第15話 清算のとき

 文化祭さえ終わってしまえば、カップルに仕立てあげられる学校行事は残りわずかだ。クラスマッチと卒業式を乗り切ることができたら、さすがの夕凪もあきらめがつく。晃太朗は高を括っていた。公認カップル誕生の計画を壊された夕凪が、大人しくしていられるはずがなかったのに。


 クリスマスの日、晃太朗は夕凪の部屋に招かれていた。休日に呼び出されるのは初めてだ。夕方は小夜を招いてクリスマスパーティーを開くため、昼前に訪れていた。十時のおやつには遅く、昼食にしては早い時間帯。

 サンタかトナカイの格好で出迎えると思っていたが、雪の精のような白いニットワンピースを着ていた。肩も胸元の露出もない。晃太朗は人知れず息をついた。警戒しすぎて恥ずかしくなる。


「外、寒かったよね? 温かい飲み物を用意するね」


 飲み物の候補を挙げる夕凪に、カモミールティーを頼んだ。体を温めるハーブなら、冷えた体に優しい。

 ポットとマグカップを運びながら、夕凪は自分の部屋に案内する。


「今日は弟のサッカーの試合があるから、家族は誰もいないの」


 家族と顔見せすることになれば、恋人として紹介しかねない。グッジョブ弟くんと、晃太朗は心の中で万歳していた。


「晃くん、目を閉じていてほしいの。夕凪がいいよって言うまで」


 夕凪はきっと、クリスマスプレゼントを部屋に隠していたのだ。晃太朗は合点がいく。


「分かった。目をつぶっておくよ」


 晃太朗はハート型のラグに座り込み、要求に従った。

 小さな物音が止んだ後で、目を開ける許可が出される。

 夕凪はニットワンピースを脱ぎ、ベッドの上に膝をついていた。背中と腰周りは露出し、尻の割れ目を隠すワインレッドのリボンが頼りなく見えた。


「夕凪ちゃん、その格好」


 正面を向いた夕凪の動きに合わせて、ベロア生地の光沢が揺らめいた。高級シルクの代替品として生み出された、ベルベットになりきれない編み物。

 ベビードールとTショーツの名称は知っている。分からないのは、追い詰められた目をしている夕凪の心だ。捕食する側が恐れる理由は思い当たらない。


 夕凪は晃太朗の右手を掴み、自分の胸に押し当てた。鼓動の早さが否応なく分かる。夕凪の覚悟の大きさが伝わるからこそ、晃太朗の口の中は吐き気でいっぱいになった。


「私はセックスする気持ちができているんだよ? そんなに夕凪のこと、魅力ないかな?」

「ムードに流されたくないんだ。せっかく準備してくれたのにごめんね。夕凪ちゃんとは、セックス抜きでイチャイチャしたいな」


 晃太朗は夕凪の腰に手を回した。スリットからのぞくリボンをほどかぬように、細心の注意を払いながら。


「やぁん。密着するの、ドキドキするぅ」

「俺とするキス、嫌い?」


 夕凪は回された手を握り、身をよじって晃太朗に顔を寄せた。キスをするとき、夕凪はいつも目を閉じる。うっとりとして、晃太朗の上唇と下唇の感触を交互に堪能していた。

 小夜以外のキスは、全然ときめかない。夕凪の思いは結ばせないと固く誓っていたから。


 晃太朗は心の中で溜息をつく。ベビードールが透けていればよかった。ベロア生地に、自分の手の跡はくっきりと残っていた。


 何でも受け入れる夕凪が怖くなった。晃太朗が命じさえすれば、喉の奥まで晃太朗の性器を包もうとするだろう。手首を腟内にねじ込んでも、夕凪の脳は痛みではなく快感を覚えそうだ。

 だが、晃太朗は夕凪のえずく顔が見たい訳でも、精液を飲みきってほしいとも思わない。小夜との予行練習のために夕凪を抱くことだけは、矜恃が許さなかった。

 こんなろくでなしが、教師になっても許されるのか。




 二学期の三者懇談のとき、鬼頭は真剣な目で言った。


「私は許しますよ。松田くんが教師になることを。盗撮、横領、個人情報の漏洩、修学旅行の引率中に飲酒。残念ながら教師の不祥事は後を絶ちませんが、松田くんは法に触れることはしないでしょう。そうそう、彼女の避妊は協力してくださいよ。教師が真昼間から何を言っているのかと思っているようですが、大切なことですので」


 晃太朗は駐車場に車を止める母と別れ、先に教室に入っていた。世間話をする鬼頭に、隠していた悩みを打ち明けた。

 教師を目指したいと思ったころより、無垢な気持ちがなくなっていること。そんな自分に、生徒の模範が務まりそうにないこと。


 鬼頭は晃太朗の話を聞いていなかったかのように、あっけらかんと言ってのけた。きみなら、なれますと。


「立派すぎる先生は、生徒に高い要求をしてしまいます。完璧を目指す必要はないんですよ。生徒が息苦しくなってしまいます。そんなに不安なら、今から私の言うことを暗唱してください。自分は先生になると」

