1-3ロヴァの内海
宿は一階が酒場になっているらしく、こんな夜更けでもかなりの数のお客さんがいる。
幸い、バンジョーを奏でる歌手が舞台に立っていたおかげで、私たちに気づいたのはカウンターのバーテンダーだけだった。
「お待たせしました。あいにく二間続きの部屋がお取りできないんですが、2部屋でよろしいですか」
裏口から小走りに先ほどの男が入ってきて、樽のような腹をつっかえながらカウンターに身を乗り出した。
「だそうだが?」
小声で言って、彼はからかうようにニヤッと口の端を上げた。
くやしいけれど、また新しい町へきて大勢の人を見たらザワザワする胸が落ち着いてくれない。返事をする代わりにギュッと彼のベストをつかんだ。
「1部屋でいい。朝まで酒場は開けているんだろう?」
「ええもちろん。良い酒が入っておりますよ」
仕事が終わったら顔を出すと言い残して、二階への階段を上がる。
今日の部屋にはベッドの他にテーブルとイスがあって、壁紙も貼られている。調度品からも前回泊まった宿より高級な感じがした。
立派なカーテンはすでに閉じられていて、これに見合う大きな窓もあるのだろう。
「寝る前に少し何か食べるか。下である程度のものなら作れるはずだ」
イスに降ろされてブーツの紐と格闘していた私は、部屋を出ようとするハンターを見上げた。
「そんな顔をするな、すぐ戻る」
わしゃわしゃと子どもにするように私の頭を撫でて、彼は扉を閉めた。
こんなことではいけないと、私は膝を抱えた。結局前回の宿でだって、彼は私に付き合ってよく眠れていないはずだ。
言葉通り、ひとり反省会が済むより早く、彼は部屋に戻ってきた。
皿2枚とジョッキ2つを、器用に片手に持ってドアを開けたので、あわてて皿を受け取ってテーブルに置く。
「前にエールが平気そうだったから、あんたのも酒にした。飲めるか?」
うなずいて受け取ると、彼はテーブルをベッドの方へ寄せた。ブーツを脱いだ私をベッドに座らせ、自分は椅子に腰かける。
コンと小さく乾杯してエールを飲み、肉と野菜を油で揚げた料理をつまんだ。
「一応聞くが、16まであといくつだ?」
教会の正式な祭りでワインを飲めるのは16歳からだ。
「私の年より、あなたの名前を先に聞いても?」
私の言葉に、ついに来たかとでも言うように彼は目をそらした。
「さんざん色々聞いただろう。どれでも好きなので呼んでくれ」
アーサーに、エリックに、この町ではミハイルだっただろうか。
「そんなにたくさん名前を持っていて不便じゃないんですか?」
「不便より便利が勝つから、使い分けている」
これは本当の名を明かすつもりはないのだなと判断して、私はそれ以上尋ねるのをやめた。そのうち気に入った呼び名を聞いたら私もそれで呼ぼう。
「私は多分、今年18くらいだと思います」
「18っ?」
エールを吹く勢いで彼が身を乗り出す。
「たぶん6つまで産みの親のもとにいて、師匠と10回冬を越して、一人になって2度目の冬が終わったところでしたから、だいたい18歳かと」
「あんたなぁ……」
いい歳のレディがこんな夜中に……と、頭を抱えてブツブツ独り言を言い始めたハンターに、申し訳ない気持ちで頭を下げる。
「森を出てからずっと、ご迷惑をおかけして申し訳ないと思ってます。今日だってあなたが一番疲れてるはずなのに、また一緒に寝てもらおうとか甘ったれたことを……」
「前回は子どもの添い寝だと思ったから付き合ったんだ。もう、男の手を握って寝ていい年じゃないだろう」
ほら、しっかり食え、だから大きくならないんだぞと彼は皿をぐいぐい押し付けてくる。口いっぱいに野菜をつめこんだ私はそれを飲み込むと、決意を固めた。
「分かりました。今日はこの部屋をあなたが使ってください。私、下の酒場で朝まで呑んできます」
「どうしてそうなる! それこそ危機感が無さすぎる!」
食器を持って立とうとした私からジョッキを取り上げて、空っぽだったことに気づいたハンターは「いや、そしてあんた酒も強いな」と呆れたように眉を上げた。
「だって……ぐっすり眠れていないでしょう?」
はぁ、と深くため息をついて、座れと私にジェスチャーする。どのみち足はガクガクだったので、すぐに座り込んだ。
「狩りに出たら半年くらい熟睡しないなんてザラだ。俺の睡眠事情は気にするな」
「健康な体に栄養と睡眠は必要不可欠です。気にします」
ああ、めんどくさいヤツだな、と彼の顔に書いてあるような気がする。
「別に部屋を取ったとしても、ベッドにひっくり返って寝てるわけじゃない。あんたの周辺におかしな気配がないか常時警戒してる。心配するな。それとも俺の腕が信用できないか?」
「いえ、その、心配とか信用とかそういうのは全然アレなんですけど」
自分でも何が言いたいのか全然分からないまま、口を開く。
「ただ、あなたに触れている時は安心で、いなくなると不安なんです」
「……」
完全にハンターが黙ってしまった。静かになった部屋に、かすかにバンジョーの物悲しい曲と、しゃがれた歌声が聞こえてくる。
