沙ニ抗ス
せんのあすむ
序
所は北京、春の早暁である。
紫禁宮に使えている官吏は、どんな身分の者であろうとも、毎日必ず午前四時には宮殿の午門に行って跪き、北の太和殿へ向かって礼拝しなければならぬ。今日の会議のことを思って、普段の彼らしくなく、緊張してあまり良く眠れなかった左宗棠は、寝床からむっくりと起き上がって窓の側へ行き、充血した目を太和殿の方角へ向けた。
彼が北京での主な宿にしているのは、紫禁宮を囲む四方の大きな道路のうち、一本を隔てた軍機大臣の文祥の屋敷である。
今回のように北京にたまたま滞在することがあっても、その期間はあまり長くないため、宗棠は今もってその道路の名を知らぬ。従って薄情なようだが、泊めてもらっている屋敷の具体的な所在地も知らない。自分にとっては必要も興味も無いことなので、念を入れて覚えようとも思っていないから、最近では道路の名を尋ねることも諦めた。何度尋ねても、教わった側からすぐに忘れてしまうためである。
宗棠自身も、西方二つの陝西省、甘粛省の軍政と民政双方を統括する陝甘総督である。従って身分は高いほうなのだ。だから紫禁宮の周りに屋敷の一つくらい、もらっていてもよさそうなものなのだが、清帝国内のあちらこちらで戦続きの今、彼が北京へ腰を落ち着ける時間は全くと言っていいほどない。なので、せっかく文祥が「左宗棠にも屋敷を」と言ってくれているのに、それがなんとなく実現されないまま、時間だけが経った。よって北京における彼の屋敷は未だに無い。
もともと当人も「屋敷なぞ管理が面倒くさいから要らん」と言っているし、しかし文祥はしきりに気の毒がるし、といったいきさつで、北京に彼が滞在する折には、文祥の好意に甘えて、その屋敷に厄介になるのが当たり前のようになっているというわけだ。
手早く身支度を整えながら窓枠を見ると、そこにはうっすらと黄色いものが積もっている。春先に北京に吹く風は強く、いつもこの時期には砂埃が立つ。この分だと、紫禁宮の石畳にも砂は積もっているに違いない。
『西方に吹く風も、さぞや黄色いだろう』
彼はそう思いながら、屋敷の者に黙って家を出た。
客人なればこそ、出かける時には一応、その家人へ声をかけるのが礼儀である。しかし宗棠の場合は、彼らに気を遣わせることで彼自身もまた気を遣い、全身が固まってしまうのではないかと思うほど、心身ともにくたびれてしまう。飯のことはともかく、それ以外のことでも気を遣わせるのが嫌で、文の家の者へも、
「出かけることがあっても心配してくれるな。俺なら大丈夫だから」
と、宗棠は常々言っていた。
文祥にも黙って家を出たつもりが、彼を待っていたらしい供の者達が、慌ててその後ろにつき従う。なるほど、これらの護衛がいる限り、彼の身は安全であろう。
白いものが混じり始めた顎ひげを左手で無意識に撫でつつ文祥邸の門をくぐり、紫禁宮午門に向かって歩きながら、彼はふと遠い目をした。
気が付けば、この大陸を転戦してきた己も、もう今年で齢六十である。
『運命とは面白いものだ。この老亮が』
彼は、己を「湖南の諸葛亮」と称していた。諸葛亮とは、当然ながら三国時代に名を馳せた高名な軍師、諸葛亮孔明のことで、
『彼と同じく、この俺も似たような年で西方に赴くことになるとは』
志半ばで五丈原に没したかの軍師と同等の才がある、と常々吹聴していた彼もまた、孔明と同じ西方の、しかしそれよりさらに遠い新疆方面へと再び向かおうとしている。
三千人もの宮女が蓄えられるといわれた紫禁宮は広い。時の皇帝である光緒帝へ謁見するにも、午門から見えている太和殿ではなく、そこからさらに北側の内延と称される部分へ少し入り、後三宮と呼ばれる建物の手前で左手に折れて、その西側にある養心殿まで徒歩で行かねばならない。特に夏、午門から養心殿まで歩いて行こうものなら、全身汗みずくになること間違いなしであろう。
