第19話 劣等生のあがき

 道徳の本時のねらいは、省略することが許されていなかった。指導解説書の文章を丸写ししなくてもよいが、扱う教材の中心的学習を踏まえた上で詳細を書く必要があった。文末の形も、ある程度は指定されている。

 過ちから逃げない「コウくん」の姿を見つめることを通して、誠実な行動の素晴らしさを実感させるとともに、困難や過ちに対してごまかすことのない誠実に生きようとする心情を育てる。


 指導項目の誠実が嫌と言うほど染み込む略案は、思わず排水溝に顔をつけたくなる。机上の理論にうんざりするのは、教師失格だろうか。


 おもちゃ屋へ出かけた祖父が交通事故で死んだ原因は、コウくんが冬に花火がしたいと駄々をこねたから。作り話とは言え、むやみやたらに登場人物を殺さないでほしい。家族を亡くした生徒が、悲しい記憶を呼び覚ます。涙もろい生徒にとっても、人前で泣く恥ずかしさが苦痛になるように思える。

 晃太朗でさえ、この教材を授業に使いたくなかった。告白を断られた小夜が頸動脈を掻き切っていたらと思うと、死んでも死にきれない。


 コウくんを人殺しと罵った従姉妹は、おじいちゃんを返してほしい気持ちだったはずだ。駄々をこねたコウくんを許せない。顔も見たくない。

 そんな思いが想像できるからこそ、同じ言葉を小夜の両親にかけられた場合を考えたくなかった。


 自分は、子どもの模範になれるような人物ではない。人に迷惑をかける恋しかしていなかった。罪な人だと笑い飛ばせるほど、お調子者になりきれない。


「人生には、努力しても償いきれないことがあります。ですが、コウくんのように過去と向き合うことは、大変勇気のいることです。皆さんが感想に書いたことを、この先も忘れないでください」


 従姉妹に許されても、コウくんの罪は消えない。コウくんは一生涯、自分を責め続ける。晃太朗は穏やかな口調で授業を締めくくった。

 残り二日で、自信を持てるようになった。最初は従姉妹に好感を持っていなかった生徒が、授業の最後に共感的な態度を見せたことは大きな成果だ。


 目を合わせてくれないゆなを、晃太朗は視界に入れなかった。


 頬に触れる前に、ゆなの唇を人差し指で押さえていた。


「やめちゃうの? 先生が拒否しなかったら、初めてをもらえるんだよ?」

「小勝負さんだけ特別扱いはできない」


 夕凪に示せなかった拒絶の意志を、ゆなにはきっぱりと言い渡した。


「そういう優等生の答えはいらないの」


 ネクタイが強くねじられる。再びゆなの顔が眼下に迫る。

 晃太朗は拳を握りしめた。階段に渇いた音が鳴り響く。一度ではなく、ゆなが解放するまでずっと。


「松田、せんせ……? 何で先生が自分の頭を殴っているの? やめて、やめてよぉっ!」

「小勝負さんが離れてくれるまでやめない」


 ずきずきと痛む頭を、晃太朗はなおも殴る。自分で力加減ができたが、あえて抑えることはしなかった。異常者と思われた方が、ゆなの執着は終わると思った。


「分かったから! もう先生なんて知らない。そんな人だと思わなかったよ……」


 泣きじゃくるゆなを、晃太朗は放置した。どうせ年の近さから親近感を覚えただけだ。憧れを恋愛感情に取り違えられるのは迷惑でしかない。


 夕凪のときも同じだったけどさ、俺は小夜以外で勃ったためしがないんだわ。心を渡せる相手は、今も小夜しかいない。


 誰が聞いているか分からない廊下で、呟けない捨てゼリフを胸中に隠す。

 馬鹿と天才は紙一重。かつて自分のみを案じてくれた友達の声が聞こえた気がした。




 ゆなとろくに話さないまま、三週間の教育実習が終わる。世界の誰よりも「月夜の浜辺」を熟知した人になった。

 担当クラスからもらった色紙とスイートピーの花束を、晃太朗は抱きしめていた。三十四人分の思いが沁みる。ゆながクラスメイトに告げ口しなかったおかげで、村八分の制裁を受けることはなかった。むしろ晃太朗に同情する声が多かった。


 女子の人気が高いので、ひがむ男子に絡まれないように注意してほしいです。まっ! 俺の人気には勝てないけどね!

