝の後を襲って即位したばかりの咸豊帝はまだ二十歳になったばかりの若さであった。

 最初は、

「ただのよくある内乱…」

 と軽く見ていた清正規軍であったが、次第にその鎮圧にてこずるようになる。

 誰でも重税を課したり弾圧したりを繰り返す政府より、親身になって病気を治してくれたり、粥の一杯でも恵んでくれたり、といった方をありがたがるに決まっているからだ。 

 おまけに初期の太平天国の規律はかなり厳しく、略奪の一切を禁じていた。略奪どころか、民家へその主の断りなしに邪魔することすら禁じ、

「民家に右足を入れた者はその右足を切る」

 と宣言していたように、それを実行していたらしい。確かにこれでは、戦のためだといっては民から略奪を繰り返す清正規軍の方が、むしろ盗賊のように見えてしまうだろう。

 この乱は実際、十年余りも続いているし、最初に清正規軍とぶつかり合った時の一、二万人あまりのうち、男性はたったの三千人であったというのに、それでも数倍する正規軍に勝っているのだから、それだけ清政府に対する民衆の不満や憤りは深く、また、逆に清政府は反乱軍を舐めていたと言えるのである。

 そして、最初は革命軍というよりも、むしろ流賊的な性格が濃かった太平天国の信徒たちは、金田村から広西省藤県を経て、ついには永安(現広西壮族自治区蒙山県)を落とした。なおかつ、ここで半年ばかり滞在し、一つの国としての体裁を整えもしている。

 まず彼らは、皇帝の位を禅譲する際に朝廷で使われた道具、玉璽を作っている。日本でいうなら、三種の神器といったところか。太平天国お手製のその玉璽には、中央上から下に「天父上帝」の四字、その右上と左上それぞれに玉と璽、二つの字が刻まれている。

 さらに彼らは政府を真似て官爵や官吏の制度も整え、天王を称した洪秀全の下に、東王楊秀清、西王蕭朝貴、南王馮雲山、北王韋昌輝、及び翼王石達開、といったようにそれぞれの王に五人の幹部を任命した。

 こうして最終的には、湖南省東の江西省および浙江省、そして南京を含む安徽省南半分を占拠したのだから、そのことからもこの乱の規模の大きさが伺えよう。

 洪秀全に従った大衆も、真っ正直に彼のことをキリストの弟だなどと信じていたわけではないだろう。中にはもちろん、諸外国の圧力に対する清帝国のあまりの不甲斐なさに対する義憤を抱いての参加者もあったろうし、その他に貿易の仕事が激減して匪賊になったりなどというような、明日の糧にも困っている、食いっぱぐれた民衆もいたのだ。

 これには、当然ながらアヘン戦争も一枚噛んでいる。

 鎖国政策を採っていたので、広東港でのみ貿易を許可していた清政府が、先だってのアヘン戦争で負けた際に押し付けられた不平等(南京)条約で、広東以外にも開港しなければならなくなったのは既に述べたが、そのことにより、これまで港で貿易の仕事に携わっていた人々の生活が激変した。広東一点に集中していた仕事が、五港に分散されることになったため、広州に失業者が溢れる、そしてその失業者が匪賊化する、という結果になってしまったのだ。

 また、それより先に、清政府は国の東南部に住む人々に対し、戦費調達や賠償金支払いのためとして重い税を課しているし、その上諸外国との不平等な貿易で、銀が大量に流出してしまったものだから、いわゆる為替レートが既に大幅に崩れていたのである。

 貿易においてだけではなく、清政府への税も、銭を国内の通貨である銀で換金して収めることになっている。それやこれやでこの地方のみ、その為替レートが銀一両につき銭一千文であったのが、その二倍の二千文に跳ね上がってしまったのだ。つまり、納めるべき税金も二倍になってしまったようなもので、

「他の地方では一千文のままであるのに、どうして我々だけが損をしなければならない」

 と、普通の人間であれば誰もが不公平だと考えるだろう。

 政府の失策のせいで失業してしまい、無収入になったのに、税は失業前と変わらず納めなければならない。納められなければ、最終的に待っているのは牢屋である。税を納めたくとも納められないのに罪人になってしまうなどという、そんな馬鹿な話があろうか。

 ともかく、そういった「やけのやんぱち」で匪賊になった者も、最初から洪秀全を慕って集まってきた者も、清政府に不満を抱いているという点では一致していた。

 そしてそんな民衆が集まったのだから、武器や兵術、といった方面はともかく、精神面での団結力において、「義務的…」に兵役についている人々で構成された清帝国軍隊とどちらが上であったかは、比ぶべくもない。

 そのように圧倒的な団結力を誇る太平天国の民衆達は、それからまもなく起きたアロー号事件―この事件については後に述べるが―のために兵力を分散させねばならなくなった帝国の軍隊を、幾度となく破った。そんな太平天国に、他の地方の匪賊たちも続々と集結したため、勢力は急速に膨れ上がり、水軍、陸軍までをも形成するまでになっているのだ。

