第26話 あの日の夜

 見たくないものを見てしまった。小夜と朔磨が別れた二日後に。


 朝陽が入ろうとしたラブホテルから、月華が出てきた。朔磨の腕をしっかりと掴んだまま。


 青白い肌、浮世離れした立ち振る舞い。吸血鬼を思わせる妖艶な笑みに、落ちた男は数知れない。朝陽とバイト以外で会うときは、必ず男を連れていた。ついた呼び名が、冬の魔女。

 忌み嫌われる月華のことを、自業自得とは笑えなかった。一応、小学校からの親友だ。朝陽はそう信じていた。


 目の前で影が一つに重なり、朔磨のバッジが音を立てる。はにわ展に行ったときに、朔磨とおそろいを買ったと話していた。小夜の笑顔が朝陽の胸を苦しめる。

 朝陽の視線を二人は気づかなかった。再び手を繋ぎ、反対方向へ歩いていく。曲がり角に消えるまで、朝陽は動けなかった。


「朝陽?」


 正吾が朝陽の手を包んだ。彼氏の温もりは安心する。やるべきことを思い出させてくれた。

 朔磨の浮気を小夜が知っているか、確認しなければ。スマホをタップし、小夜との電話を繋げた。


「朔磨くん、うちのバイト先の子とキスしてた」


 事実を簡潔に伝えた。回りくどい言い方では、混乱を招くと思った。だが、却って逆効果になった。


「や、ややややばいって。どうしよう。どーしよー!」


 電話が切られた後、朝陽はスマホを手離せずにいた。朔磨が浮気していた事実を、小夜はどこか他人事のように聞いていた。

 朝陽は後悔した。電話なんかじゃなくて、直接伝えるべきだった。


「さよちんの命が危ないよ! 歩道橋から身を投げたり、食欲なくして餓死したりしないよね?」

「落ち着け。朝陽」


 正吾が肩をとんとんと叩く。

 イルミネーションを見ていたときには手繋ぎすらしてくれなかったのに。不安で心細いときは、必ず寄り添ってくれる。


「でも、あんなさよちん見たの、一度もないんだよ? 心配だよ」

「友達に泣き声を聞かせたくない人もいる。だから、今は心を落ち着かせる時期にさせてあげるべきだ」

 

 淡々と話す正吾の声は、熱くなった頭を冷やしてくれた。それでも不満は解けない。夜の街に朝陽の絶叫がこだまする。


「さよちんと恋バナできて嬉しかったのに! 朝陽の生きがいを返して!」


 小夜だから怒りたくなる。ほかの友達なら、ここまで強い語気にはならない。寝取られる悲しみを小夜に感じてほしくなかった。

 黒に見える人ほど、実は無実でしたっていうオチ。推理小説とかドラマだけじゃなかったの。

 月華の名を心の中で呼んだ。親友の大切なものだって、分かっていたはずだよね。寝取ってんじゃねーし。マジありえんてぃ。


「今の話し方は久しぶりに聞いた。懐かしい」

「そマ? 油断したし。しょーごといるときは、意味不明にならんよう頑張ってたのに」


 いつの間に呟いていたんだろう。朝陽は口元を抑えた。

 だいぶ綺麗な日本語を話せる方になったと思っていた。



 ■□■□



 朝陽の名とは対照的に、朝が苦手だった。眩しい光も、二つ畳まれた布団も好きではなかった。


 高校一年生のときは、人恋しさを紛らわせるためにバイト終わりの夜の街をふらふらしていた。日焼けした肌に、白のニーハイソックスが映えた。ブレザーのリボンをゆるめに付け、イミテーションのネックレスを目立たせていた。当時、付き合っていた同級生からもらった、初めてのプレゼントだった。あのころは、本物のダイヤよりも輝いて見えた。たとえ三千円にも満たない安物だと、分かっていても。


 寮住まいの彼氏は部活に明け暮れ、電話できるのは九時以降の十分間だけだった。二時間以上もある事実に、朝陽はげんなりする。月華のシフトが合えば、一緒にご飯へ行けたのに。