美しく敷き詰められた石畳は、春のこととはいえ今日も冷えきっている。その上で型通りの礼拝を行った後、
『年を取ったと思いたくはないが、老骨にはやはり堪える』
続く太和門へ向かって彼が歩いていると、
「左公、いや、欽差大臣殿。私を置いていくとは、いつもながら水臭い」
背後から声がかかった。振り返るとそこにいたのは文祥で、
「まだそうなると決まっていない。俺をそう呼ぶのはやめてくれ」
苦笑しながら、宗棠は答えた。しかし、
「いやいや、今はまさに国家存亡の時、君がならねば誰がなる。本日、必ずや私も帝や母后から諾の返事を引き出すによって、君もそのつもりでいて欲しい」
文祥は熱を持って言った後、
「大きな声ではいえぬが」
と、共の者を遠ざけて宗棠と二人、先に立って並んで歩きつつ、
「あの優等生に任せておいては、国は乱れるばかりだよ。学はあるかもしれないが、どうも理想に走りすぎる」
己より六歳年上であるところの宗棠の耳へ、口をつけんばかりにして囁くのだ。
文祥の言う優等生、というのは、のちに日清戦争において井上博文と講和会談をした李鴻章のことである。宗棠が李鴻章のことをあまりにも「優等生」「優等生」と連呼するものだから、ついに文祥にもそれが伝染してしまったらしい。
「今日も恐らく、あの優等生殿は、母后へ向かってお得意の海防を論じるつもりだろう。だが、私は君の味方だ。君の見解は正しいと思っているよ」
確かに李は学が深かった。清朝の科挙試験二つに若くして合格したから、二人よりも一回り以上年下でありながら、二人とさほど変わらぬ地位についているし、諸外国から外交の手腕を認められてもいる。
だがほんの数年前も、李は今回と同じように「新疆討伐に金を割くなら、イギリスの要求を呑んでヤクブの自治を認めた上で彼に朝貢させよ。そしてその金を日本対策へまわせ」と主張した。そんな彼を退けて、国庫や諸外国から一千万両もの金を都合するよう、朝廷への根回しに尽力したのが文祥だったのである。
「…以前の君のお骨折り、まことにありがたかった。その上に今回も…まことに忝いと思っている」
「いやいや。私としても骨折ったかいがあったと思っています。君の創った製造局は、蘭州も甘粛も二つながら素晴らしい業績を収めているではないか」
「ははは、そのようにおだててくれるな。しかし」
文祥の言葉に宗棠は、胡麻髭の中の顔を年甲斐もなく赤らめて、
「やはり俺…私には、宮中の空気は合っておらん、そんな気がする」
「ああ」
彼の言葉に、文祥は苦笑して二つばかり頷いた。自分でも言っているように、紫禁宮という名の権謀詐術渦巻く政治舞台は、この年上の幕友には確かに合っていない。
「やれやれ、今日も砂埃が酷いな」
そこで文祥は、少し宗棠から離れて空を仰いだ。
出がけに宗棠が思ったとおり、西からの風に乗って運ばれてくる黄沙は、毎日掃き清められているはずの石畳を、早、黄色に染め始めている。
「前回も俺が直接、沙の中にまで行ったわけではないが」
宗棠もまた小さな目を細めて、
「まだまだやり残したことがある」
『残してきた屯田兵達は、元気に過ごしているだろうか』
どことなくかすんでいる朝焼けの空を見上げた。
風に乗って、美味そうな朝餉の匂いも漂ってくる。どうやら今日は、宮廷の料理人も少し寝坊をしたらしい。皇帝一家の朝餉の時間にはまだ間があるとはいっても、
「母后の機嫌を損ねなければよいが…」
宗棠が呟くと、文祥はまた、人のよさそうな顔を歪めて苦笑した。
現在、実質的に政務を取り仕きっているのは、皇帝である光緒帝ではなく、その母の西太后である。彼女は自分の時間を浪費させられることとなれば特に厳しい。
『果たして彼女から、再び新疆討伐の許しと金が得られるだろうか』
と、いよいよ眼前に迫った養心殿の前で、二人は期せずして同時に足を止め、顔を見合わせて少し嘆息した。
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