第21話 愛してる

 小夜を大学に送った後で、晃太朗は魔王の棲まう城へ乗り込んだ。

 昼まで年休を取っていると聞いていた。職場は車で二十分程度の距離だが、早いうちにケリをつけた方がいいと思った。

 晃太朗はインターホンを押し、宅配業者のような声色で用件を告げる。


「おはようございます。晃太朗です。朝早くに訪ねてしまい、申し訳ありません。小夜の荷物を届けに来ました」


 ドアはすぐに開き、スーツ姿の小百合が顔を出す。


「高校の友達と別行動したんじゃなかった? 晃太朗くんが小夜の荷物を持っているってことは、朝までずっと一緒だったの?」

「……はい」


 はぐらかすだけ印象が悪くなる。晃太朗は素直に認めた。


「ゴムは足りた? 中出しはしてないでしょうね」

「なあっ……! 小百合さん、声! 声が大きいです! 朝っぱらから何をのたまっているのですか!」


 小夜に似た美人の口から飛び出た言葉は、晃太朗をうろたえさせた。登下校の時間はとうに過ぎているため、青少年に訊かれる心配はない。しかし、ドアが半分開いている状態では、智則に聞こえてしまう。

 某大学過年度生Kくんが人妻を寝取る。そんな記事を書かれたら、社会的に死ぬ。


「おばさんになると余計なことまで話しちゃうから、困ったものね。思ったより初々しい反応が見られて安心したわ。外は寒いでしょ。ちょうどコーヒーができたところだから、晃太朗くんもどうぞ」


 小百合は家に入れ、小夜の荷物を受け取った。菓子折を持参しておけばよかったと晃太朗が後悔していると、朱色の唇がゆがんだ。リビングまで聞こえよがしに言う。


「自分から挨拶に来てくれて嬉しいけど、順番が違うんじゃない? この間は結婚に否定的だったのに、ちゃっかり付き合い始めて。大きくなったら小夜と結婚するって宣言してくれていたときの方が、可愛げがあったわよ。ねぇ、智則さん」


 智則の両肘は机の上に立てられ、両手を口元で組んでいた。レンズが鋭く光る。

 婿に来ないかと誘っていたのは、本気ではなかったのか。いつになく威圧的な智則に、晃太朗の背は丸まりかけた。


 しっかりしろ、晃太朗。幼なじみという肩書きに、一生甘んじるつもりか。

 智則に寄り添う小百合とも、視線を合わせる。


「この度、小夜さんとお付き合いをさせていただくことになりました。順序が逆になってしまい、大変申し訳ありません。物心ついたときから、小夜さんのことを愛していました。幼なじみから恋人になる決断をするまで長い月日が経ちましたが、これからは小夜さんを恋人として、今まで以上に大切にしていきます」


 頭を九十度下げた。教採の二次試験面接よりも緊張した。

 智則は咳払いをする。


「小夜への気持ちは分かった。ところで晃太朗くん」


 癪に障る言葉があったのだろうか。固唾を呑んで、耳を傾ける。


「本当にうちの娘を愛しているのなら、私のことをお義父さんと呼ぶことに抵抗はないよね」


 頭の中が大量の疑問符に襲われた。交際の挨拶に一人で来たとは何事だ、ヤるだけヤって交際報告など非常識ではないのか。そんな罵倒を予想していた。智則の発言を要約すると、お義父さんと呼べ。これは承諾の流れと認識して間違いないはずだ。


「おと……智則お義父さん」


 智則は口元で組んでいた手をほどく。頬には一筋の線が引かれていた。泣くほど晃太朗のことが嫌いだったらしい。


「我が人生一片の悔いなし」


 メガネを外して目元をこすった。にこやかに微笑む様子は、いつも通りの智則だ。


「倫太朗がずっと羨ましかった。こんなに天使な息子に恵まれていて、写真を一枚も寄越してくれないのはひどいだろう。小夜と一緒に写っている写真は、運動会の昼食しかないんだぞ。芋掘りに学内バザー、餅つき大会とか、ありったけの写真フォルダを転送してくれればいいのに」


 智則のイメージが崩壊していく。自治会長やPTA会長などの堅いイメージは見る影もない。子ども好きという認識はあったが、こうさよという推しカプへの愛が深いとは思わなかった。

