第17話 因縁の名

「来週から教育実習だね。気負わずに、子ども達とたくさんお話してきなさい」

「たくさんお話しを、と言われましても。遊びに行くのではないのですよ」


 知っているよと大森は微笑んだ。


「僕も教育実習に行ったんだよ。だからこそ分かっているんだ。大学の模擬授業でうまくいっていても、教育実習先の子ども達との信頼関係が築けなければ動かしにくくなる。生徒役の学生は中学生らしく振る舞っているなんだろうけどね。学生は大人だから、『分かっているけど口に出すのが恥ずかしい集団』にはなりきれないんだよ。きみは重い沈黙に耐えられるかな? 『どうしてこんな簡単な問題が解けないんだ!』って、一度でも叫んでごらん。離れた生徒の心を掴むのが難しくなるよ」


 うっ。パニックになったら、答えられないのを生徒のせいにしてしまいそうだ。教授が助言してくれなければ、駄目な教師の典型例になるところだった。


「怖がらせちゃったかなぁ。教育実習に失敗はつきものなんだから、恐れずに突っ込んでいった者勝ちだよ。教師として実際に働き始めたら、授業中にサポートしてくれる人はいないんだ。松田くんが教師になれるかどうかは採用試験次第だけどね」

「そうです。もしも採用試験に落ちてしまったら、残りの実習期間がむなしくなるでしょうね。先生としてふさわしくない人物が、教壇に立っていることになりますから。出来損ないに教わる生徒が不幸でなりません」


 大森は返事をしなかった。おもむろに立ち上がり、マグカップを二つ手に取る。


「よし、やっと湯ができたね。松田くんはブラック派だっけ?」


 聞いていなかったの? 俺の話。

 晃太朗は呆れながら首肯する。深みのあるこげ茶色の液体は甘くないものの、優しい眼差しを添えていた。


「松田くん、そこまで自分を卑下しなさんな。先生が悩むほど、生徒は気にも留めていないものなんだよ。つまらないか面白いか。その基準で各々が動き回っているんだ。それにね」


 大森は、晃太朗の目の前にあった本の山を横にずらした。太古の地層が動き、文庫本の『船場の娘』が顔を覗かせる。晃太朗がぼんやり見ている間に、マグカップがことんと置かれていた。


「採用試験に受からなくても、私学教員適性検査や臨時的任用教諭採用試験がある。働きながら翌年の採用試験で合格した先輩もいるし、気楽にいこうよ。気楽に」


 鬼頭と言い、大森と言い、晃太朗はゆるい先生と縁が近い。思い詰めるだけ損をしている気がする。


「松田くんが教育実習で担当する学年は何年生なの?」

「二年生です。中学二年生は、まだまだやんちゃですかね」


 右目が疼く。力に目覚めた我にひれ伏せ。かつての晃太朗も、世界を尖った目で見下ろしていた。

 本当は高校での実習を希望していたのだが、受け入れ先の都合により母校の中学校へ行きことになった。晃太朗の恩師は卒業した年に離任していたため、顔が分かる先生は皆無のはずだ。懐かしい校舎に戻ることは喜べるものの、不安の方が大きい。


「いいじゃない。二年生」


 大森はにこにこしていた。


「二年生の定番教材は、向田邦子の『字のない葉書』かな」

「はい。実習先から提案された教材の中に『字のない葉書』もありました。でも、去年から教科書が新しくなって、一年生のときに学習していたみたいなんです。改めて私が指導するのは、生徒が退屈しそうですし、別の教材にしました」


 教材の名に、大森は吐息をつく。


「素敵なめぐりあわせだね。月夜や波打ち際という言葉が、生徒達に幻想的な詩だと感じさせるだろうね。範読は腕の見せどころだ。日本語の響きと韻律の美しさを、耳で味わわせてあげたいね」

「はい! 先生のおっしゃる通りです!」


 選んだ詩には、浜辺で拾ったボタンを捨てられない「僕」の心情が描かれていた。繰り返される言葉によって、何とも言えない気持ちが印象強く感じさせられる。

 作中では「指先に沁み 心に沁みた」ボタンの色や形について、語られることはない。ボタンが捨てられない理由を、想像力を通して考えることによって、鑑賞を深めることができる。「僕」の心情に焦点を当てて読ませることで、月夜の浜辺の情景について理解させて深い学びにしたかった。学習指導案に書いた「言葉がもつ価値を認識させ、思いを伝え合おうとする態度を養う」という文言が達成できるといいのだが。


「道徳の準備はどう? 担当教科の指導案より、書くの難しくない?」


 道徳。特別な教科道徳。そんなことは知っている。補助教材を使用していた旧来の道徳と比べ、国の検定を受けた教科用教科書の使用が義務づけられた。また、道徳を学ぶのは授業だけではなく、学校の教育活動全体で行う指導に変わった。大切なことは、道徳も担任が授業をするということだ。教育実習生も例外ではない。

 晃太朗の顔は真っ白になった。


「何も準備できていません。すっかり忘れていました……」

「ありゃあ」


 しばらく天井を見上げた大森は、電話を指差した。


「電話で教材を確認しておいた方がいいよ。教育実習に入っちゃうと、教材研究なんて悠長にする時間はないからね。実習簿の振り返り欄で、かなり時間が取られてしまうだろうし」