 実習生って聞くと見習いのイメージがあるけど、全然そんなことなかったです。「めっちゃ先生!」って感じでした。

 音読の声がイケボすぎて、耳がとんでもないことになりました。これからも頑張ってください!


 伊織以外誰もいなくなった教室で涙の跡を拭う。


「この教室は思い出の場所です。私の一つ下の幼なじみが、この教室を使っていたんです。テスト週間は一緒に帰れるので、よく廊下で待ち合わせていました」


「松田くんの幼なじみは、竹野内小夜さんですか?」

「ご存じなんですか?」


 伊織は遠い目をしていた。


「竹野内さんが卒業する年に、副担任をしていました。小説は得意だけど、評論文になると元気が減ってしまう生徒でした。それでも音読のときは、小説を読むときと同じくらい背筋の伸びるようないい声をしていましたね。さすが放送部員だと感心したものです。大人しい性格で、意見は書いていてもクラスメイトに発表を譲ってしまって……優しい子でした。優しすぎて、相談する相手がいないことが心配になる子です」

 

 卒業して数年を経ても、伊織の記憶の中に残り続けている。仕事とは言え、それだけ小夜を気にかけてもらえたことは嬉しい。


「本当は生徒の個人情報を他人に話すべきではないのですが。あなたには伝えておいた方がいいでしょうね。私は今から指導教員ではなく、竹野内さんの元副担任として話をします」


 伊織の口から何が飛び出してくるのか。晃太朗の背は自然と伸びた。


「竹野内さんは小学校のときから、いじめを受けていました」



 ■□■□



 借りていた本を延長するために、晃太朗は大学図書館を訪れる。卒論の参考文献として、もう一冊借りておきたい。


「この間、借り出されていた本はどこに行ったかな」


 もう十一月になっていた。新書のコーナーから移動されていた。

 ページに張り付いた羽虫の死骸が、明かりに反射して七色にまたたいた。

 虫の目は潰れきっておらず、判別することができた。自分が爪を立てて落とさない限り、文字の檻から永遠に抜け出すことはない。本が羽虫の背負う十字架に見えた。崇高な遺物と言っても差し支えない。


「石川啄木の『ローマ字日記』にまつわるページじゃなかったらな」


 晃太朗は息を吹きかける。羽虫はびくともしない。

 啄木亡き後、妻はどのような思いで日記を残したのだろう。夫の浮気の証拠を後世に引き継がせるのは、妻なりの復讐としか思えない。

 

「おっ。この引用、卒論に使えそう。孫引きになっちまうから、出典に当たらないとな」


 検索用パソコンへ向かおうとすると、机に倒れ込む人々が目についた。

 寝るつもりで来てほしくない。読んでいるうちに幸せな気持ちが満たされて、うたた寝をすることはある。貸出や読書するつもりがないのなら、門をくぐらないでくれ。バイト前の英気を養う仮眠室ではないのだ。


「もう二十一なんでね。いい加減、彼氏がほしい訳ですよ」


 バイト先にやってくる感傷的な客と、ひどく似ていた。実習先の中学生の方が、図書館の利用方法を理解していたため、みっともないと感じた。

 少し離れた場所で、小夜がちらちらと視線を泳がせていた。注意しようか迷っているようだ。安息の地を守ってやりたい。


 だが、小夜と関わることはできなかった。小夜の人生にさらなる悪影響を与えられない。本人と話すことはできなくても、小百合さんから近況を聞いていた。

 竹野内家を訪れるときは、いつもケーキをごちそうになっていた。


「俺はもう子どもじゃないんですよ。小夜も大きくなりましたし、いつまでもご好意に甘える訳にはいきませんよ」

「ですって。智則さん」

「いいじゃないか。私達にとっても大事な子どもなんだから」

「晃太朗くんに高い高いして、通報されかけたぐらい仲よしだったわね」

「そんなこともあったねぇ」


 夫婦の会話に割り込めない晃太朗の手を、智則は握りしめた。


「晃太朗くん、竹野内家の婿に来るかい?」

「おこがましいですよ」

「私達は大歓迎なんだけどな。新しく作ったシルバーアクセサリー、晃太朗くんは試着してくれるしね。最近の小夜は、私の趣味に全く付き合ってくれないの。遅れてきた反抗期なのかも」