 後世、中国では文革において太平天国が大変に持ち上げられた時期があったが、その乱が起きた経緯を考察してみると、もっともだと頷ける。この乱を掃討した側の一員である宗棠らが批判を浴びたというのもまた、同様に無理からぬことだと思えてしまうほどだ。


 余談はさておいて、咸豊帝である。

 即位前、周囲の誰もが、彼ではなく、覇気があり才気煥発と見られた道光帝第六子、恭親王を推していたのを、父の帝が、

「彼は優しい気性であるから、それが良いのだ」

 と押し切って、第四子である彼を帝位に就かせたという。そんな「いわくつき」のこの若き帝は、即位早々、宗棠と同じ湖南出身の郭嵩燾を召し出し、

「お前は挙人の左宗棠を知らないか。どうして彼は朝廷に仕えていないのだ」

 年は幾つだ、どんな人間だ、と尋ねた後、

「汝、書ヲ為リテ吾ガ意ヲ諭スベシ」

 お前が宗棠へ手紙を書いて使いせよ、清朝のために働けと言え、と、命じた。咸豊帝もまた、先に亡くなった林則徐あたりから宗棠のことを聞き知ったのかもしれない。

 先にアヘン戦争を体験し、その後始末にヒイヒイと喘いでいる清朝にとっては、太平天国の乱はまさに泣き面に蜂であったろう。贅沢の限りを尽くすばかりで、いざという時のために動けないでいるとなれば、皇帝として非難を浴びて当たり前である。へたをすると太平天国や黄河流域にいる農民反乱軍…清朝は捻匪と呼んでいたが…以外にも革命を起こそうとする者が出るかもしれぬ。咸豊帝もまた、それを恐れた。

『どんな人間でもいいから助けてくれ、出来れば俺と変わってくれ』

 と、これが皇帝というには、心身ともにあまりにも脆弱で、その短い生涯を妻の一人である西太后の尻に敷かれ続けたこの帝の本音だったかもしれない。

 次から次へと起きる動乱に対するには、聡明さや優しさだけでは到底太刀打ちできぬ。林などの骨のある役人は、高齢のために次々と亡くなっていくし、周りに残るのは私腹を肥やすことばかりに長けた官僚のみである。このような動乱の折、ともかく己が頼みに出来る人間を、一人でもいいから側に欲しいと、文字通り喉から出るほどに彼は願ったのだ。

 ともかく、ようやくこれで宗棠の出番は回ってきた。もうただの嘯く拗ね臥龍ではない。

「まずは湖南巡撫、張殿の客になられたが良い」

 皇帝からのお召しに、胡林翼も自分のことのように飛び上がって喜んで、宗棠にそう勧めた。通常なら、皇帝直々の呼び出しなのだから、そのまま北京に上って皇帝に拝謁してもよいくらいなのだが、その頃には太平天国が既に彼らの住む湖南の主要都市、長沙にまで迫ってきていたものだから、

「彼らからこの地を護り、それを手土産になされば良かろう。君なら出来る」

 胡の勧めに、政治の駆け引きを知らぬ宗棠は素直に頷いた。彼とて元より賊から故郷を護ることに異論は無い。

 張殿、というのは、張亮基のことである。この人も進士に合格したエリート組であり、湖南省出身であるというので、太平天国に対するため、特にこの地方の巡撫に任ぜられた。

 いったいにエリート組というのは、学識教養方面は豊かだが、実務や実学には甚だ疎いという学者バカの傾向がある。よって、実学に長けた人を己の幕に集め、客として扱った。

 故林則徐とそのお抱え思想学者、魏源の関係にもあるように、こういった人々を幕賓とか幕僚とか呼ぶのだが、その客に対する給金は、進士らが懐を痛めて渡す、いわばポケットマネーである。性格的には、前漢創設時代の劉邦が、智謀の士であった張良を客として迎えたのと同じかもしれない。宗棠が具体的に世に出たきっかけも、最初は張亮基の客としてだった。

『俺の才能がどこまで通じるか』

 進士試験に失敗した頃より少しは老成したかもしれないが、気概は少しも衰えぬどころか、それは逆にはちきれんばかりの希望と共に、彼の五体の中で疼いている。

 国内の乱を鎮めなければならない立場になった者としては、いささか不謹慎ではあるが、

『俺のことを世に知らしめる機会だ』

 と、少しでも宗棠が考えなかったかと言えば嘘になるだろう。むろん「俺が国難を救う…」という、多分に自己顕示の混じった気持ちのほうにも嘘偽りはない。

 そういう意味では、太平天国の乱は宗棠にとって、「己が自己表現をすることで世のためにもなり、己の自尊心も満足する」絶好の機会であったと言える。もちろん、そうなるためにはそれ相応の実力があることが不可欠であるが。

「しばらく家を留守にする。後は頼む」

 妻、周詒端と義理の両親へそう言い置いて、彼はついに世へ出た。

 時に左宗棠、三十八歳。まさに働き盛りの男盛りであった。


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