第14話 堕落

「幼少期の若紫の母君は、若紫よりも大人びていたんですね。だから生ひ立たんの歌には、実年齢よりも幼く見えてしまう若紫の成長を見守れないのは死んでも死にきれないという、尼君の悲痛な思いが込められているんです。この和歌には縁語が使われていましたが、どこに使われているか分かりますか? 松田くん」


 鬼頭に指名され、晃太朗は顔を上げる。考え事をしていて、ほとんど聞き流してしまっていた。真剣な悩みだ。昔から小夜を思い続けた自分は、光源氏のようにロリコンなのかと。


 当てずっぽうで答えるしかないか。このまま無言でいると、教科書を頭に載せられてしまう。

 すぐに答えない晃太朗に、鬼頭が助け船を出す。


「一年生のときにも学習しましたよね。『伊勢物語』の『芥川』で、女が男に訊いたでしょう。『きらきらと光るあれは何なの?』って」

「露です。消ゆ、置く、結ぶなどが連想されます」

「そうですね。露と消えの部分に線を引きましょう。ノートの下の段に、縁語の説明を写しておいてください。次の時間は初草の歌について読み解いていきます」


 鬼頭が手についたチョークを叩いていると、チャイムが鳴った。残り時間が迫っていたため、すぐに答えてくれそうな晃太朗を選んだようだ。数秒ほど無駄な時間を使わせてしまったが、鬼頭の期待に応えられたのなら嬉しい。教師になれるような人間ではなくなっていることが、申し訳ないのだが。


 号令の後で伸びをしていると、誰かが背中をつついた。


「晃太朗くん。確認したい書類があるんだけど、昼休みは空いてる? それとも、放課後の方が都合いい?」

「委員長? 今じゃ駄目なのか?」


 休み時間はまだ始まったばかりだ。右手を差し出して書類を渡すよう促したが、平井は首を振った。


「生徒会室まで一分でダッシュさせる気? 帰宅部のひょろひょろ体力を舐めないでほしいな」

「悪い。……って、スルーするところだった。委員長、俺は文化部所属だぞ。一応」

「シャトルランを五十回以上走る強者は、立派な運動部ポジションだよ」


 そうだったのか。まじめな平井が言うのなら、一般常識で間違いないだろう。晃太朗は納得した。


「話が脱線しちゃったけど、昼休みでいい?」

「あぁ。弁当を食べた後でもいいなら」

「十三時くらいだね。了解」


 平井はサムズアップして、黒板を消しに行った。


「書類って、文化祭関係かなー? のぞむーは実行委員会も立候補して大変だ」


 晃太朗の席に寄ってきた和行は、うへえと舌を出す。


「メリットはあるだろ。委員会とか係をやっとけば、調査書の活動欄が埋まる。帰宅部だと部の実績が『特になし』になるからな」

「晃太朗みたいに個人の部だと書けるよね。この間も県大会で最優秀賞を獲って、校長先生から表彰されていたし。バレーは団体戦だから、代表に選抜されないと書いてもらえない……」


 突き指はどうしようもない。気合いで痛みを忘れたとしても、コートに入る許可は下りないはずだ。やるせない表情をした和行を慰めようとしたが、何を言っても傷口をえぐる気がした。


 小夜をモデルに描いた作品で勝負しておきながら、全国大会は爪痕を残すことができなかったんだぞ。俺の方が情けなくて笑えるだろ?

 脳内で再生した自分の声は、我ながら腹立たしく思えた。和行は練習の成果を発揮することすら、叶わなかったのに。


「しんみりした空気にさせちゃったね。もー! 晃太朗は優しすぎるよ!」


 和行は晃太朗の背をばんばん叩く。死にそうな顔をしたり、元気を取り戻したり忙しい奴だ。


「馬鹿なこと考えないで、青春を謳歌しなよ。幼なじみがいつまでも彼氏なしなんていう奇跡、そうそう起きないんだからさ。大学に入ってから告白とか、のんびりしすぎ。そんな煮え切らない態度だから、変な虫が飛び回るんでしょ」


