何も知らない癖に
葱苫と
何も知らない癖に
第一話 出会い
高校3年の夏休み。
知らない駅の名前。
知らない町。
知らないカフェ。
通りすがる知らない人の香水に、頭がくらくらする。
制服でここにいる、眼鏡の根暗い自分が写る窓を、この場所に酷く不釣り合いだなと見つめながら、望月伊織は待ち合わせをしていた。
最初の挨拶は、どうしようか。
一人称は、僕のままでいいのだろうか、それとも俺、だろうか。
じわじわと背中が汗ばんでくるのが分かる。
空調は寒いくらいに効いているはずなのに。
自分は緊張しているのだと、嫌でも思いしらされる。それもそうだ。
待ち合う相手は、恋人なのだ。
しかも1日限定の。
ことの発端は、今から1ヶ月前にさかのぼる。
その日の夜、いつものように次の日の予習をし終わった伊織はベッドに身体を横たわらせ、スマホを触っていた。大胆な見出しをつけるネットニュースを斜め読みしながらスクロールしていく。別にこの行為自体は意味のあることではない。伊織はただ眠れない夜の隙間を埋めるためにダラダラとニュースを見るのであった。
今日もまだ、寝れそうにないな。
時刻はもう深夜3時を回っていた。
眠れない日が続いて、どれくらいになるだろう。きちんと寝たという日が思い出せないくらいだ。
眠りにつけるのは日が昇る直前であり、カーテンの隙間から藤色に染まりつつある空を見ながら目を閉じる。寝るとには必ず、言い様のない不安が襲ってくる。眠るといっても、悪夢ばかり見るため、全く脳は休まっていないのだろう。
日中、頭はガンガンと痛み、ここ数週間は顔色が酷く悪いせいで何度も保健室に行かせられた。
そろそろやばいのではないだろうか。
ふと、伊織の中に漠然とした焦りと不安が生まれてきた。
このままでは、いつ自分が倒れても可笑しくない。そういえば最近、小テストの点数も下がってきている。授業の内容も、頭に全く入ってこない。
志望校、受からないかもしれない。
ひっ、と短い悲鳴がもれた。どうしよう。
これまで、こんなことなかったのに。
ニュースを閉じ、すぐさま「夜 眠れない 対処法」と検索した。眠れないのには多くの理由があるらしかった。適度や運動、食事、寝る前にブルーライトを見ない、等まともな理由が挙げられている。徐々にスクロールしていると、伊織は知らないうちにサイトをタップしてしまっていた。
「なんだこれ……」
雰囲気のある黒を基調とした画面に高級感のあるダブルベッドが写し出されている。
どこかのホテルのホームページだろうか。
その中心に、綺麗な光沢のあるロゴの見出しで書かれていた。
『理想の彼氏とベッドでうっとりしませんか?』
「うわあ!」
驚きでうっかりスマホを落としてしまった。
慌てて拾いあげる。よく見ると、上の方に「レンタル彼氏」というロゴが書かれているのが分かった。
レンタル彼氏…。これまで出会ったことのないパワーワードにしばらく思考が停止する。
言葉の意味のままに取れば、彼氏をレンタルするという事なのは分かる。しかし、彼氏は借りるものという概念自体が無かった伊織にとってその言葉は未知の領域であった。
知らない言葉に、何故か心が惹かれた。
ホームページを見ていくと、このサイトは何人もいる男性の中から好みの男性を選び、支払う金額に応じてまるで付き合っているかのような擬似体験ができるというものであった。
顔立ちの整った男性から、どこにでもいそうな顔立ちの男性まで多くの男性の顔写真が載っている。それぞれのシチュエーションに合わせてあるのだろう。一人一人の顔写真の下には、一言ずつ誘い文句のような言葉が乗せられていた。
「とびきり優しくしてあげる」
「エスコートで君は1日プリンセス」
歯の浮くような甘いセリフの中で、あるセリフが伊織の目に止まった。
「眠れない?一緒に寝ようよ」
金髪姿の肩まで伸びた髪。気だるげな目。
にっと歪んだ口元。年は自分より一回りくらい上だろうか。よく見ると、耳だけでなく唇の下にもピアスが着いている。伊織がこれまで関わってこなかったタイプの人間だ。名前はカタカナでミヒロ、と書かれていた。
さっきから鼓動が早まっている。自分は男であるのに。一緒に寝てくれる、なんていう誘い文句に、夜眠る前に襲われる不安が無くなるかもしれないという期待が勝手に膨らんでいく。
高校生であるのにレンタルするなんて流石に駄目だろう。でも、でもはやく。はやく、この状態から抜け出したかった。
深夜だからだろう。伊織は勢いのままにレンタルボタンをクリックしていた。
そして今に至る。
後日分かったが、ミヒロさんは人気のレンタル彼氏のようで予約は1ヶ月先でしか取れなかった。今さらながら、同姓でレンタルするなんて、しかも恋人ごっこではなくただ一緒に寝てほしいというだけでレンタルするなんて。あの時の自分を今日まで何度も恨んだ。
数日前に場所と時間を指定され、自分は住んでいた田舎町から何度も電車を乗り換えて知らない町にいる。なんだか、これは夢であるのではないか。そんな錯覚に囚われつつあった。
集合時間は15時。どれも高いメニュー表の中で一番安いという理由だけで頼んだ冷たいブラックコーヒーは、自分にはまだまだ苦く、飲めないまま氷が溶けてしまいそうになっている。本当に良かったのだろうか。
彼は、来るのだろうか。
ぐるぐるぐるぐる、腕時計の針が小刻みに音をたてる度に不安が募る。
怪しいサイトだったし、騙されたのかもしれない。
そう思いかけていた瞬間、彼は来た。
すらりと伸びた背。
緩く結んである金髪。
なによりも、あの写真と同じ、気だるげな目。
どこかのモデルのような格好をしている彼は伊織の顔を見ると、一瞬変な顔をした。
なんだか、泣きそうなような。気だるくしていた瞳が、一瞬だけ見開いた。
しかし、それは気のせいだったらしい。つかつかと近寄ってくると、伊織の前でにこりと微笑んだ。
「君が今日のお客様?ミヒロです、今日はよろしくね」
そのまま伊織の手を取る。
「はっ、はい」
ひっ、と叫びたくなるのを堪えて、伊織はそろそろとミヒロさんの手を離した。
これから1日、どうなってしまうのだろうか。
伊織の頭はまた、ぐるぐると悩ましく回っているのだった。
何も知らない癖に 葱苫と @shiokarajk
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