「これはその、ヒナ鳥がはじめて見たものを親と思い込んでしまうようなもので、たぶん私がそのうち色々慣れる頃には、こんなにあなたにくっついて回ることもなくなるかと……」
しどろもどろの言い訳は、最後の方は自分でも聞き取れないくらい小さな声になった。
「……ビビをヒナ鳥だと思えということだな? いいだろう」
そう言いながらテーブルを元通り部屋の隅に押しやって、手早く食器をひとまとめにしていく。
何だろう、ハンターから今までにないヤケになっている気配を感じる。
「このトシでうろたえるのも格好が悪いからな。さて、ビビよ。寝ようか」
ベストをイスの背にかけて、シャツのボタンをくつろげ終わると、さっさとベッドに横になる。
「えっと……ええ、そうですね。ランプ、消しますね?」
私はいつもの看病ポジションにイスを持ってきて、おそるおそるそこへ座った。
「で、手をここに、だったか」
ぽんと置かれた手に自分の手を重ねるのをためらう。そこに仕掛けられているのが、ウサギを獲るための罠のような気がしてならない。
「どうした? 来ないのか」
どう見ても、この状況を楽しんでいる様子で彼は急かしてくる。
何でだろう、今日は意地悪だ。
意を決してそっと手のひらを重ねると、びっくりするほど手が冷たく、脈も弱い。
「えっ? どうしたんですか」
慌てて首から脈を取ろうと手を伸ばすと、闇の中で薄く彼の灰色の目が光った気がした。
次の瞬間には視界が反転して天井が見え、ぐっと背後から引き寄せられる。
「脈や体温は、ある程度コントロールできる。そんなもの気にしてないで、寝るといい」
耳の後ろから低い声で囁いてくる。
それは、すごい。どうやってやるのか知りたいけど、聞くタイミングが今じゃないことは確かだ。
「あの……先日言った通り、この体勢では眠れません」
「いや、朝まで眠っていただろう」
「あれは結果であって、過程が大事なんです」
どこかを押さえられている感じはしないのに、全く起き上がれない。
「ハンターに重要なのは、いつでも結果だ。大事なのは何だ? 健康でいることなんだろう?」
トン、トン、と彼の指先がリズムを刻み、ゆったりした声がよどみなく言葉を紡ぐ。
「あんたがよく眠ってくれれば、俺も眠れる。常識的にはナシだと思うが、守りながら休むには、これ以上良い方法も無いのは確かだ。そうだろう? ビビ」
トン、トン、トン。
……これは、そうか、私の鼓動と同じ速さの……。
ミャア、ミャアと聞きなれない鳴き声で意識が浮上した。
今日もこの腕を完全に枕にしていた上に、相変わらず脈が取れる場所に手を重ねている。
「男の手を握って寝ていい年じゃないだろう」という苦言を思い出すと、目覚めたとたんに気が重い。
「起きたか」
「……はい」
「あんたはなかなかすごいな。完全に熟睡しているようでも、俺が手を離すと覚醒しそうになる。酒場に行くのは諦めて、久々によく寝た」
本当だろうか。いや、仮に一睡もしていないとしても、ここで横になっていた時間は休養にカウントしていいだろうか。
「だが、宿のオヤジは平気で『ゆうべはお楽しみでしたね』くらい言ってくるからな、覚悟しろよ」
別に楽しいことはなかったが、子どものように添い寝してもらったことがばれたら、恥ずかしくて死にそうだ。
うめいて丸まった私に、ハンターはくつくつと笑った。
「そうだ、さっきから窓の外が騒がしいと思わないか?」
「あ、はい。何の鳴き声でしょうか」
開けてみろと言われて思い切りカーテンを引くと、窓の外にキラキラと光る青が広がっていた。
「これが……もしかして、海ですか」
「そうだ。ロヴァの内海だ」
窓も開くと、白い大型の鳥がミャアと鳴きながら屋根をかすめていく。
「すごい、広い。どこまで続いているんですか」
「酒場に地図があるはずだ。見ながら説明したほうが分かりやすいだろう」
ベストを着て、彼が腰に剣を吊る間に、私はもらった櫛で髪を梳いた。
今日は令嬢らしい方が都合がいいと言われたので、先に部屋を出てもらってワンピースに着替える。
苦労したけど髪にリボンをつける方法は、ついに分からなかったので、再びカバンに押し込んだ。
そっと扉から出ると、彼は廊下の先で腕を組んでうつむいて立っていた。
つま先を窓からの光が照らしていて、均整の取れたしなやかな立ち姿が美しい。
「お待たせしました」
前まで行くと、ちら、と先に視線だけ上げて私を見る。
この足元のスカスカする格好はとても落ち着かないので、無表情でいられるとたちまち部屋に逃げ帰りたくなる。やめてほしい。
「ふり幅がでかくて慣れんな。変装上手と思えば特技のうちか」
何を言われているのか分からなくて首を傾げると、せっかく整えた髪をくしゃくしゃにされた。
「まあいい。ようやくではあるが、この先の旅の話をしようじゃないか」
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