第4章 兄心は日増しに
第31話 運転手の朝
年下だろうが、何でも意見する朝陽が好きだ。友達の彼氏に対しても、気後れすることがない。ましてや割り込みしてきたカップルでさえも。
「並んでいたの、うちらの方が先だから。しれっと割り込まれると、後ろの人も迷惑なんだけど。お連れ様も、一番後ろに並び直していただけます?」
低い声に正吾はどきりとした。腹を好かせた猛獣は機嫌が悪くなる。自分に怒っていないと理解していても、本能的に身構えてしまった。加えて、朝陽が身につけている紺の上着は、チンピラを彷彿とさせる花柄模様だった。
割り込んでいた二人は、うるせぇなぁと呟きながら最後尾に向かう。人としての常識はわずかに残っていたらしい。
「怖かったよー! 朝陽ちゃん、すごいね。私なら絶対泣き寝入りしてたよ」
「通路があるから避けてるのに、見て見ぬふりするとかマジでないわ。正吾も嫌だったでしょ。顔を見たらすぐに分かっちゃった」
「仏頂面のどこを見たら読み取れるんだ?」
急に話を振られ、正吾は反応が遅れた。朝陽は小夜の折れた襟を整え、ほつれた髪を耳にかけてあげていた。
「尊い」
正吾は口を抑える。いかん、心の声がストレートに出ていた。声を殺せ。普段通り、壁になりきれ。
「ずっと見ていられますね。小夜と彼女さん」
正吾に話しかけたのは晃太朗だった。場所取りとお茶汲みは終わったらしい。前触れなく隣に立たれたことで、正吾の声は喉に張りついた。
「白濱さん? 気分悪いですか? 食べたら俺が運転を代わりましょうか?」
気遣いに満ちた声色だ。だが、台本にない状況は、返事まで時間を要する。正吾は首を振った後、動きを完全に停止させた。
「松田先輩。しょーごは対面が苦手なんで、あまり刺激しないであげてくれませんか? 四六時中グイグイ来られてる仕事だから、休みのときくらい気を使わせたくないんですよ」
「クレーマーの対応をずっとしているように見えるのは偏見だ。ただ、フォローしてくれて感謝しているよ。朝陽」
晃太朗への一瞥だけで、妖精は流暢に話せない呪いを解いてくれた。
「そうだったんですね。白濱さんとは気が合いそうだと思ったので、ついバイトのテンションで話しかけてしまいました」
「気が、合いそう?」
晃太朗は頷くと、正吾の耳元で囁いた。
「ネコの対義語は?」
「タチ」
瞬時に答えを口走っていた。あえて知らないふりをする選択は、はなから存在していなかった。
オアシスを見つけた旅人のように、晃太朗の瞳は輝いた。
「おめでとう。今日から同じ仲間です」
「なかっ? で、でも、さっきの聞き方は腐男子テストでは」
「何の変哲もない少女漫画から百合を見出せますか?」
「バレンタインデーのチョコレートを一緒に作ってくれる女友達は、ヒロインに告ってもいいと思っています……」
公衆の面前で、自分は何を口走っているのか。ただ、元気いっぱいの後輩に翻弄される先輩OLは、美味しいシチュエーションだ。
「百合に挟まる男は嫌いですけど、踏み台になってくれるのなら許せますよね」
「あぁ。分からせようとするのは万死に値する」
花園を愛でる者達は、固い握手を交わした。ダブルデートに変更されたストレスが、嘘のように消えていた。
「あの、不躾なお願いなんですが、俺と連絡先を交換してもらえませんか? ユニファではぐれたとき用で!」
聞かれたくない百合トークもできるのでと、小声で付け加えられる。
買い出しで別行動するときは、居場所を教え合う手段があった方が便利だ。正吾は電話帳を開く。
「物持ちがいいんですね。中学生のときに同じ機種を使っていました」
「料金が安かった。契約が切れたらスマホに買い換える。さすがにテレビもパソコンもないのは現代人としてありえないと、うちの彼女が呆れているからな」
晃太朗はアドレスを入力していた手を止める。
「アニメや漫画は、何年までの情報を追えていますか? おすすめのものを見繕っておきます」
「思い出したら送る」
「しょーご達も、すっごい飛魚だしラーメンでいい? 味玉はつける?」
「つける」
「つけます」
半券の番号が呼ばれる前に、四人は日程の確認をした。ふせんで膨らんだガイドブックを朝陽が広げる。
「高速道路を使って、ユニファまで残り四十分程度。多少混み始めるかもだけど、開園には余裕で間に合うはず。問題は、どのアトラクションから先に乗るかどうかってこと。みんな、どれに乗りたい?」
小夜が指で示した。
「修学旅行のときは、このアトラクションに乗れなかったんだよね。せっかくだから最初に乗りたい」
この旅の目的は、小夜と晃太朗の仲を強固にすることだ。朝陽も正吾も、初めから自分の乗りたいものを主張するつもりはなかった。晃太朗が賛成すれば丸く収まるのだが、期待通りには進まなかった。
「それ、室内で回らされるやつじゃなかった? 一発目に気分悪くなっても大丈夫? 最初は体に負担がかからないやつにしたらどうかな。サメに会いに行くボートツアーとか」
「ちゃんと酔い止めを持ってきてるもん。ほんと、晃太朗くんは心配性なんだから」
何気ないカップルの会話に見えるが、朝陽は手汗が止まらないのか指先をこすっていた。過敏に心配して、明日まで精神が保つのだろうか。
放送で半券の番号が呼ばれ、ナイスタイミングだと思った。熱いうちに食べれば悩みなんて忘れてしまう。
器の半分以上を、チャーシューが埋め尽くしていた。スープは透き通り、レンゲの白色が映える。正吾は水菜に麺を絡ませた。しゃきしゃきの歯ごたえを味わった後で、天かすと切り分けた味玉を交互に食べながら麺をすする。ティッシュで鼻をかみ、待望の肉を口に運んだ。あごだしの染みたチャーシューは、咀嚼するごとに旨みが溶け出していた。欠点をしいて挙げるなら、待ち時間よりも食事が早いことだけだった。
「ごちそうさまでした」
「早すぎん? スープも飲み干してるし。コースの相談、ちゃんと聞いとった?」
「聞いてた。入場してからの流れを暗唱しようか?」
「ふぉそふぁふぇへはふへふふっ!」
そこまでしなくていいよ。
麺の熱さにすすったまま固まる朝陽に、正吾は無理をするなとお冷を渡した。
「猫舌でもいける温度だと思ったのにぃ」
舌を出す朝陽の方が、人の彼女よりも世話がかかる。
溜息をついた後で、失態に気がついた。お冷を出すのを小夜にやってもらえばよかった。その方が絵面が綺麗だと言うのに。
しばらく俯いていた正吾は知らなかった。三人から、お腹を痛めたと誤解されていることを。
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