第30話 旅立ち
朝陽は耳をすませた。晃太朗がドアを開けるまで、残り五秒前。すりガラスにトレードマークの前髪が映った。
「松田先輩、お疲れさまです」
緊張を飲み込み、朝陽は微笑する。
「何で難波がおふくろの隣に座っているんだ?」
ほのかとこたつで暖を取っていた。小夜を介して、朝陽はほのかに協力を要請したのだ。
「どうしてって、晃くんユニファ行くんでしょ? 事前に教えておいてくれたら、おみやげの目星を倫太朗さんと一緒につけていたのに」
ユニファとは、大阪にあるテーマパークだ。仲直りデートに行くならこの場所だと、前に晃太朗が挙げてくれた。
「大阪? そんなの、前もって言ってくれないと予定が……」
「昔と違って、近隣のテーマパークは福岡や岡山にないでしょ。出かけ前にぐだぐだ言うのやめなさい。みっともない」
大阪みやげの口になっているほのかは、晃太朗の反論を遮った。近場はまだ倉敷にあるが、話がややこしくなるため朝陽はスルーする。
「そうですよ、先輩。ささっとお風呂に入って来てくださいよ。朝陽達はもう準備できていますから」
「達?」
「さよちんと、うちらでダブルデートするってこと。ユニファのチケットはお金もらっているんで、行かないと損ですよ」
逃げ道は塞いだ。小夜から距離を取るのはもう許されない。
朝陽はスマホを開き、下書きのメッセージを送信した。ほどなくして、外に待機させていた正吾が入ってくる。
「こんばんは、晃太朗さん。ドライバーを務めさせていただきます、白濱正吾と申します。安全運転で大阪広島間を走行いたします」
「しょーご、営業時間は終わってるよ。まじめか」
「愚息のためにわざわざ年休を使ってくださったんですよねぇ。お口に合うかどうか分かりませんが、おでんを食べて行かれます? 晩ご飯がお済みなら、タッパーに入れてお夜食にいかが?」
「お心遣い痛み入ります」
「じゃあ、朝陽ちゃんの分もよそってあげるわ。晃、早く準備しなさい。一泊二日なんだから、着替えも考えて」
抵抗することなく、晃太朗は着替えを取りに行った。あらかじめ決めていたのか、時間はそれほどかからなかった。
ほどけた糸こんにゃくを食べていると、絹を切り裂くような叫び声が聞こえた。むせながら立ち上がろうとした朝陽を、ほのかが制止する。
「あれは小夜ちゃんじゃないわ。愚息の声よ」
「さよちん、マジで全裸待機してたんだ」
誰もいない浴室に、別れたと思い込んでいた恋人が湯船に浸かっていれば、晃太朗でなくでも驚くはずだ。ドアを叩く音は、脱出を試みる野生の本能だろう。
いつしか音は聞こえなくなり、締めの雑炊を食べ終わっても二人は出てこなかった。
長らく動かなかった戸をこじ開けたのは、爪先まで赤くなった晃太朗だった。
「小夜も、髪を乾かすの手伝って。強風にしても全然乾きそうにないよ」
晃太朗はこたつに小夜を入れ、長い髪をドライヤーで乾かし始めた。
目を離したのはわずかな時間だが、小夜の顔はさらに潤いが増したように見える。どことなく上の空だった。互いの唇を塞ぎながら、何度も気持ちを確かめ合ったに違いない。
相談の時間は与えられていなかったはずなのに、二人とも白と黒のチェックシャツを着ている。ズボンのデザインは違うものの、デニム生地は一致していた。ここまで揃うと、仲介人として張り切った朝陽が道化に思えてくる。
「旅のお供に花札を持ってく? トランプの方がいいかしら?」
ほのかは、ウェットシートやら折りたたみ傘やら、旅行の必需品をこたつの上に並べ始めた。
「トランプを借りていいですか? 修学旅行っぽくて楽しそう!」
朝陽の声に、ぼんやりしていた小夜が反応する。
「景品は持ってきたよ」
ビニール袋の中からアドベントカレンダーが顔を出した。
「勝者は好きな番号のお菓子が食べられます」
「まだ開けずに取っていたの? 食べてよかったのに」
朝陽と晃太朗は驚いた。小夜は晃太朗の頬をつまむ。
「誰のせい?」
「ごめんなさい」
晃太朗はドライヤーを止め、深々と頭を下げた。
「一歩前進だな」
正吾の言葉に、朝陽は頷く。険悪な雰囲気と言うより、凝り固まった遠慮が消えていた。
「安心はできないけどね」
破局へ向かわせる力が、いつ再発するか分からない。姫君と王子のお目付け役が必要だ。
二十一日の夜、恋人たちを乗せたカボチャの馬車が旅立った。
翌日は、もともと四年生向けの必修科目がない。昼に起きてしまう習慣が抜けず、朝陽は目をしょぼつかせていた。
ドアとともにカーテンが開かれる。
「朝陽、そろそろ起きて。顔を洗ったり、ご飯食べたりしようよ」
「寝袋から出れる気がせん」
朝陽は少しだけ顔を出した。着たまま動ける寝袋を買っておけばよかった。
隣の小夜は、晃太朗と頬をくっつけるように添い寝していた。寝顔を見ていると、良心が痛む。
なおも動かない朝陽の代わりに、御者が行動に出る。寝袋を剥ぐと、三人を外に追い出した。
「西宮名塩?」
サービスエリアの名前を読み上げた小夜に、朝陽は首を傾げた。
「……って、どこなん?」
「兵庫県。休憩地点にはちょうどいい」
正吾は肩を回した。運転席で仮眠を取っていたようだ。
明けゆく空に、紫がかった紅色の帯が放り投げられる。水に濡らした色が鮮やかに浮かび上がるように、青と重なるところは光り輝いた。
「今日は縁結び日和だね。しょーごの晴男も、いい仕事してんじゃん」
指で四角の形を作った朝陽は、にししと声を響かせた。
〈第3章 縁結びはつとめて/了〉
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