第20話 王子は遅れてやってくる

 財布を捨てた理由を問い詰めると、朔磨にフラれたことが分かった。


『本当は僕なんかよりも、もっといい人と結ばれるべきなんです』


 酒の席で聞いた弱音は、こういうことだったのかと腑に落ちてしまう。

 梅林なら任せられると言ってあげたのに。なんて奴だ。お兄ちゃんの期待を裏切りやがって。

 晃太朗は小夜に手を差し伸べた。


「どうせ処分に困っているんだろ? それなら俺がもらっていいか? ちょうど買い換えようと思っていたんだ」


 朔磨に贈ろうとした財布であっても、小夜が愛情を込めたものなら大事に使う。ブラウンの長財布を、晃太朗はショルダーバッグに入れた。

 小夜と同じゼミにいながら、特に関わろうとしてこなかったツケは大きい。何を言っても地雷を踏み抜きそうで、世間話の選び方に苦労する。必死に考えている晃太朗の服装を、小夜が褒めた。愛用のイヤーカフが母親の手作りとは思いもしないだろう。


 頭を撫でられても、小夜の暗い表情は変わらなかった。

 

「もう今日は帰ります。話題の化粧品をチェックして、新しい服買って。居酒屋で一人ヤケ酒してやりますよ」

「そんなことしたら悪い虫が寄ってくるだろ」


 小夜の可愛さに嫉妬した女子、振り向いてほしくて意地悪をする男子。小夜に危害を加える輩は、夕凪だけではない。晃太朗は伊織から話を聞いたときと同じように、奥歯を噛みしめた。このまま一人帰せば、酔っ払いに絡まれる可能性は十分にありえた。


「いいんですよ。新しい恋が見つかるなら」

「駄目だ。自分の心を大事にしろ」

 

 小夜が自傷に走るのは許せない。抑えきれない怒気が厳しい口調にさせた。ごめんと謝るのは、小夜に先を越された。


「俺はいいんだ。電話でよければ愚痴に付き合うぞ」

「ありがたいですけど、何だか申し訳ないです」

「素直に頷いておけよ。誰にも泣き顔を見せたくないんだろ」


 小夜の目尻がきらきらと光る。草の上に下りていた露のようだ。

 きらきらと光るあれは何なの?

 高貴な身分の女に憑依した、鬼頭の声を思い出す。


『白玉か何ぞと人の問ひし時露と答えて消えなましものを。白玉か何ぞとは、女のセリフでしたね。大事に育てられた女は、初めて見た露に好奇心と恐怖を感じていました。だから、一番信頼する人に訊いたのです。でも、男は先を急ぐあまりに、女の問いを答えてあげなかった。幸せだったうちに、自分も露と同じく消えていれば、こんなに苦しい思いをしなくてすんだのになぁ。反実仮想のましと、詠嘆ものをは現代語訳できていますか?』


 白玉かの和歌は、助動詞と縁語の解説が必須だ。先行研究や、教科書会社が作る指導解説書にも明記されている。晃太朗は模擬授業で学習指導案を作るとき、件のセリフの直前に着目した。


 芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を――。


 露の縁語は、「消ゆ」以外に「置く」がある。蔵の中で姿を消してしまう女のはかなさを、動詞「置き」が暗示しているように思えた。現在の位置から語る語り手は、結ばれない運命が変えられないと理解している。見過ごしがちな地の文は伏線を秘めていたのではないかと、晃太朗は新発見に歓喜した。自動詞「置く」に、霜や露が降りる意味があると知るまでは。門外漢が偉そうに考察した羞恥心は、しばらく残り続けた。


 あの恥ずかしさと比べれば、キザな言葉を並べることはどうってことない。


「我慢するな。俺といるときは自然体でいてくれ。敬語じゃなくて、タメ口でいいから」


 晃太朗は小夜に腕を伸ばしていた。相合傘をしたときは、晃太朗の胸元に小夜の顔が埋もれることはなかった。守り続けていた距離がゼロになる。


「もう怖くないよ。小夜の不安が消えますように」


 精神的に弱っているときに告白することはしなかった。手段を選ばないのは、人間として終わっている。



 ■□■□



 もう自分から手放さない。

 晃太朗は愛おしそうにブラウン色の財布を撫でた。もらったはいいものの、普段使いで落としてしまうのは避けたい。


「たんす貯金の封筒を捨てて、こっちを使うか」


 糊が弱くなった封筒の役目を、新たな宝物に任せることにした。

 上機嫌な晃太朗を、スマホの着信音がさらに浮かれさせる。


「小夜? 今日も電話、繋ぎっぱなしにしていいぞ。眠たくなったら、いつでも寝て構わないから」


 元彼と電話していた時間帯は、愚痴吐き大会と化していた。小夜のバイト先の面白エピソードに吹き出しそうになるのを、晃太朗は毎回堪えていた。

 都合のいい男で構わなかった。小夜が望むのなら空気になれる。


 その決意とは裏腹に、いささか自己主張の強い空気になった。

 

