第13話 身を知る雨

 鬼頭に捕まってしまったおかげで、将来の目標が固まった。大きな収穫を得た足どりは、軽やかで速い。


「待ち合わせに遅れたら大変だ。あいつら、俺のいない間に好き勝手なことばかりするもんな」


 美術部のドアを開けると、メイド服を着た小夜と目が合った。足首まで覆う漆黒のロングスカートは、ヴィクトリア朝のメイド服だ。肩先を膨らませたパフスリーブに、くるみボタンのついたカフスが映える。裾の一箇所にあしらわれたレースは、小夜のおしとやかな雰囲気と調和していた。


「エプロンとスカートを一緒に摘んで、おじぎしてもらえないかな? 資料画像はこれでラストだから、おねがーい!」

「晃太朗くん、助けて」


 晃太朗に駆け寄ろうとした小夜だったが、椅子にぶつかって体勢を崩す。


「怪我していないか?」

「だいじょう……ぶ。それより、リクエストがエスカレートしちゃって怖かった」


 晃太朗にしがみつく小夜の後ろ姿を、何台ものカメラが捉えている。


「お前ら……小夜にどんなことを要求した?」


 部長怖いと観衆は震え上がった。小夜の感じた恐怖と比べれば、可愛いものじゃないか。晃太朗の眼力の強さに、副部長がしどろもどろで説明した。


「来月締め切りのイラストコンテストのお題が、学園祭なんです。うちの学校は九月ですから、メイド喫茶のモデルを竹野内さんにお願いしたんです。着せたのは去年の先輩からもらった未使用品なので、カビ臭さはないですよ。安心して……いや、安心なんてできませんよね。あはは……」

「資料画像なんて、ネットでいくらでも見つかるだろ。人の幼なじみで勝手に遊ぶな」

「すみません。竹野内さんがあまりにも可憐すぎて、うさ耳ポーズやら指ハートやら、色んな写真を撮ってしてしまいました。後で共有するので、どうか寛大なご配慮を」


 カメラ班が写真の出来を見せる。

 悪くない。門外不出の家宝にしよう。

 晃太朗は小夜の肩を撫で、着替えていいよと言った。


「あのね、晃太朗くん」

「なあに? 小夜」

「この中に制服を着ているんだけど。背中のファスナーが上がらないから、ご主人様にお願いしていいですか?」


 かろうじて出さなかった気味の悪い笑い声が、空気に触れそうになる。こんな穢れたご主人様に、背中を預けていいんですか。小夜が髪を持ち上げたせいで、首筋の白さが目の毒だ。


 晃太朗はズボンで手汗を拭き、小夜の襟に左手を添えた。ファスナーが下がりきる間、部室のドアが開かないことを祈りながら。傍目から見れば、変態以外の何者でもないだろう。


「あのセリフ教えといてよかったね」

「いい絵が書けそう」


 活気づく部員の姿は誇らしいが、幼なじみを巻き込まないでほしかった。

 小夜が高校を卒業するまでは、告白しないと決めていた。教室のカーテンに隠れてキスしたり、手繋ぎしながら下校したりすることは憧れる。だが、晃太朗は初恋の人の幸せを優先した。もしも両思いだったならば、切なさを味わってもらいたくなかった。自分がいない学校に一年間も通うのは、きっと苦しい。


 晃太朗がお灸を据えたおかげで、部員達は大人しくなった。創作意欲を刺激されれば、無言でカンバスと向き合う。集中力が続く限り、小夜に危害を加えることはない。晃太朗も鉛筆を手に取る。


 小夜は鞄から文庫本を取り出す。机の上に置き、鞄の中央の金具を留める。二本のベルトを締め、膝に載せた。

 すぐに中身を取り出すことが不向きな鞄だからこそ、所作の美しさに惚れ惚れする。


「晃太朗くん。本を読んでいるだけでいいの?」

「ずっと同じ姿勢でいるのは、体力的にしんどいだろ。読書なら似た姿勢を維持できる」


 晃太朗は、絵のモデルを小夜に頼んでいた。最後の高校総文に出品する絵は、一番思い入れの強いテーマで描きたいと考えていた。

 読書をする少女像は、題材としてありふれている。県大会の段階で埋もれてしまうことは想定済みだ。小夜がページを捲る度に浮遊する、妖精や魔法も描くつもりだった。


 下書きが完成するころには、日が傾いていた。本を閉じて満足そうに微笑む小夜の姿を、黄金色の光が照らす。


「可愛いな。俺の幼なじみは」


 早く付き合えたらいいのに。いや、いっそのこと娶ってしまいたい。小百合と智則の許しはもらえるはずだ。智則は、娘が二十歳になるまで待ってほしいと条件をつけるだろうが。

 小夜の恋人になれなくても、そばにいられたら何もいらなかった。小夜が入学するまでの一年間さえ耐えれば、ともに過ごす時間がより尊くなる。今日も晃太朗は、好きだと伝えることができなかった。



 ■□■□



 梅雨真っ只中の季節は、相合傘ができるから好きだ。小夜が入っても濡れないように、大きな傘を持って来ていた。

 高校総文に出す絵が完成し、小夜と一緒にいる時間が減った。放送部の活動する木曜日が、唯一の癒しになっていた。


『昇降口に着いたよ。小夜はどこにいる?』

『二年の昇降口。晃太朗くんはそこで待ってて。私が行くから』


 すぐに着信があり、晃太朗はスマホを両手で覆った。全速力で走ってくる小夜の息遣いが聞こえそうだ。

 一・二年と三年の昇降口は離れている。晃太朗は待ちきれずに靴を履いた。降りしきる雨を見つめ、小夜の姿が鮮明になるまで待つ。


「晃太朗、待った?」


 背後から小夜の声が聞こえ、晃太朗は飛び上がるほど驚いた。


「廊下を移動して来たの? 傘は?」

「忘れちゃったの」


 小学校のときから、雨予報の日に限って傘を忘れていた。和行が忘れ物をするのは自業自得と思うが、小夜なら笑って許せる。


「小夜、荷物貸して」

「えっ?」

「小夜の嫌がることはしないから」


 晃太朗は小夜の鞄と傘を交換した。小夜が遠慮して鞄を濡らさないように。


「一緒に入ろう」

「いつもありがとう。晃太朗くん」

 

