第16話 梅のほころび
大学の桜は、綺麗に見えなかった。花が終わった後のみずみずしい葉桜も、晃太朗の心を動かしはしなかった。
「晃くん! もう七時よ。高校に行く時間じゃないの?」
「大学生になったんだよ。いい加減、高校の時間割は忘れてよ」
部屋をノックする声に悪態をつきながら、晃太朗は起き上がる。
死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避けて
怖き顏する
太宰治が自殺未遂を繰り返したことは有名だ。作家の内面を、作品は鏡のように映し出す。晃太朗は思った。石川啄木の『一握の砂』も、生死の狭間で揺れていると。
生きたい、生きたい、生きたい。
晃太朗は、顔を洗った雫を拭えない。きっと腫れた目をしている。
今日も鏡に映る自分が醜くなっていく。
晃太朗は自然乾燥をあきらめ、タオルに顔を埋めた。リビングのソファで一日中まどろんでいたい。
大学に行けば、同期から出席票と課題を押しつけられる。面倒見のいい性格上、困っている人を見ると断れない。筆跡も文体も変えて、別人になりきった。ねぎらいの言葉はささやかすぎた。
「すまん。松田がいてくれて助かった」
「松田のおかげで、急にシフトが増やされても困らなくなったよ。これからも、何かあったら頼りにしていいよな」
身代わりを演じたあの日から変わった。五人分の身代わりを請け負い、時間があっという間に過ぎていく。
高校のときの恩師は、生徒の志望理由書を書き換えていた。本人の考えを確認しながら、先生が新たな文章を生み出す。
晃太朗がしていることも同じだ。他者のための行為を、誰が責められようか。脳裏に、とある一節が浮かぶ。
――頭がまとまらない。電車の切符が一枚しかない。とうとう今日は社をやすむことにした。
自分には、啄木のように休む選択ができない。定期券を買うお金がなくても、家族に相談すれば前借りできた。友達の信頼を壊すくらいなら、食費を切り詰めることもいとわない。ろくでもない文豪の方がよほど人間らしく思えてくる。
晃太朗は無様に泣きたかった。だが、耳の奥に残る声は、自分のものではなかった。しょっちゅう転んでいた幼なじみの涙。
うわあああ。わああああん。
記憶の中の晃太朗は、小夜の背をさすっていた。消毒液の痛みに耐えきれず、小夜は晃太朗の手を握りしめていた。
こうたろうくん。
泣きながら自分の名が呼ばれる度、たんぽぽの綿毛で触れられるような気持ちになった。
「泣いた顔をずっと見ていたかったな。俺が慰める間だけは、小夜を抱きしめることが許されていた」
ほくそ笑んだ晃太朗は、表情をこわばらせる。
俺は、どうしてそんなことを思った? 小夜の幸せを願っているはずなのに。
両手が黒ずんでいるように見えた。小夜を汚してしまわないうちに身を引くのは、間違っていなかった。
小夜に捧げた青春は、自己満足の塊なのだから。
■□■□
二年後、晃太朗は一つ下の後輩とともに講義を受けていた。
一つ違いとはいえ、見た目は大差ない。身長も服の嗜好も似ていた。他学年の自分が紛れ込むのはたやすい。それでも、場違いな感情は消えなかった。講義の担当がゼミの指導教員でなければ、発狂していたに違いない。
「発表のグループだけどね、名簿順で分けたから。プロジェクターで、表は写っているよね。それじゃあ、すぐに席移動して。講義が終わるまでに、役割分担とか集まって作業する日を決めておいてよ。連絡先の交換をするのも忘れないように。三年生になると、同じ講義を受ける人は少ない。もしかしたら、この講義でしか会わない人もいるんじゃないかなぁ」
おっとりとした大森教授の声は、怠惰な学生を動かす。この講義は教職以外にとって選択科目の扱いだが、卒業するための必要単位数が足りない学生にとっては頑張りどきだ。グループ発表がうまくいかなければ自分の成績も下がるため、いつになく真剣になっていた。
晃太朗と同じグループは、あ行の学生が多かった。四年生の学籍番号の方が早いため、こうなることは予想できた。役割分担を決める前に、晃太朗は明るい声を出す。
「みんなは顔と名前が一致するだろうけど、俺は初めましてになると思う。差し支えなければ、軽く自己紹介してもらえないかな? 俺は松田晃太朗と言います」
「松田さん、よろしくお願いしますね! 僕の名は梅林朔磨です。ゼミは古典、崩し字の解読なら任せてください!」
晃太朗が自己紹介を急に始めても、朔磨は流れるように場を盛り上げた。
