第27話 分岐点

「そのマスクどしたん? 風邪引きさんは登校しちゃ駄目じゃん」

「今度の土曜日に松屋先輩が模試を受けるから、私も感染対策しとこうと思って」


 意識が高すぎる。この彼女、健気すぎんか。

 しんどみと溜息をつく朝陽に、月華はアイシングバッグをさらに押しつける。持つべきものは親友だ。


 微笑ましく思ったのも束の間、数日後には松屋と別れたことを告げられた。悲しみも憎しみも感じさせない瞳で、唇には笑みを残していた。


「校内の話題、私が独り占めしちゃった」


 次の授業は自習になったよ。そう伝えたときの声色と一致していた。

 他校からも告白される人気女子がフリーになった。その重大さを理解しているとは思えない。昼休みから告白ラッシュが続き、自分の時間が大幅に削られそうだ。宿題をする暇がないのは、朝陽にとって死活問題でしかない。


「朝陽が別れる前から、好きな気持ちは少なくなっていたんだよね。変な気遣いはしなくていいよ」


 名前も知らない相手への恋を、月華は応援してくれた。スーツと出会った場所に朝陽は何度も足を運び、手がかりを追い求めた。



 ■□■□



 バイト先の服はかっこよくて、規定通り着こなしていた。カラコンとアイメイクは最低限の身だしなみだ。朝陽はキッチン担当ではないが、髪は一つに結んでいた。

 注文やレジ打ちのほか、配膳も担っていた。ご褒美ケーキに髪の毛がついていれば、お客さんの幸せな気持ちがしぼんでしまう。スイーツを頬張る笑顔も、短時間でも夕方から入れるシフトも最高だ。


 カフェを選んだ理由は、メニューの大部分がカタカナだからだ。必修科目の世界史の授業は、一学期も終わらないうちに苦痛を感じていた。

 中国史はともかく、オスマン帝国、フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、ロシアなどの用語は容量を超えていた。似たような名前、各国で結ばれる条約、世界地図を埋め尽くす重要都市。期末試験の範囲は鬼だと思った。必勝法がなければ赤点を取っていた。


 朝陽が心がけたのは、苦手意識をなくすことだった。バイト先で覚えるカタカナを、国ごとのコラボメニューと思い込ませた。


 パプリカハムレタスのクロワッサンサンドは、近親交配で子孫がしゃくれてしまったハプスブルク家のイメージだ。パプリカを見ただけで、フェルディナント一世やウェストファリア条約を思い出すことができるようになった。


 メニュー表から顔を上げた青年を見つけ、朝陽はオーダーを取りに行った。


「ご注文はお決まりでしょうか?」

「エスプレッソを一つください」

「かしこまりました。エスプレッソですね。ホットとアイス、どちらになさいますか?」

「ホットで」


 エンリケ航海王子と書かないよう、気をつけながら伝票に記した。


 復唱のときに青年の瞳を見つめると、かつてナンパから助けてくれたスーツだと気づいた。あの日とは違い、平日に着ているものはパーカーだった。


 仕事ができる人って、ブラックコーヒーをいつも飲んでいる訳じゃないんだ。勝手なイメージを持っていた自分が恥ずかしくなる。


 キッチン担当から受け取ったカップを、朝陽は震えないように運んだ。ラテアートのリーフが崩れて、いびつなハートマークになりませんように。


 青年の横に置かれた、不織布のバッグに目が留まる。

 見覚えのあるロゴは、有名私立大学のものだった。朝陽には縁がない。先月の模試の結果は、一番下のD判定だった。


「そのバッグのロゴ、見覚えがあります。県内で一番の偏差値でしたよね」


 青年は、朝陽に初めて興味を持ったようだった。


「うちの大学に興味がある? それなら今週末のオープンキャンパスに行ってみるといい。体験授業が毎回違うから、事前に調べておくのがおすすめ」

「記述模試がD判定なんですよ? さすがに二年で偏差値七十まで引き上げるのは、不可能に近いというか。そもそも暗記が得意じゃないんです。生物も世界史。授業についていくだけでしんどいし。合格圏内うんぬんより、初歩的なところでつまづいているんですよ」


 勉強は嫌いだ。授業では、なぜ分からないのかと罵倒される。数学も物理も英語も。


「すみません。こんな話を聞かされても、困ってしまいますよね」

「年号を一生懸命覚える必要はない。大事なのは、順番と過程だ。リード文に下線を引きながら解くと、早とちりがなくなる。受験対策で使っていたノートとか参考書、よかったらあげようか? 白濱しらはま正吾って名前が気にならなければ」


 捨てる前に、もらってくれる人が見つかってよかった。

 安堵する青年の目元にしわができる。

 朝陽のバイトが終わってから、正吾のアパートに寄った。社会人として働いている兄も、似たような間取りを借りていた。

 一人暮らし用の冷蔵庫は、来客用の飲み物どころか一週間分の食材も入っていなかった。おもてなしできなくてすまないと謝る正吾に、朝陽は朗らかな声を出した。


「正吾先輩の大学に、絶対行きます! 譲ってくださり、ありがとうございました。お願いがあるんですけど、朝陽に勉強を教えてくれませんか? 代わりにご飯をご馳走するんで、先生をしてほしいです!」

「先生? 自分が?」


 困惑よりも、嬉しさの色が強く出ていた。


「正吾先輩じゃないと頼めないです。人助けだと思って、お願いします!」 


 正吾は感情豊かではない。沈黙が続いても吹き出したり、居心地の悪そうな顔をしたりしない。朝陽ばかり話してしまう。だが、朝陽は正吾と過ごすことが楽しくなった。


 キーケース、定期入れ、化粧ポーチ。歴代彼氏との思い出の品を、全部捨てる覚悟ができた。


 高校一年生の正月から付き合い始め、それから五年の月日が流れた。



 ■□■□



 正吾はフラグを立てる。


『昨日は残業だったけど、今日は早くなるはず』


 そう言った日に限って、上司に目を付けられる。


『昨日の分も埋め合わせをする』


 あいかわらず、彼女に送る文面ではない。


「業務連絡みたいで硬いなぁ。顔文字の一つくらい使えばいいのに。減るもんじゃないし」


 ジェットコースターで正吾の涼しい顔を壊してあげたい。


 廊下を歩いていると、見慣れた後ろ姿を見つけた。

 一気に加速して抱きつきたい。戸惑いと安堵を混ぜた表情は、世界で一番あどけなかった。

 小夜、私の友達。

 あの子には、何が何でも幸せになってほしいのだ。


 小夜に声をかけようとしたとき、月華とすれ違った。

 一人称が「私」から「僕」に変わり、交友関係も一新された。大学に入ってからも、よくない噂が絶えなかった。煙草や薬物に依存しているという内容ではない。どれも、他人の男ばかりに手を出すことが共通していた。

 朝陽は噂を耳にしていながら、真相を月華に問いただすことはしなかった。親友を疑う瞬間は、一度たりともない。揺るぎない信頼を吟味することは、親友失格だと思っていた。


 あのとき、月華のプライベートに踏み込んでいれば。小夜の世話ばかり焼いていなければ。


 そう後悔しても、もう遅い。

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