 空腹を感じ始めた朝陽は、喉を鳴らした。味気のないチューインガムを流し込む。栄養はないと知っていても、貧乏性は抜けない。


「今の、おねーさんのお腹の音?」

「僕らとご飯食べない?」


 僕ら、というフレーズが浮いている。ナンパに手慣れていない新成人か。バイト終わりのカラコンは、テメーらのためにつけている訳じゃないっての。


 朝陽が断ろうとすると、視界をスーツが横切った。


「どこを見て歩いてるんだよ!」


 朝陽に絡んでいた男の肩と、ビジネスバッグが当たった。スーツと同じく、つや感のある黒色だ。

 声を荒らげた男達に、スーツが振り向く。眉間のしわは深く刻まれ、頬骨もしっかりしていた。眼力の強さに朝陽もたじろいだ。


「すみませんでした!」


 男達は体の向きを変え、走り去っていった。


「レベチか。瞬殺とかパないって。助けてくれてマジ感謝だわ」

「俺は何もしていない。勝手に謝罪して行っただけだ」


 スーツの表情筋は仕事をしていなかった。就業時間を過ぎれば、営業スマイルはできなくなるのかもしれない。そう考えると、無性におかしくなる。


「ねぇ、晩ご飯食べた? よかったら、うちと……」


 友達とご飯に行く感覚で、朝陽はスーツを誘った。

 

「電車が三分後に来る。時間は空いていない」


 留守番電話の機械音のように、必要最低限だけ伝えた。


 どんだけ愛想ないんよ。取り残された朝陽は、笑い声を上げた。

 無表情キャラの攻略は得意だ。選択肢の間違いようがない。あのスーツの素を暴けば、どんなスチル画像が拝めるのか。乙女ゲーマーの血が騒いだ。


 携帯電話の履歴に気づいたのは、それから二時間後のことだった。いつもなら両手にラインストーンでデコった表面の跡ができるのに、トートバッグに入れっぱなしでいた。


 ひーちゃんが電話に出てくれないから眠れないよ。

 彼氏のメールに、朝陽は嫌悪感を抱いた。


「は? テメーの都合に、こっちは毎日付き合わされてんの。『ちゅきちゅきぃ。早く学校で会いたいよぉ』なんて二ヶ月も言わせられた、朝陽の精神的苦痛を考えたことないよね。このかまってくんめ。だいたい付き合って一週間記念に、ネックレスとか重すぎっしょ。もらったときは言わなかったけど、ボールチェーンださすぎるわ」


 告白されたときは嬉しかったが、束縛されてしまうと冷めてしまう。振り回したい側は、相手の要求に合わせることが向いていないのかもしれない。




「朝陽。あんたの顔ウケんだけど。笑わせないで。ファンデ崩れる」

「ひどくね? 別れ際のビンタから逃げなかったんだから、褒めるところでしょ」


 朝陽は頬を抑えながら、予鈴がなるのを待っていた。

 別れたくないとしがみつく元カレを、朝陽は優しく振りほどこうとした。それを元カレが怒り、本気の一発をくらうことになった。柔道部の平手ほど、最悪な修羅場はない。鼓膜が破れたらと思い、恐ろしくなる。


「あんたさぁ。馬鹿正直もいいところよ。あたしだったら、別れた理由をストレートに言ってやんないわ。とりま、他クラスに感謝しとけ。同じ教室でギスるのは、マジでメーワク」

「『イケメンで未来のエースってとこに惹かれただけ』って、思ったことを言っただけなんだけどな。朝陽の思考回路が単純すぎたか」


 朝陽は出席簿を記入する担任に視線を向けた。さっさと確認して、休み時間の許可を出してほしい。月華が休むと、英文の添削をしてくれる人がいない。違うクラスに行って、予習ノートを見せに行きたい。三時間目までに間に合わせないと、書き写す英単語が増えてしまう。


「おはようございます」


 堂々と教室に入ってきたのは月華だ。八時二十五分を過ぎているのに、遅刻という認識が抜け落ちているらしい。


「おそよう。月華」


 月華は挨拶もそこそこに、アイシングバッグを朝陽の頬に当てる。


「あひゃひゃ。月華、冷たいって」

「誰が冷たい人間よ。保健委員としてクラスメイトの治療をしているんだから、文句を言わないでくれる?」

「ツンデレごちそうさまです。合掌」

「思ったより元気そうね。ビンタされたって聞いたから、先生に言って保健室まで走ったのに。無駄足だったわ」

 

 クールに見える黒マスクは、ちっとも怖く見えなかった。

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