「おいおい。今回は崩し字の解読はやらないよ。シラバス見た?」
「もちろん確認したよ」
コントのようなやりとりに、晃太朗は自然と笑顔になる。年上だからしっかりしなきゃという肩の重荷は、すっかり忘れていた。
グループ発表が終わっても、朔磨との交流は続いた。後期の定期試験の帰り、二人は駅で飲んでいた。
「松田さん。先輩呼びしない方がいいですか?」
「いや。俺は特に気にしないよ」
「じゃあ、先輩呼びにします。敬語にしないと、どうも居心地が悪いんですよ」
「難儀な性格だねぇ」
「礼儀正しいと言ってくださいよ」
鉄板の上で、野菜と卵が音を立てる。豚バラ肉が投下されれば、音の勢いは増す。焼きそば麺とイカ天が加われば、お好み焼きの完成だ。広島の、なんて説明はいらない。広島風も余計だ。名称を長くしていると味が落ちる。
「梅林くん。悩みがあるなら、俺がいくらでも聞くよ」
返事の代わりにバリバリという音がした。鉄板で焼き目がつけられた麺は、噛み応えを楽しめるようになっていた。
「うん。ゆっくり食べていいよ」
レモンチューハイの苦味が残らないように、晃太朗もお好み焼きを頬張った。三パーセントよりも度数が高いが、今日は飲まなければやっていられない。晃太朗は、朔磨が誘った理由を察していた。
「恋バナでも聞いてくれますか?」
「閉店時間が過ぎても聞いてあげるよ」
朔磨は意を決して話し出す。
「大学で初めてお付き合いする人ができたんです。ゼミは違うんですけど、学内のカフェで偶然会って。僕から声をかけました」
「青春じゃないか。お兄さんは羨ましいなぁ」
ありがとうございます。朔磨の頬はほんのり桜色を帯びた。
「でも、本当は僕なんかよりも、もっといい人と結ばれるべきなんです。段取りが悪いデートになっても、記念日を忘れてしまっても、小夜は怒らずに許してくれて。それがただただ、つらいんです。自分と出会わなかった方が、幸せにさせられたんじゃないかって。そう思わずにはいられなくなる」
「分かるよ、梅林くん」
晃太朗も、似た悩みを抱えていた。告白を断らなければ、夕凪に近づかなければ、小夜を幸せにできたはずだと。
「でもね。梅林くんなら任せられる」
自分に言い聞かせるように、晃太朗は朔磨を励ました。
「俺のことを年の差関係なく接してくれるじゃないか。それに、竹野内さんに告白するのは見る目があるよ」
大切に守ろうとした、世界で一番愛おしい存在。朔磨なら、あきらめがつく。
「ほらほら。泣かないでどんどん食べなよ。今日は、お兄ちゃんの奢りだー!」
小夜との交際費を出し惜しみするなよ。
本心が顔を出さないように、晃太朗は明るくふるまった。
■□■□
大森に卒論を見せるため、晃太朗は研究室のある棟に入る。廊下から一人の少女が歩いてくる。シフォンのロングスカートが揺れる度に輝いた。真珠のような光沢は、足の白さを引き立てる。
幼なじみの垢抜けていく様子は、嬉しいはずなのに泣きたくなった。
小夜には会いたくなかった。単位を落としまくって留年した姿なんて、見せられる訳がない。いいお兄ちゃんの裏側を知ってほしくなかった。
会いたいのに会えないのは、自業自得だ。告白の返事をはぐらかした卑怯者に課せられた当然の報いだ。
自分と同じゼミに入るとは思わなかった。ライトノベル研究をするゼミに行くと、風のうわさがあった。
晃太朗は大森の研究室に行くと、開口一番に尋ねた。
「大森先生、どうして竹野内さんを転属させたんですか? 彼女、近現代文学志望ではなかったはずですよね」
「竹野内さん? 裏づけも論の展開も、ほかの学生より何倍も優れているよね。それが転属の決め手だ。サブカルチャー系のゼミに学生が集中しすぎていたから、残念だけど移動してもらわないといけなかった。ほかの指導教員の手がかからない子となると、竹野内さんの名前は最初に挙がったよ」
素直に喜べない転属理由だ。
「ただ、欠点があるとしたらバイトの時間を減らしてほしいかな。眠れているか心配になる。竹野内さんと松田くんは幼なじみなんだろう? きみから注意しておいてくれないか? 僕が言うのは、何かと厳しい世の中でねぇ」
朔磨も小夜の体調を気にしていた。
晃太朗は幼なじみだが、小夜の家族ではない。過保護な自覚はあるが、見えない線が存在していた。
それに、今の俺は幼なじみなんて名乗れないのに。
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