第18話 教育実習生の受難

 晃太朗は、教育実習生と会話した記憶がない。美術の先生だったことは覚えている。授業でゴッホと浮世絵の話をしてくれた。連絡帳に書いてくれた担任の似顔絵は、よく似ていた。三週間の思い出は淡い。


「次も授業見学なの? うちの近くにいてよ。分からないところがあったら、松田先生に聞きたいの」


 まさか、ここまで馴れ馴れしい生徒がいるとは予想外だ。

 晃太朗と目が合う度、ゆなは見えないしっぽを振った。腕を掴まれ、当てられる膨らみに知らん顔をした。ゆなの誘惑を受け流そうとしていたが、三日後に伊織から注意された。


「松田くん。特定の生徒しか関わっていませんよね。クラス全員のことを見てあげていますか?」


 限られた生徒とだけ交流をしてはいけない。大学で注意された項目の一つだ。晃太朗はショックだった。どの生徒にも、分け隔てなく愛情を向けていたつもりだった。


「申し訳ありません」

「生徒の日々の様子や小さな変化に気づくことができるように、常にクラスのことに注意を向けてください」


 三十五名の様子を、欠かさず見守る。先生の視野の広さを改めて感じさせられた。

 メモは増え、表紙に二番が記される。


 試験のために学ぶことをやめなさい。合格のため、ではなく意味のある学びへ変えていきましょう。

 一行でもいいから、自分の言葉で書いてみませんか。新しい発見ができた記念として、ノートに証を刻みましょうよ。

 教科書は手で持って。声を聞かせたいのは机の木目ですか。教室全体に聞こえるように、大きくはっきりと声を出しましょう。この詩で反復法が使われているところは。ほかにも同じ表現のところはあるかな。

 書けていない子もいるから班で意見共有しようね。先に書けている人が発表してあげて。


 実習生に対して厳しい伊織は、別人のように朗らかな声を出していた。板書を一生懸命に写す生徒の姿が生き生きとしていて、伊織のような授業がしたいと思った。



 ■□■□



 実習二週間目に入ると、いよいよ生徒の前で授業をする。朝学活の挨拶で、晃太朗は宣伝した。


「今日の国語は私が担当します。頑張って準備をしたので、皆さんもしっかり授業に参加してくださいね」


 口にした瞬間、不要な言葉だと感じた。自分の頑張りをアピールしてどうする。晃太朗は自分をなじった。

 そばで胸中の修羅がうずく気配を察知した。くしくも、その予感は当たった。

 伊織は教室を出た後で咎める。


「生徒が頑張るのは普通です。持論を押しつけた松田さんの説明で、やる気をなくす生徒が出てしまったら責任を取れますか?」

「大変申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」


 謝罪の定型文が、嗚咽を引き起こしかけた。伊織の指摘は、教職の講義で最初に習った内容だ。基本を忘れていることが情けない。

 体育準備室に戻ると、止めていた涙が流れた。ほかの実習生が笑い合う声が聞こえ、乱暴に目元をこする。


 楽しみにしていた初授業は失言しないかどうかが気になり、声も表情も硬くなってしまった。想定していた生徒の分からない語句は出ず、分かるだろうと思っていた波打ち際を解説した。

 給食の時間に教室へ入ると、生徒は口々に言った。


「松田先生、授業面白かったよ」

「一時間目だったけど、寝ずに頑張れた!」


 生徒の笑顔を見れば見るほど、晃太朗は苦しくなる。自分が楽しめなかった授業を、生徒は本当に楽しめたのだろうか。

 中学生向けに甘みを残した麻婆豆腐が舌を刺す。




 五時間目の時間を利用して、授業参観と実習した記録を書いていく。


「いちにーさんっしっ。ごーろくしちはち」


 グラウンドのかけ声が響く。ソフトボールの快音も聞こえたら、憂鬱な気分も晴れそうだ。晃太朗がメモを繰っていると、伊織がドアを開けた。


「松田くん。今空いていますか?」


 模擬授業の振り返りをしに来たようだ。晃太朗が頷くと、伊織は隣の席に腰を下ろした。


「大学でも模擬授業をしていたでしょうが、実際に生徒を前にしてどうでしたか?」

「予想していた反応と違ってびっくりしました。範読の際、気になった表現に線を引かせるように指示をしたのですが、机間巡視のときに確認すると引いていた生徒は数名しかいませんでした」

