第28話 不器用な気遣い
『何とか定時で終わらせた』
一日延期されても、デートの誘いは嬉しい。
駅の改札前で待っていた朝陽は、黒いコートに後ずさりした。
「不審者だー!」
「誤解されるからやめなさい」
正吾は、朝陽の口元を人差し指で押さえた。ラム革の手袋が柔らかい。
「どしたん。今日は積極的だね。唇同士で触れ合わなくていいの?」
「一ヶ月ぶりだ。少しは密着していたい」
「イルミを見た後で、もっと密着しようね」
夜風で冷えた体を、精液果てるまで温めてあげよう。
カイを探すゲルダのように、二人は雪の女王の城をくまなく歩いた。オーロラに照らされた氷の壁は厚く、頬を寄せ合う恋人達が集まっても溶けそうになかった。地面に突き刺さった雪の巨大な結晶やシロクマの大群に、朝陽は両手に息をこぼした。
「コンビニでホットの飲み物を買って来ようか?」
「寒くはないのよ。冷やし中華なのに冷まそうとしちゃう逆パターンって、思ってくれればいいよ。脳が勝手に思い込んじゃうの。実際はそうじゃないのにね」
正吾は朝陽の手を握り、コートのポケットに潜り込ませた。手の平を三回こすられ、言おうとしていることを理解した。
「ツーショ、まだ撮ってないじゃん? あそこのベンチがフォトスポットっぽいから、今日の記念に撮っとこうよ」
正吾が口を開く前に、近くにいた男が彼女の提案を断っていた。
「えー? 記念写真とかだっる。寒いし、もう帰ろうよー」
そういうことは、思っていても恋人の前では言わないでもらいたい。朝陽は大げさに溜息をついた。
「しょーごってば、つれないなー。明日は休日なんでしょ? 少しくらい寝るのが遅くなってもいいじゃん」
「自分は何も話していない。からかうのはやめてほしい」
やめてほしいと言ったときの心細そうな感じがいとしい。言い過ぎたことを謝りつつも、正吾をからかうことはやめられないと思った。並んでいるときも、握っている手の平をくすぐった。
次の人にインスタントカメラの使い方を教えた朝陽は、正吾の隣に腰を下ろそうとした。
「これ何?」
正方形に折りたたまれた正吾のマフラーが、ベンチに置かれている。
「寒くないように、座布団として使って」
「あんたは主君に取り入る秀吉か!」
朝陽のツッコミに、行列が沸いた。
好意をむげにすることはできない。朝陽はマフラーの上に座り、コートのリボンを整えた。
「すごっ! 撮ったやつが、もうできてるんだけど! 写りもよさげだし」
臨時カメラマンの驚きように、朝陽は得意げになった。
シャッターを切ると、すぐに印刷される。インスタントカメラにもセルフタイマー、オートフォーカス、明るさ調節などの充実した機能がある。
「自慢のカメラを褒めてもらえてよかったな」
正吾の囁きに、朝陽は今日一番の笑顔を作った。
撮ってもらった写真を見ながら、スキップしそうな勢いで歓楽街へ足を踏み入れる。
「そろそろ目的地に着く」
「ナビありがとね。しょ……」
写真をリュックに片づけようとした朝陽は、立ち止まった先で朔磨を見つけた。彼が連れている人物が小夜であったなら、親友に恥をかかせないために回れ右をした。朝陽の瞳が月華を捉えた。自らのインスタントカメラが被写体のピントを合わせるように、目を背けることはできなかった。
立ち尽くし、電話しては慌てふためく朝陽のそばを、正吾は無言のまま離れなかった。冷静さを取り戻すまで。
朝陽は、スーツの下で張り詰める塊のことを思い出した。
そう言えば、ずっと待ってもらっていたんだっけ。主不在の城を探索していたときからずっと。
待ちきれなくなった犬はよだれを流すが、正吾の唇は真一文字に結ばれていた。
「行こ。寒い中、立ちっぱなしにさせちゃったね」
話しかけてすぐに、言葉の選択を間違えたかもしれないと思った。咳き込む正吾に、朝陽は頭を掻く。
「朝陽、今日はやめよう」
「どうして?」
休憩できる場所は目と鼻の先だ。
「そういう気分じゃなさそうだから。本当は、同じ場所で泊まりたくないはず」
「でも、せっかく着替え持って来たのに」
厳密にいえば、わざわざ持って来てはいない。昨日の荷物は入れっぱなしにしていた。
「うちに来ればいいだろ」
「しょーごのところまで、バスで何分かかると思ってんの? そんなハードプレイはさせたくないよ」
「問題があるのか」
あるわ。なしよりのありなんて、言葉を濁す必要は皆無だ。
朝陽の気遣いは、なぜか伝わらなかった。
「念のため、掃除をしておいた」
「違う。そうじゃない」
どこぞの彼氏と同じで、愛情が一方通行になっている。
物がない正吾の部屋では、異臭や虫の心配は起きない。一週間に一度しか洗えない布団も、毎晩欠かさず布団乾燥機を使っている。同じ布団で寝ることの抵抗はなかった。
「無理しなくていい。壁が薄いから、声は我慢してもらわないといけないけど。どうしてもホテルがよかったら、ほかのところの空き情報を確認するか?」
「そこまでするのダルい。しょーごの部屋にしよ」
スーツにシミがつかないか心もとないものの、正吾が問題ないと言えば支障はあるまい。バスの振動に負けてしまったときは、コートのボタンを閉めればいいだけだ。
予定にない行動をとったが、一日中お家デートも久しぶりだ。明日も、とことん甘やかそうかな。
朝陽は正吾と腕を組み、バス停を探す。友達が浮気された場所でセックスするのは、骨身に応えた。
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