 大森が卒論の添削をしている間、晃太朗は実習先に電話した。運よく休み時間で、すぐに教材名を教わった。勉強熱心ねぇと感心する電話口の声は、木漏れ日のように温かかった。



 ■□■□



 教育実習前からドタバタしたせいで、楠香る学び舎にはしゃぐ気持ちは起きなかった。

 控え室として通された体育準備室の時計が七時二十五分を指す。職員室に挨拶するのは二十分後、ほかの実習生はまだ来ていない。

 実習の手びきを読み直していると、白髪混じりの先生が入ってきた。晃太朗はパイプ椅子から立ち上がり、元気よく挨拶した。


「おはようございます。松田さんですね。初めまして。伊織いおり登世子とよこです。三週間よろしくお願いします」


 晃太朗の担当が、女性の先生ということは知っていた。教育実習前の顔見せは子どもの発表会で不在だったため、人柄に触れるのは今日が初めてだ。

 きびきびとした雰囲気は、演劇研究の茨木先生と酷似していた。無駄は天敵と言わんばかりの表情に、晃太朗は逃げたくなる。愛想笑いが通じない相手は苦手だ。


「職員会議まで時間があるので、教室に行きましょう。登校してきた生徒が連絡帳と自主学習ノートを出しに来るので、松田くんはカゴを運んでくれますか?」

「分かりました」


 晃太朗はメモ帳をカゴの中に入れ、運ぶのを手伝った。


 二年四組の掲示板には、今月のクラス目標が貼られていた。第四週には中間テストがあるらしい。目標の平均点に、届きますように。勝負の行方を見守ることが叶わない教育実習生は、力いっぱい願った。


「連絡帳は個人情報が書かれているので見せられませんが、自主学習ノートは松田さんにチェックしてもらいたいです。お願いできますか?」

「はい。喜んで!」


 生徒のノートにスタンプや書き込みをするのは、教育実習の楽しみの一つだ。晃太朗はわくわくした。四組には、どんな子達がいるんだろう。


 その答えは、職員会議の後で明らかになる。

 朝学活の時間、晃太朗は教卓の横で顔を輝かせた。


「気をつけー! 礼!」

「おはようございます!」


 号令が懐かしい。晃太朗も背筋が伸びていた。


「皆さん、今日から教育実習生さんが来てくれています。自己紹介をお願いできるかしら」

「はい」


 教室の一番高い場所に立つ。模擬授業で何度も立ってきた場所なのに、今日の光景は格別だった。自分を見つめる瞳の多さに、緊張と誇らしさを覚える。


「皆さん、おはようございます。教育実習生の松田晃太朗と言います。大学では太宰治や芥川龍之介について学んでいました。私の授業がきっかけで、国語をもっと好きになってもらえたら嬉しいです。三週間という短い期間ですが、よろしくお願いします」


 拍手の温かさに涙腺が緩みそうになる。


「松田先生に質問がある人はいますか?」

「はいはーい! 松田先生は彼女いないんですか?」


 ぶしつけな質問が来ることの予想はできていた。


「いません」


 その一言で教室はどっと沸いた。


「かっこいいのに意外」

「絶対、作った方がいいのに! 毎日が楽しいよ」

「このクラスだったら誰と付き合いたいですか?」


 黄色い声に晃太朗は苦笑いをした。

 中学生は純粋だ。恋愛は甘く楽しいものとばかり感じている。彼らはまだ知らない。片思いやすれ違いは、喉が裂けるように痛むことを。


「もう少しでチャイムがなるので、質問はまた後にしてあげてください。どうやったら国語ができるようになるのか、勉強の質問も大歓迎ですよね」

「そうですね。皆さんの勉強の疑問が消えたら嬉しいです」


 朝学活が終わった後、自主学習ノートの回収係が名簿とカゴを渡しにきた。


「ありがとう。一人で持って重くない?」

「もう慣れたよ。いいトレーニングになるし」

「タフだね。すごいよ」


 力こぶを見せる男子に、晃太朗は感心した。カゴを受け取り、体育準備室へ戻ろうとした。


「松田先生、運ぶの手伝ってあげようか?」

「気遣ってくれてありがとう。でも、次の授業は移動教室じゃないの?」

「平気。うちの足なら余裕だもん。貸して。手伝ってあげる」


 礼を言おうとした晃太朗は口ごもる。担当クラスの名簿は今朝渡されたばかりだ。まだ顔と名前が一致できていなかった。


「えっと……」

「ゆなだよ。小勝負こしょうぶゆな」


 晃太朗の眉は引きつる。

 気を悪くした様子を見せることなく、ゆなは晃太朗の抱えていたカゴを持った。


「小勝負さん、助かったよ」

「名字はいや。下の名前で呼んで」


 それはできない。

 教育実習前の講義で、厳しく注意されていた。生徒をあだ名や下の名前で呼んではいけない、生徒と連絡先を交換してはいけない、限られた生徒とだけ交流をしてはいけない。ほかにも注意事項は山ほどあった。


 実習生としての立場を忘れる行いは、大学に迷惑がかかる。留年してまで教員免許状取得にこだわった身としては、たかが一人の生徒のためだけに機嫌を取りたくなかった。おまけに、夕凪を想起させる名前だ。名を呼ぶごとに、魂をすり減らしてしまいそうだった。

 晃太朗はやんわりと断る。だが、ゆなは懲りずにまとわりついてきた。

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