「そうでしたね。次の授業では、どういう声かけをしたいと思いましたか?」

「『僕』の心情が一番よく分かる部分に線を引かせた方が、考えさせながら聞くことができたのではないかと思いました」


 先生が一方的に話すのではなく、晃太朗に発言させている。何てことはない会話のはずだったが、教師としての手腕の差を感じさせられた。

 伊織は微笑を浮かべた後で、授業の講評をする。


「色チョークを使いすぎです。本来、色チョークは重要性を強めるものです。むやみに使うと、ノートを見返したときに分かりにくくなります。それから、国語で左側から右側に戻るのはよくありません。全部消して書き直した生徒が何人もいましたよ。書く順番を間違えたときは、後で書くからスペースを空けておくように、指示しておけばいいのです」

「……はい。勉強になります」


 同じ過ちを繰り返さないように、ボールペンを走らせた。ペン先が紙を破り、指で優しく穴を埋める。


「分かりやすい授業はクラス全体にとって優しくなります。もちろん、できる子への配慮も欠かせません。私の場合は、早く解き終わった生徒にレベルを少し上げたプリントを渡すようにしています」


 目から鱗が落ちる。できない子の声かけばかり考えていた。


「来週の研究授業までに、仕上げていきましょうね」


 晃太朗は、ほかのクラスでも経験を積んだ。号令前に伊織が晃太朗の紹介をしている間、やることを整理していた。


 本時の目標は「詩の情景や表現技法を読み味わうことができる」ことだ。詩を音読してリズムを味わった後で、口語自由詩と六連構成を理解させる。板書計画と略案の指導案は、印刷している。教卓に置き、頭が真っ白になったときのお守りにするつもりだ。


「チャイムが鳴りましたので松田先生、号令をお願いします」


 教室の後ろへ行く伊織に頷き、晃太朗は号令をかけた。

 生徒が着席してすぐ、授業で扱う教材を知らせた。題名と作者名を黒板に書く。

 月夜の浜辺。中原中也。中の字が歪んで見えるのは気のせいだ。


「昨年の夏に海へ行った人?」


 晃太朗の質問に、大半の生徒が手を挙げる。


「海に行った時間帯はいつでしたか? 朝? 昼前? それとも夜?」


 朝と昼前が多く、夜の時間帯はいなかった。

 ここまでは想定通りだ。


「じゃあ、夜の海に行ったことのある人はいないんですね」


 腕時計は三分を刻んでいる。授業の導入としては、ちょうどいい時間だ。


「この詩は、夜の海が描かれています。どんな情景なのか、想像力を使いながら読み解いていきましょう」


 晃太朗は教科書を開かせ、生徒の手本として音読を始めた。



 月夜の晩に、ボタンが一つ

 波打際に、落ちていた。


 それを拾つて、役立てようと

 僕は思つたわけでもないが

 なぜだかそれを捨てるに忍びず

 僕はそれを、たもとに入れた。


 月夜の晩に、ボタンが一つ

 波打際に、落ちていた。


 それを拾つて、役立てようと

 僕は思つたわけでもないが

  月に向つてそれはほうれず

  浪に向つてそれは抛れず

 僕はそれを、袂に入れた。


 月夜の晩に、拾つたボタンは

 指先に沁み、心に沁みた。


 月夜の晩に、拾つたボタンは

 どうしてそれが、捨てられようか?