 藁に縋るように、晃太朗は小百合を見つめた。


「はぁ。うちの息子の顔がいい。人気アイドルにも負けていないわ」


 寿命が延びると言わんばかりに、小百合の顔は恍惚としていた。どこの家庭も似た者同士が集うものなのか。

 息を吐く晃太朗に、小百合は両手を叩いた。


「ちょうどいい頃合いよね。私が預かっていたイヤーカフ、イニシャルは入れる?」

「お願いします」


 クリスマスの朝、小夜の耳につけてあげたい。

 上向きの三角形を、重々しく受け取った。



 ■□■□



 小夜の両親に報告した晃太朗は、小夜が講義を受けている教室へ行く。離れたがらなかった今朝の様子を思うと、喜んでくれるはずだ。

 予想通り、小夜は晃太朗の手を握った。朔磨に見せつける形になったのは偶然だった。責めるのは晃太朗ではなく、後ろ向きになった自身にしてほしい。晃太朗は追い討ちをかけるために、唇を重ねようとした。顔を傾けた晃太朗は、小夜の視線が朔磨を向いていることに気づく。


 元彼との思い出は、三週間ごときで消せない。小夜の呼吸が合わないときに、自分本位のキスをするのは躊躇した。顔を引っ込め、駅前のスーパーで買っておいたペットボトルを取り出す。

 小夜の好みは昔と違っているかもしれないが、会話のきっかけになればいい。ささやかな優しさを、小夜は甘酸っぱさで返した。

 ココアがくどくて、喉をさっぱりさせたかっただけだとしても。晃太朗が口をつけた場所を確認しなかったことは、充分に恋愛感情があるだろう。万年片想いの思考回路がショートし、晃太朗はむせた。


「晃太朗くん、二十五日はシフトを入れてる?」

「今月は入ってるけど……あっ、クリスマスの予定か。その日は何もないよ」


 恋人と過ごしたい最大のイベントを忘れていた。


「クリスマスケーキは予約しているから、晃太朗くんの家に持って行きたいの。友達とパーティーをしたり、家族で外食したりする予定を入れちゃ駄目だよ」

「分かった。ケーキは小夜担当ね。じゃあ、料理は俺に任せて。何を作ろうかな。キッシュ、グラタン、ポークソテー。考えるだけで楽しくなる」

「私も手伝っていい? だいぶ料理できるようになったんだよ」

「それなら一緒に作るか。小夜と台所に立つの、すげー嬉しい」


 一品だけ任せようかと思ったが、分け合う方が美味しさも幸せも膨らむ。クリスマスまでに買っておきたいものの話になるのは、時間がかからなかった。


「晃太朗くんの家は、クリスマスツリーをまだ残してる?」

「大きいのは捨てたな。ガラスのフラワーベースならたくさんあるから、ツリーの代わりにオーナメントを飾るのはどうだ? 透明なガラスに映えると思うぞ」

「大人のクリスマスって感じだね! いいと思う!」


 晃太朗は違和を感じた。


「何に悩んでいるの?」

「クリスマス当日じゃないんだけど、アドベントカレンダーがほしいなって」


 カウントダウンのために作られた二十四日間のカレンダーだ。シンプルなカレンダー型のほか、電車や家をかたどったものがあった。数字が書かれた扉を開けば、一口サイズのチョコレートやクッキーを取り出せる。


「子どもっぽいかな?」


 意外だと思ったが、反対する気は湧かなかった。


「それは小夜の家に置かないか? 毎朝迎えに行くから、そのときに開けよう。勝手に取り出して食べたら駄目だぞ」

「いいの?」


 小夜の顔が再び不安そうになる。

 これくらいの提案すら怯えないでほしい。いや、ここ一年は朔磨に遠慮してきたのだ。悪い癖が抜けないのは仕方がない。晃太朗は、一人納得した。


 今年は鬼頭に年賀状を出そう。和行と平井にも。

 教師になれること、幼なじみとの恋がようやく実ったこと。伝えたい情報がたくさんある。

 龍のイラストを建仁寺の双龍図のようなかっこいい系にするか、ぬいぐるみらしいデフォルメに仕上げるか。三人に渡すなら、小夜にもメッセージカードを用意してあげようかな。早く絵描きアプリを起動させたくなった。