 夕凪との取り引きは話していないはずだったが、和行は深く触れなかった。初めて接触した場に居合わせただけで、晃太朗の復讐を見抜いていた。季節が秋に移っても口を挟まないのは、友達としての優しさなのかもしれない。

 友達思いは和行だけではないことを、晃太朗はそう遠くない未来で思い知らされる。




 ポケットから折りたたまれた紙を出し、平井は晃太朗に尋ねた。


「ベストカップルのエントリー、柳さんの名前で提出されていたんだ。晃太朗くんと柳さんは、付き合っていたの?」


 生徒会室に書類があると話していたのに、学級委員長の嘘つき。喉まで出かかった文句は、夕凪の字を見て凝固する。


「安心して。この書類は受理していないよ。柳さんから直接渡されたから、僕以外の企画部は知らない。晃太朗は柳さんに承諾したの?」

「いや。そもそも付き合ってないし。告白もしてないから。告白されたところで、オッケーする訳がない。勝手に外堀を埋めようとするなんて怖すぎる」

「だよね。念のため確認しておいてよかった。じゃあ、これはシュレッダーに投入!」


 高らかな声とともに、証拠は切り刻まれた。


「平井。今さらだけど、シュレッダーにかけただけじゃ証拠隠滅にならないんじゃないのか? 繋ぎ合わせれば復元できる気がするんだが」

「問題ないよ。提出期限は今日の十三時まで。晃太朗の知らないところで応募される危機は去った」


 生徒会室の時計は、十三時五分を過ぎている。平井の計画性の高さに、晃太朗は舌を巻いた。


「危機は去ったけど、どうして柳さんに目を付けられたの? 晃太朗は幼なじみ一筋なんだよね」


 助けてくれた対価として、話せる範囲のことは教えるか。晃太朗は白状した。夕凪が小夜の傘を捨てたこと、問い詰めた後も謝罪の言葉はなかったこと、夕凪の行動を監視するために擬似デートをしていること。


 平井は最後まで話を聞いた上で、感想を述べた。


「はっきり言ってイカれているよ!」


 俺はイカれていたのか。晃太朗は頭を抱えた。


「まさか自覚なかったの? 三ヶ月前から違和感があると思っていたんだ。幼なじみと喧嘩した訳でもなさそうだし、模試はあいかわらずA判定を叩き出すし。馬鹿と天才は紙一重って言うけどさ、どうして簡単な問題が分からないの? 柳さんと付き合うつもりはないんだよね。本当に愛しているのは幼なじみなんだよね? だったら、まどろっこしい契約なんて時間の無駄でしかないよ! 自分を売るような真似して! 幼なじみが喜ぶと思ったのかい?」

「それは……あのときは頭に血が上っていて」


 どこの世界に好きな人が傷つけられたことを喜ぶ人がいるのだ。嗜虐趣味を除けば、誰一人だっていやしない。

 晃太朗の弁解に、平井は唸った。


「柳さんも柳さんだ。あんなことをしでかしておいて、好きになってもらえる勝算があると本気で思ってるの? うわぁ……知りたくなかった。こんなドロドロの恋愛模様が、学内で繰り広げられていたなんて」