 音読を終えた後、教室は静まり返っていた。詩の内容は、つまらないだろうか。晃太朗は手の震えを見せまいと、声を張り上げる。


「では、次は皆さんで音読しましょう。私が読んだ後に、続けて音読しますよ。準備はできましたか?」


 話を聞いているのか、伝わっているのか動きがない。晃太朗は自分の顔に不安が出ないよう、最後まで声を出し続けた。




 伊織の評価は芳しくなかった。


「何を学ばせたかったのかがブレていました。スタートは分かりやすかったですけどね。分からない語句の説明で、時間を使いすぎていた気がします」


 鬼頭先生、俺は教師に向いていなかったです。まだ第二週の火曜日なのに、校舎から飛び降りたい衝動が何度も襲います。一階の体育準備室の窓から。身を投げ出しても顔面を殴打するだけで、死にきれないって分かっているはずなんですけど。


 晃太朗は右の手の平に爪を食い込ませた。

 弱気になるな。ここは小夜の母校だぞ。泥を塗るんじゃねぇ。


 伊織は晃太朗の目を見ずに、学習指導案のコピーに視線を落とした。余白は赤ペンが羅列していた。


「忍びずと沁みるはともかく、袂の説明は短くなりませんか?」

「和服になじみのない生徒にとって、袂がどこにあるのか想像できるでしょうか?」

「イラストを描いてもいいですが、電子黒板で写真を見せたら一瞬です」


 伊織の指摘に、晃太朗は反論しなかった。チョークで絵を描く時間を短縮できる。


「そもそも、めあてが硬いですね。詩の情景や表現技法を読み味わうことができる。これは教師側のねらいです。生徒がやってみたいと思うようなねらいに変えてください」

「分かりました」


 次の時間はまた別のクラスの授業がある。伊織からもらったアドバイスを活かし、何とか修正したい。


「松田くんは、国語の授業が好きでしたか?」

「嫌いになったことは一度もありません」

「実習は失敗していいんですよ。失敗しても私がフォローします。ですから、怯えた目をするのはやめなさい。心から楽しんでいれば、生徒も頑張ってついてきます。ハンカチはありますね?」


 伊織の指摘に、晃太朗は泣いていることに気づいた。涙もろくなかったはずなのに、感動できるという謳い文句があれば泣けないはずなのに。


「すみません。伊織先生の言葉で泣いた訳ではないんです。伊織先生は何も間違っていないので」

「思い詰めていると、どんな言葉でもナイフのように深く傷つけられます。私のことは気にせず、思い切り泣きなさい」


 涙を出し切り、晃太朗はめあてを書き直した。「僕」の思いを想像して、詩の情景に入り込もう。




「『僕』はどうしてボタンを捨てられなかったのかな?」

「はい! ただで手に入ったボタンを捨てるのは、もったいないからだと思います」

「そうですね。拾った人にとっては得をした気持ちになれますね。遠いところから運ばれたボタンを、手に入れることができましたから」


 晃太朗の言葉に、分かったと発言した子がいた。


「波打ち際ってことは、ボタンが波で流されちゃうってことだよね。『僕』はきっと、一語一句を感じたんだよ」

「それを言うなら一期一会だろ。一語一句ってないわ」


 晃太朗はゲラゲラと笑う子を諌め、発言してくれた勇者を褒めた。


「鋭い意見です。だからこそ『僕』はボタンを捨てられなかったのかもしれませんね」

「すごいじゃん! 谷口!」


 谷口と呼ばれた女子生徒は、照れくさそうに白い歯を見せた。


 授業が終わった後で、谷口は伊織に話しかける。


「伊織先生、お昼休み暇ですか?」

「そういうときは、お時間ありますかと聞くのですよ。先ほどの言い方では、相手が不愉快に感じてしまいます」

「分かりました! 伊織先生、昼休みはお時間ありますか?」

「えぇ。一時からは職員室に戻っていますよ」

「じゃあ、そのときに図書だよりの原稿を見せます」


 微笑ましいやりとりに、晃太朗は目を細めた。半ば飛び跳ねるように階段を駆け下りる。


「あっ。松田先生だぁ」


 踊り場でゆなと目が合う。階段を上り、晃太朗との距離を詰めた。


「最近、うちとしゃべってくれないの淋しい。忙しいの?」

「小勝負さんとも仲よくしたいけど、ほかの子とも仲よくしたいんだ」

「みんなと、なんて欲張りだよ」


 ゆなは、晃太朗のネクタイを手繰り寄せる。薄い桃色の唇が頬に近づいた。


「ゆなだけを見て」

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