どこからどこまで、全部
ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中
第1話 昨日失くした涙
雨の日、失恋相手に傘を持っていかれて濡れながら裸足で歩いていた彼に、俺はひと目で心を奪われた。
綺麗な人だった。
俺より若いのか、同い年くらいか。ほっそりとした身体。陶器の様な白い滑らかな首筋に、貼り付く後ろ髪。
それを掻き分けて、そこに吸い付きたいと強烈に願った。
濡れたTシャツから、その人の性別が自分と一緒だとすぐに分かる。
俺は別にゲイじゃないし、これまで彼女だっていたこともあるし童貞でもない。
それなりに青春を謳歌して、そろそろ真面目に就職について考えようなんて思い始めた頃だった。
だけど、否応なく惹かれてしまったのだ。
必死に追いかけると、彼に傘を差し出す。
家が近いから来て、ひとめ惚れなんだと、のぼせ上がった高校生みたいに一所懸命口説いた。
怪訝そうな彼の表情に、ほんの少しだけ期待が含まれている気がしたのは気の所為だろうか。
やがて呆れた様な笑顔を見せると、彼は雨の妖精みたいに裸足で軽やかに歩きながら俺の家に来てくれた。
夢みたいだった。
バスタオルを渡すと、急いで風呂場に案内する。
影が透き通るユニットバスの扉の向こうで、名前も知らない彼が服を脱いでいるのが見えた。
俺は、最低だ。
彼は泣いていた。何かがあったのは一目瞭然だ。
なのに俺はそんな彼を必死で口説き、家に半ば無理矢理連れ込み、――そして欲情している。
このままの状態で風呂から上がって来られたら、言い訳が出来ない。だからこれは仕方ないことなんだ。
そんな情けない理由を付けて、俺は彼の影を見ながら欲を吐き出した。
風呂場から出た彼が腰にバスタオルを巻いていたので、そういや服も何も用意してなかったと慌てて用意する。
幸い新品の下着が一枚だけ残っていたのでそれを貸すと、全部ぶかぶかな彼が出来上がった。
これはやばい。
頭の中で寿限無を必死で唱え、欲望を抑え込む。それは何とか成功し、マットレスに腰掛けた彼に暖かいお茶を淹れてやると、彼の話を聞き出した。
彼はその日、失恋したばかりだった。聞けば聞くほど、相手は自分勝手な奴だ。
俺が「そんな奴、駄目でよかったよ! 俺ならそんな酷いことしないから!」
そう訴えると、彼は嬉しそうに笑い、――そして綺麗な涙を零した。
そこからの俺は、もう笑っちゃうぐらい必死だった。まずは自己紹介。ここでようやくお互いの名前を知る。
彼はアマミヤ・ミズキと名乗った。
雨。ピッタリだな。そう思ったら、雨宮じゃなくて天宮だと言って笑った口があまりにも可愛くて、気が付いたら吸い付いていた。
驚いた顔の彼を見ながら、俺もミズキだと名乗る。
俺、ゲイだよ。
ミズキは、悲しそうに告げる。
否定されて傷付いたミズキを癒したくて、俺はミズキに伝えた。
「俺はミズキが何でも気にしない。俺を好きになって、ミズキ」
こんなに一瞬で心を奪われたことなんて、これまでなかったから。
懸命に伝えると、ミズキは急に引き始めた。
会ったばかりだ。きっと勘違いしてる。
ノンケなら、俺が男って頭で理解したらきっと引くよ。
じゃあ試してみようよ。そう提案したのは、俺からだ。
スマホで検索しながら、ミズキを押し倒した。
分からないことだらけで、ゲイだって言うから経験あるのかと思ったら男も女もなくて、二人してあたふたしながらどうにかこうにか繋がる。
痛いと泣くミズキを見て、俺は聞いた。
「どれで泣いてるの」
ミズキは答えた。
「全部」と。
どこからどこまでが全部なんだよ。そう聞いたけど、汗を掻きながら辛そうに喘ぐミズキの前に、俺は理由よりも己の欲を優先してしまった。
気を失う様に眠りについたミズキの身体を拭いてやりながら、ミズキは誰と寝たつもりでいたんだろうと疑問を覚える。
告白して酷い振り方をした最低野郎と俺を重ねたのか。ちゃんと俺を見てくれたのか。
涙の理由の全部ってなんだよ。
腕の中で寝る愛しい人の骨格が見た目より男らしくても、喘ぐ声が想像してたより雄でも、それでも俺のものは萎えなかった。
それをちゃんと伝えたら、少しは俺の方を向いてくれるかな。
翌朝、俺の腕の中でミズキが起きる。
どこにいるのか、誰の腕の中にいるのかを疑う様な彷徨う視線。
それが、背後から抱きしめたままの俺を捉えた。
綺麗な涙が、ミズキの目尻から枕に伝う。
俺はどうしても我慢出来なくて、ミズキに身体を押し付けながら尋ねた。
「俺が泣かした? 悲しい?」と。
すると、ミズキは言った。
「馬鹿」
その言い方があまりにも愛おしくて、動く唇を見つめる。
それが、再度言葉を紡いだ。
「ばーか」
俺が目を細めると、ミズキが俺の頬に手を伸ばす。
「昨日までのはまあ……ちょっとは悲しいヤツだったけど」
綺麗な曲線を描く喉が、ごくりと唾を嚥下した。今すぐそこに、吸い付きたい。
「悲しい涙は、もう昨日でサヨナラした。今のはシアワセの涙だぞ」
だから、これからよろしくな、春馬。
そう言われて、俺は涙を流しながらミズキに口付けた。
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