 無自覚レーザービームの恩恵を懇願した人と、同一人物とは思えない慌てぶりだ。平井は百面相をした後で、晃太朗を見上げた。


「もしも柳さんのことで助けが必要になったら、僕に相談してね。一人で抱え込まないでよ」

「夕凪を引き剥がせば、自分にもチャンスがあるとか考えているんじゃないのか?」

「人聞きが悪いなぁ。人助けだよ、人助け。やましい気持ちがないとは言い切れないけど、今の晃太朗は放っておけない。まるで赤信号が見えていない幼児みたいだ」

「それは危なっかしいな」


 晃太朗は平井に礼を言った。話を聞いてもらったおかげで、三ヶ月間に溜め込んだ不満は薄くなった。


「心配してくれてありがとな。でも、俺は大丈夫だから」

「大丈夫って答えるときは、大丈夫じゃないときなんだよ。まぁ、委員長として適度な距離から見守っておくことにする」

「そうしてくれると助かる」


 茨の道を歩くことは、小夜が負った心の傷よりも生ぬるい。小夜が平生を装うのなら、同じだけの苦しみを味わいたいと思っていた。

 ごめんね、小夜。お兄ちゃんはもう、綺麗な心を捨てちゃったんだ。



 ■□■□



 絶対に結ばれない恋は、夕凪を燃え上がらせた。

 放課後の理科室で、晃太朗は夕凪と同じ椅子に座っていた。厳密に言えば、三分の二ほど腰かけているのは晃太朗の方だ。夕凪は背もたれと晃太朗の膝に手を置き、バランスを取っていた。

 耳にときどき吐息がかかるが、晃太朗は表情一つ変えずに読書をしていた。


 文化祭が来週に迫る中、夕凪から薦められた本を読む余裕はない。しかし、パッチワークのブックカバーが断る気力を奪われた。手作りのカバーをつけるくらいには、夕凪にとっては愛着のある本らしい。


 本の内容は、政略結婚から運命の番に変わる話だった。弱みを握られた令嬢が冷徹な軍人に娶られる設定は、夕凪と晃太朗の関係を示しているようで胸がざわついた。


「どうだった? 高校生に人気なんだよ、この本」


 三十分で読み終えた晃太朗の顔を、夕凪が覗き込む。


「普段なら読まないジャンルだから新鮮だった」

「晃くんって、意外と読書家なんだね。夕凪は一時間以上かかったのに」


 夕凪は晃太朗の肩にあごを載せた。

 さすがの実験部も、リア充が爆発する様子は見たくないはずだ。活動日ではないとはいえ、部外者がたまり場にするのはよくない。


「実験部の顧問は、夕凪の担任だから問題ないもん。ちゃんと、自習に使いたいって許可をもらってるし」

「でも、自習なんてやってないよな」

「怒っちゃやだ。教室と部室に行っちゃいけない約束、夕凪は守ってるよ」


 晃太朗は夕凪の襟に指をかけた。目の前にいるのが小夜なら、シャツがしわになることを懸念したはずだ。夕凪を乱暴に引き寄せる。


「泣くな。これくらい怒ったうちに入れるなよ」

「夕凪のこと、心配してくれたの? 晃くん、大好き」


 目尻に浮かべる涙は、嘘泣きに見えなくなっていた。学校のアイドル的存在というのは、大げさではないのかもしれない。可愛いと持ち上げたくなる気持ちはよく分かる。


 晃太朗は、夕凪のことは好きにならないと思っていた。他人の傘を捨てておきながら、謝罪なしで平然と生きていられる無神経さは一生許せない。


 小夜を守ると決めたのは自分だ。自分が夕凪を監視していれば、嫌がらせに遭うことはない。晃太朗に恋い焦がれた邪魔な虫は、自分の手で潰す。


「夕凪ね、ベストカップルのエントリーしちゃったの。もし投票が一番高かったら、学校中の祝福をもらえるってことになるよね。お似合いのカップルになれるよ。夕凪達」


 公式にはエントリーされていないことが分かっているため、晃太朗は作り笑いを浮かべた。

 ずっと前から思っていたが、自分のことを名前で呼ぶなんて幼稚だ。小夜だけが許されていたのに、いつからか耳にしなくなった。


「二人きりなのに、晃くんは自分から触ってくれないんだね。ボタンを外しやすいように、上着を脱いだ方がいい?」


 晃太朗の意思を確認する前に、夕凪は上着を脱ごうとしていた。強調される胸の膨らみに、晃太朗はそっぽを向きながら制止する。


 必要以上に触れ合いたい欲求は湧かなかった。手を握るだけでも、消せない汚れがつく気がした。夕凪の裸体を通して、醜い嫉妬に染まりそうだった。小夜に顔向けできないところまで堕ちているのに、体を交わることは拒否し続けた。

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