 晃太朗の耳には、三角形のイヤーカフがつけられている。ピアスやイヤリングと比べれば、耳が痛くならない。


「俺は小百合さんや智則さんの思っているような人じゃないですよ」

「そうね。見違えるくらい、大きくなっちゃって」


 幼稚園のときのように、晃太朗の頭を撫でた。大きくなっても、可愛く思うものらしい。


「あのイヤーカフ、もう一つ作っているのよ」


 小百合はお見通しと言わんばかりにウインクした。


「渡したい相手は、もういるんでしょ。それまでは預かっておくから。時間をかける方が、いい仕上がりになるのよ。作品も、人間関係も」

「ハムも熟成した方が美味しいですからね」


 苦味も人を成長させるために必要な要素だ。

 

 同期の身代わりを引き受けてしまった年は、バイトを減らして休日返上で課題を仕上げた。睡眠時間を削り、図書館にこもってでも。間違っていると頭では分かっていたが、約束を違える方が我慢できなかった。

 試練なら、いつも乗り越えていた。学年首位を守り続けたころの方が、緊張と戦っていた。だから、大学の厳しさに打ちのめされたのだった。


「どうして不認定かって?」


 大森はマグカップを置きながら答えた。ペパーミントの香りが鼻を刺す。以前、気分転換に飲むのだと大森は話していた。ハッカ臭がやる気を引き出してくれるようだ。歯磨きで寝ぼけ眼が覚醒するため、あながち間違いではないのかもしれない。

 晃太朗は鼻を摘みそうになるのを耐えた。研究室に広がっていた古書の香りが、ペパーミントに置き換えられてしまうのは悪夢だ。


「きみの課題が、複数名のレポートと酷似していたからだってさ」


 怪しきものは罰せられる。


「僕は逆だと思うけどね。文体を見れば分かる。きみが不認定になるのは間違っているよ。許されない行為をしたが、きみだけは自分の意見を形にした。卒論で見返そうよ。クオリティの差を見せつけるんだ」

 

 科目等履修生として、働きながら単位を取る道もあった。しかし、四年で卒業するレールから外れ、卒業論文を提出しない選択をした。

 三年生向けの教職の講義を、晃太朗は針を飲むような気持ちで受けた。同期は教育実習に行き、生徒と楽しく過ごしていた。晃太朗に課題を押しつけた奴らも。あの悔しさを昇華させたかった。


 図書館には、睡魔の囁きが飛び交っていた。あごが襟にめり込むほど、首が垂直になっている。

 ふと、小夜の卒論を思い出した。優等生と谷崎という取り合わせは笑える。題目を初めて見たとき、吹き出しそうになった。泥中に咲く蓮は健気で美しい。晃太朗が掴むことが許されない、天使の神聖さのようだ。思えば、小夜は昔から天使が似合っていた。


 カトリック系カトリック教会が経営する幼稚園で、年長組はキリスト降誕劇を演じることが定番になっていた。晃太朗は卒園した翌年も見に行っていた。

 小夜は天使役の一人に立候補していた。白い衣装に、銀色のモールでできた冠が映えた。しゃがむタイミングを一人だけ間違えていたが、焦りから泣き出すことはなかった。両手を大きく広げ、微笑する。彼女こそが受胎告知を担う天使のように、堂々としていた。


 小夜の近くに寄り添うことは許されないが、同じ空間にはいたい。

 晃太朗は文献を調べ終わった後で、漢字検定の過去問を解いた。


 読みの問題で、手が止まる。逡巡。しゅうじゅんと、しゅんじゅん。どちらが正しかったか。何度も消し、しゅんじゅんと書き直す。


 正解は、しゅうじゅんだった。迷っている時点で、捨てている問題だ。自信を持てない自分が悪い。

 小夜のいた席に、彼女はもういなかった。

 

 迷っている場合じゃない。小夜が卒業すれば、県外に行くかもしれない。ますます手の届かない存在になっていく。


 長年秘めていた思いだけは伝えて、玉砕しておこうかな。下心を持って、小夜を追いかけた。


「ラッキー、いい財布見っけ」

 

 久しぶりの会話だった。たとえ小夜が敬語だとしても嬉しかった。

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