「俺は高校の先生になります」


 言葉にすると、わだかまりが軽くなった。


「話を聞いてくれて、ありがとうございます。鬼頭先生」

「卒業しても、いつでも相談に来てください。教師になった松田くんの姿、楽しみにしていますよ」


 晃太朗は晴れやかな顔をした。卒業するまでに夕凪との縁を清算すれば、前に進めそうだ。



 ■□■□



 桜の木の下で告白したカップルは結ばれるなんて、よくある作り話だ。以前の晃太朗なら、くだらないと笑い飛ばしていた。しかし、信憑性の低い話でも縋りたい人物を、この九ヶ月で嫌というほど見てきた。だから、学ランの第二ボタンをねだられるとすれば、校庭だと確信できた。


 部活の送迎会が終わった後で、晃太朗は桜の木の下に佇んでいた。自動販売機の影から、夕凪が駆け出してくる。


「晃くん。第二ボタンを夕凪にちょうだい」


 晃太朗は準備していた言葉を話す。


「ごめんね。これは渡せないんだ。今年、母校の中学を卒業する後輩に、学ランを譲る話があってさ」

「もういいよ。夕凪のために嘘をつくのは終わりにして」


 夕凪は泣いていた。涙に張り付いた髪を、晃太朗は払ってあげようとした。


「触らないで!」


 今まで拒絶しなかった夕凪は、初めて声を荒らげた。


「晃くんは優しいから、夕凪から言わないと約束を破れないんだよね。分かってた。分かってたけど、晃くんが夕凪のことを初めて見つめてくれたのが嬉しくて。ずっとずっと独り占めしたくなっちゃった」


 夕凪は一人で涙を拭いた。


「晃くんのことがずっと好きだった。この三年間を、夕凪は絶対に忘れない。近くで遠い場所から、たくさん夢を見られた。付き合うことはできなかったけど、夕凪の名前をたくさん呼んでくれた。晃くんだけのアイドルとして、笑顔を作れた。だからもう、行っていいよ。晃くんの一番好きな人のところに、夕凪には渡せなかった思いを届けてあげて」

「夕凪ちゃん……」


 待ち望んでいた終焉に、肩の荷が下りる。昇降口から小夜が出てくるのが見えた。

 入れ違いになるように、夕凪は校舎へ向かう。忘れ物をしたと言って。


「晃太朗くん! もう帰っちゃったのかと思ってた」


 走り出した小夜に、体は動いていた。転びそうになる小夜を受け止め、二人は笑い合う。


 あのね、晃太朗くん。記念撮影をするシャッター音よりも小さな声で、小夜は告白した。ラブコメのヒロインみたいに、小首を傾げながら。


「第二ボタン、私にくれない?」


 中学校の卒業式は、ボタンを渡さないよう教師が呼びかけられていた。高校の入学前説明会は、中学校の制服で参加しなければいけなかったせいだ。憧れていた展開に、晃太朗の鼓動は大きくなった。


 ボタン一つで満足するの? 今なら俺ごとあげちゃうのに。

 晃太朗はそう口にしようとしたが、本心を隠してしまった。


「駄目。あげられない」


 もう、夕凪に接触する前の自分には戻れない。心のよどみをごまかそうとすれば、優しい幼なじみはきっと気づく。恋心は気づかないくせに、後ろめたい気持ちには敏感だった。中途半端に告白するくらいなら、小夜への気持ちを墓場まで持っていく。


「すでに渡す約束があるんだ」


 信じないでくれ、そんな約束なんて小夜以外ありえないんだ。


「だって、義理でもらおうとしてるでしょ。傷ついちゃうな。さすがの俺も」


 違う。聞かせたいのは、こんな言葉ではない。晃太朗の心は、相反する声がひしめき合う。

 

 頭の中では分かっているだろう。今の自分には、小夜と付き合う資格を失っていることぐらい。夕凪に贈っていない愛の言葉を、純粋な笑顔の前で囁ける自信がなかった。だから、墓場まで持っていくと、決意したばかりだったんじゃなかったのか。

 やめてくれ。これ以上、小夜を傷つけるつもりか。


 黙っていた小夜は、力なく笑った。


「あはは。冗談だって分かっちゃったか。からかってごめんね」

「小夜、何を言って……」


 笑えない嘘が嫌いなきみが、冗談を言うなんて天変地異の前触れだ。

 誤解だと謝ろうとした。小夜の心とすれ違う前に。


「さよなら。松田先輩」


 松田、先輩。名字で呼ばれたことも、先輩呼びも初めてだった。世界で一番好きな人が呼び名を変えたことで、晃太朗の体は硬直した。


 小夜の告白を一蹴した後悔は埋まらなかった。それゆえ、両片思いだとは考えもしなかった。

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