 晃太朗が濡れないように、小夜は右手を一生懸命伸ばす。昔は逆の立場だったことが懐かしい。


 肩を寄せて歩く光景を、敵意のこもった目で見つめる人がいるとは想像もしていなかった。



 ■□■□



 体育終わりの三限はしんどい。空腹をもう一時間耐えられそうにない。コロッケバーガーを求めて、着替えをそこそこに購買へ向かう。休憩時間は残り八分しかない。


「待って! チキン南蛮ドッグも買っておいてよ! あぁっ……全然聞こえてないや」


 体操服の上に開襟シャツを羽織り、和行が小走りでついてきた。


「お前もついてくるの?」

「次の授業は担任だから、ワンチャン遅れて来そうじゃん。移動教室って知ってる訳だし。バスケは動き回ってばかりだから、何か食べないと昼までエネルギーが持たないんだよ」


 購買の前は七人ほど列を作っていた。全員が列に入る前に注文を決めていれば、ギリギリ授業に間に合いそうだ。

 並んでいると、前から不穏な会話が聞こえた。


「妨害工作まじでムズすぎ。せっかく捨てても相合傘されちゃうしさ。消えてくれないかな、あの女」

「そこは優しい晃くんにキュンとするところでしょ。あいつのポジションを脳内で自分に変換すれば、面倒な期末テストを乗り切れる気がしない?」


 小夜の傘がなかったのは、こいつらのせいか。晃太朗は奥歯を噛み締め、和行に囁いた。


「和行。妨害工作ってほざいた、女の名前分かるか?」

やなぎ夕凪ゆなさんだよ。告白する人は多いのに、誰とも付き合ってないって噂だ。一応、この学校のアイドル的存在なんだけど」

「学校のアイドルは小夜以外ありえない。性格も小夜が圧勝」


 まさか、晃太朗。

 何かを悟った和行を置いて、晃太朗は夕凪に近づく。


「柳さん。話があるんだけど、昼休み時間ある? 屋上に来てほしい」

「へ? 晃くん? いきなりでびっくりしたぁ」


 夕凪は胸を撫で下ろした。上目遣いも間延びした声も、計算された美しさに過ぎない。裏の顔を取り繕っているつもりだろうが、気を抜く時点で一級品に劣る。


「いいよ。昼休み、屋上ね」


 一旦列に戻ると、夕凪は前後の友達に話し込んでいた。


「やっと告られちゃうかも!」

「忘れずに行きな! 逃したら一生チャンス来ないよ」


 嬉々としてパンを買う姿に、和行はぽつりと呟いた。


「弱点なんかじゃない。豹変した晃太朗は手に負えない」




 曇天の屋上に、ロマンチックな雰囲気はない。灰色の世界では、相手の顔色がくすんで見える。告白するには、不向きな場所に成り下がっていた。

 吹きすさぶ風にスカートの裾を抑えながら、夕凪は晃太朗に訊く。


「晃くん、話ってなあに?」


 乱れる髪を掻き上げ、耳の赤さを印象づける。可愛い自分を売り込むのに抜け目がない。だが、本性を知っている人にとっては、無駄な動きだ。

 晃太朗は用件を単刀直入に言った。


「小夜の傘をどこに捨てたの?」

「何のこと? 夕凪には関係ないよね。黒い傘なんて知らない」

「柳さんは爪が甘いね。俺は傘の色を訊いていないのに」


 夕凪は泣き出しそうな顔になる。あくまでも偽りの涙だ。本当に泣きたいときは、心で泣く。空気が悲しみの色に染まらないように嗚咽を堪える少女を、晃太朗はそばで見続けてきた。


「柳さんにとってはどうでもいい傘なんだろうけど、小夜の誕生日にあげたものなんだ。パッと見は冴えないデザインだと思った? あれね、雨が降ったら鍵盤の模様が浮き上がるの。職人さんの手がかかっている分、普通の傘より高いんだ。たくさん出回っている傘じゃないし」

「お願い! 何でもするから、このことは内緒にして! 学校の人に知られたくないの」


 小夜への謝罪もなしに、己の保身に走るか。晃太朗の冷めた目を、夕凪は見えていないようだ。

 晃太朗の苛立ちは増す。だが、盲目的に恋してくれるのは都合がいい。首輪をつける手間が省ける。 


「柳さん、取り引きをしよう。俺を惚れさせたら、小夜にした嫌がらせは水に流す。学校中に言いふらすことはしないよ」

「嘘じゃないよね? 絶対、絶対だよ?」

「あぁ。約束だ」


 夕凪は晃太朗を抱きしめると、唇を強引に奪った。

 ファーストキスと比べれば、何の味もしない。小夜にちょっかいをかける毒牙なら当然だ。

 夕凪の制服に、小雨が降りかかる。晃太朗は、身を知る雨だと思った。いずれ捨てられる運命を嘆く、未来の夕凪が流しているのだ。


 薔薇色に色づくことのない契約が始まった。

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