 ■□■□



 十一時半の食堂は、人気ランチが余裕で買える。ビーフストロガノフを待ちながら、晃太朗は小夜に囁いた。


「駅前のクリスマスツリーの点灯式、今日からだって。どんな感じになるのか楽しみだな」


 返事がない。小夜の顔を覗き込んだ。


「小夜?」

「ごめん。どこまで話していたっけ?」


 付き合う前の方が笑っていた。学内には、朔磨との思い出の場所が至るところにある。食堂もその一つに違いない。


「まだ……」


 未練があるのかどうか尋ねることはできなかった。小夜の苦しむ顔は見たくない。


「あ。竹野内さんだ。ねーねー、梅林と別れたってほんと? あいつ、何にも話してくれなくてさ。俺的には、まだ竹野内さんのことが好きな感じに見えるんだよね。竹野内さんは、実際のところどうなの? 仲直りしてもよさげ?」


 ブランドのロゴが入ったトレーナーが、小夜の隣に並んだ。相手の都合に合わせない物言いは、あいつ譲りだ。晃太朗は小夜越しに睨む。


「松屋晃汰くんだっけ? 演劇研究の茨木先生が、講義に出ていないって心配していたよ。履修登録を外していないから、松屋くんが取りやめていたのを知らないみたいだった」

「あれか。にーちゃんに聞いたら、面倒なババアって言ってたんだよね。レポートの代筆に気づかれそうになったから、楽な講義じゃないって。履修登録を外すの忘れていたくらいでキレるとか、講義に出なくて正解だったな」


 晃汰は肩をすくめた。


「そんなことは置いておいて。竹野内さんは、梅林のところに戻らないの? あっという間にクリスマスが来ちゃうよ。梅林は予定を開けているみたいだし、戻るなら早いほうがいいと思うな。別に、梅林から伝言してくれって頼まれている訳じゃないから、返事は直接言ってやりなよ」

「私は……」


 小夜は晃太朗と目を合わせなかった。邪魔者はさんざん空気を壊した後で、ラーメンの列は隣だったとほざいた。

 湯気の上がるビーフストロガノフは、全然温かそうに見えなかった。



 ■□■□



 駅前のクリスマスツリーを七回通り過ぎた。点灯式の日の写真と、小夜の物憂げな表情は変わらなかった。


 まだ魔法をかけてあげることはできる。晃太朗が翻弄させた心を、王子様に修復してもらえばいい。アドベントカレンダーはまだ開けたばかりだ。晃太朗は小夜と約束を交わした。


「明日の朝、ご飯を作りに行っていい?」

「大好き。晃太朗の料理」


 本当に心から愛しているのなら、苦しそうに言わないはずだ。弱っていく小夜を、晃太朗は抱きしめられなかった。

 一晩中考えたが、晃太朗の決意は揺るがなかった。


「元の関係に戻らないか?」


 朝食を済ませた後、晃太朗は小夜に笑いかけた。


「元のって?」

「幼なじみとして振る舞えばいいだけだ。この間まで、自然にこなしてきたし。難しい話じゃないよ」


 小夜の唇が震えた。


「どうして」

「俺といると小夜がしんどそうだから」

「そんな理由で……」


 俺にとっては重大な理由だ。

 小夜は平然としている晃太朗の胸倉を掴んだ。


「どうして、やり直そうなんて簡単に言えるの? 私達はもう、ただの幼なじみじゃないのに」

「たまたま家が近所だっただけだ。小夜と同じ年の友達が近所に住んでいれば、俺と仲よくなることはなかったはずだよ。それだけの関係なんだ。運命なんて呼ぶのは馬鹿げている」


 晃太朗は言わないでいた疑問を口にした。


「小夜は隠し事をしているから。本当は、今も元彼と繋がっているんだろう?」

「私がそんなに信じられない?」


 小夜は泣いていた。


「晃太朗くんだって、隠し事があるよね。いつも着けているイヤーカフ、元カノからもらったものなんでしょ? 刻印されたイニシャル、MでもKでもないもんね。怪しいと思っていたんだ」


 セックスをするときはいつも、イヤーカフを外していた。晃太朗が寝ている間に、浮気していないか確認していたらしい。


「晃太朗くんなんて、だい……」


 怒りに任せて最後まで言うことはできなかった。小夜はいつも他人の顔に左右されている。晃太朗の顔を見て何を思ったのか、確認するまでもない。


「もういいよ。小夜の気持ちは分かった」


 晃太朗は席を立った。竹野内家の敷居をまたぐことはない。そう思いながら靴を履く。


「俺はどこにいても、小夜の幸せを祈っているよ」


 ドアが締まってから、晃太朗は呟いた。

 小夜、短い間だったけど誰よりも愛してた。

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