第29話 守りたい笑顔
布団を汚さないようにしても、蜂蜜の香りは染みついていた。液体のりが指にまとわりついたような不快感はない。肌ざわりが気にならないという謳い文句の通りだ。
朝陽は、物干し竿から布団を引き寄せようとした。
ジーンズのポケットに入れていたスマホが、小鳥のさえずりのように音を立てる。発信者の声が聞こえるよりも先に、朝陽は思いの丈をぶつけた。
「さよちん、心配したんだよ」
目の前にいたら、朝陽は小夜の肩を揺さぶっていた。
「今朝も既読はつかないし、電話も繋がらないし。どこかで投身自殺を図っていないか、まじめに心配したんだから」
『入水はともかく、投身自殺って』
太宰じゃあるまいし。小夜は吹き出した。
お母さんはまだ話しているのに、どうして笑えるのよ。激おこなんだから。
「こら! まだお説教の途中なんですけど」
なぜ分からないの。嫌いな先生の口癖を言ったが、思ったよりも厳しい声が出なかった。
『ごめんね、朝陽ちゃん』
「いいの。可愛いから許す!」
許さないのは朔磨だけだ。
上機嫌な朝陽の顔を、ガラス越しに正吾が見つめた。手伝わなくて大丈夫と手でサインを送り、通話をスピーカーに切り替える。デッキチェアにスマホを置き、布団を部屋に取り込んだ。
『朝陽ちゃんに相談があるんだけど、五分だけ時間をくれる?』
「うちは長引いてもノープロブレム! 相談料も気にしないで!」
朝陽は秘密厳守を約束し、スピーカーを解除した。
『ありがとう。あのね。朝陽ちゃんだったら、悩みを聞いてもらったお礼に何を渡す?』
「さよちんに見返りを求めるなんて図々しい。感謝の気持ちだけあれば十分じゃない?」
お悩み相談窓口の役目は果たした。そう思っていた朝陽の足元に、黄色いふせんが貼られる。アイロンが終わり、手が空いたようだ。
「あー。やっぱ詳しく教えて。さよちんが悩みを聞いてもらったのは先生? それとも友達?」
朝陽は尋ねた。書かれているままに。
『えっと……とも、だ、ち、かな? 前はよく話していたんだけど、気まずい期間があって……昨日まで疎遠になっていたんだ』
ふせんで指示が再び出される。
「さよちんは、前みたいに仲よくなりたい? それとも、つかず離れずの距離でいたい?」
ややあって返事があった。
『前みたいに、仲よくなれたらいいな……』
ふわんとした空気の流れを感じた。ビデオ通話ではないため分からないが、恋愛イベントの迫っている匂いがした。
正吾も興奮しているらしく、シャーペンをすさまじい勢いで動かしていた。
姉妹愛? よいではないか、よいではないか! 私はさよちんを応援するよ!
差し出されたふせんに、朝陽は呆れた。彼女を通して、何を言わせようとしているのか。
「きっと仲よくなれるって! 離れていても、心は繋がっているしね!」
『そうだよね。朝陽ちゃん、私、頑張るよ!』
目の前にいたら、朝陽は小夜を抱きしめていた。持ち上げたくなるテディベアのような瞳が、庇護欲をくすぐった。自信なげな言い方も、朝陽をときめかせた。
「朝陽ちゃん。あのね」
一月も経たないうちに、小夜は朝陽に報告した。舌足らずな話し方に顔をほころばせていると、思わぬ衝撃を受けた。
「付き合うことになりました」
「ふぁっ? 付き合うって、恋人同士になったってこと? 誰が誰と?」
「私が幼なじみと」
好きな少女漫画が実写化された気分だ。
小夜と晃太朗をくっつけたのは、正吾のアシストが少なからず影響している気がした。約束してしまった手前、自分の彼氏を自慢できないのがもどかしい。
「両思いになったのは最近だけど、ずっと前から好きだったよ。私も、その人も」
「誰? さよちんが選んだ人は」
自分のことしか考えていないような人だったら、惑わされてしまった小夜の目を覚ますつもりだ。
「松田晃太朗先輩」
「うちらの一個上だっけ」
直接話したことはないが、ボリュームのある前髪が印象的な人だった。
最も古い記憶から説明する小夜の顔は、こたつで丸くなる猫のように幸せそうな笑みをたたえていた。
話を聞く限り、相思相愛以外の答えは見つからなかった。溺愛ルートに進む未来を確信した朝陽の頭に、警告音は鳴らなかった。聞こえてさえいれば、最大のイベント直前になって第三者が焦る事態とは至らなかったはずだ。
傷心した小夜を慰めて、日が九回落ちた。時間が過ぎるほど、綻びの修復が難しくなっていった。クリスマスの予定は二人とも空けているのに、謝罪の一言になると弱気が芽生えてしまうのか。
朝陽は小夜とのビデオ通話を切った。
「さよちんの希望は聞き出せたから、少しは前進したと思いたい! 最高のクリスマスにするために、どんな演出にすればいいかな? 神戸ルミナリエでクリスマスデート? ホテルのクリスマスディナーも思い出に残りそうだよね! でも、縁結びを大事にしたいんだったら出雲大社もありかも?」
キューピッドの恋の矢では、効き目が弱い。大国主大神の加護が必要なときかもしれない。
朝陽は我に返る。いつの間に、バスツアーの申し込みフォームを開いているのだ。
「勝手にチケット取っちゃってもいいの? 朝陽達と違って、旅行の計画なーんにも考えていないんだよ?」
だまし討ちみたいな方法は好きではないが、仲介人としては手段を選んではいられない。クリスマスイブまであと二週間を切っているのだ。キャンセルの空きを狙うのなら、決断は早い方がいい。
正吾から羊の絵文字が送られてきた。慣れないことをして不眠症を引き起こしていないか、心配してくれたようだ。
「しょーご。なる早で相談したいことがあるんだけど、朝陽にどれくらいの時間を費やせる? 一生? 照れるじゃん。もぉー!」
できれば晃太朗が小夜にかけてほしい言葉だ。コーヒーカップよろしく回転させた朝陽は、胸やけと吐き気にうめくのだった。
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