「これ以上、ほかの奴につまみ食いされたくないんだわ」


 晃太朗は嫌われてもいいと思い、小夜の耳たぶを甘噛みする。

 念願だった初デートの帰り、獰猛な獣が首をもたげた。


「抵抗できないまま、大事なものを奪われていいのかよ」

「食べていいよ。松田先輩」


 小夜の目には迷いがなかった。食べられることの意味を知らない子どもではなかった。恋の駆け引きができる女性に成長していた。


「酔ってテンションがおかしくなっているかもしれませんけど、私は撤回しませんから。あなたに食べてほしい、です」

「そんな可愛いこと言われたら……断れる訳ないじゃんか」


 もつれそうになる口を動かす。手遅れだと知っていても、あのときの誤解をほどこうとした。


「俺、嘘ついてた。第二ボタンを渡す約束なんて、誰ともしてなかったよ」

「じゃあ、どうしてあげられないなんて強気で断れたんですか?」

「そんな強気だった? 俺の記憶だと、丁重にお断りしたつもりだったんだけど。小夜を傷つけちゃっていたら、ごめんね」


 傷つけちゃっていたら、じゃねーよ。あれはどう見ても喜んでいる態度じゃなかっただろ。

 晃太朗は、心の中で己を滅多切りにする。


「傷つきましたよ。義理でもらおうとしてるなんて言われたら。好きな人の言葉だから、余計に傷つきましたよ」

「そうだよね。二回言われるくらい、俺はひどいことを……」


 晃太朗は俯きかけて、大事な言葉を聞き流していることに気がついた。


「今、さりげなく好きって言ってくれた?」


 小夜が頬を掻く。それだけで肯定だと分かる。


「そっか、そっか。小夜はあのころから俺のことを意識してくれていたんだね。てっきり片思いだと思っていて、変な見栄を張っちゃったなぁ。でも、小夜が大胆な告白をしてくれて、俺はすごく嬉しいよ」


 また嘘を重ねる。夕凪との関係をなかったことにして、晃太朗は小夜の手を取った。

 ここにいれば、人目を気にせずにショコラ色のリップを乱したくなる。歓楽街へ小夜を誘った。



 ■□■□



 小夜が眠り姫なら百年も眠らせない。晃太朗は起き上がり、眠ったままの小夜の唇にキスをした。

 元彼との思い出を忘れろとは言わないけれど、悲しい記憶だけは俺に預けてくれ。失恋の苦しみを一人で背負う必要はないんだ。


 小夜は目を開けた。


「夢じゃないよね」

  

 晃太朗は、起こしたことを謝ろうとした。昨夜というより、少し前まで夢中で抱いていた。

 

「嬉しい。だって目の前に晃太朗がいるから」


 照れくささに、晃太朗は視線を逸らす。鏡に写る背中から目が離せない。男を知っている肌とは思えない純真さに、息を呑む。


 もう一度、襲ってしまおうか。本気で思いはしたが、欲望を鎮める。


「チェックアウトは十時までだけどさ。小夜は、二限に講義を取っているよね」

「今日はさぼる」

「行きなさい。一回でも休んだら、秀の評価が取れなくなるでしょ」


 渋る小夜にキスをあげて、機嫌を直した。


「お風呂を沸かしたから一緒に入ろう。それとも先にご飯にするか?」


 晃太朗は小夜の体を洗った。

 肩から腰にかけて、小さな赤い痕が浮かんでいた。その鮮やかは、デイジーの花びらを振りまいたようだ。


「痛くないか」


 一緒の湯船に入りながら、小夜は首を振る。晃太朗の体に唇を這わせた。


「おそろいにならない。キスマークつかなかった」


 晃太朗の胸板に、痕は残っていなかった。


 いや、もう十分ご褒美をもらえたぞ。むしろ、このままだと糖分の摂りすぎで死ぬんじゃないか。ほんと冗談抜きで。


 のぼせた晃太朗はそそくさと服を着る。うっかり牙を立てないように、ベビーピンクの下着姿から視線を逸らした。


「似合っているよ」


 小夜の顔は赤くなる。


「私はどうして、さっくんにファーストキスをあげちゃったんだろう?」


 忘れ去られている。晃太朗はわざとらしく肩をすくめた。


「やっぱ覚えてねぇよなぁ」

「ごめんなさい」


 小夜は笑顔でいてほしい。


「ま、俺は一生忘れられないけど」

「ずるい」

「大人はずるいからな」


 体裁を気にする厄介な生き物だ。

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