第22話 袖のよごれ
紺色と鼠色のアクリルガッシュを混ぜた空は、雨が降りそうな予感に駆られる。電柱から明け方の街を見下ろす烏が、縄張りを主張するように短くさえずった。朝帰りではないけれど、逢瀬を邪魔する響きがある。
昨日の花は今日の夢。二週間に満たない夢から覚め、砕けた断片を頼りに生きる。
後悔はない。戻るべき巣へ、雛を誘導してあげただけだ。
卒論の締め切りは一ヶ月を切っている。ゼミも、一緒の講義も残り少ない。二月以降は実質的に春休み期間になり、学内で遭遇する可能性は限りなく低かった。互いに新生活に向けて準備をするだろう。別れた損失は微々たるものだ。踏み出す勇気が小夜にないのなら、お兄ちゃんが手本として振る舞わなければいけない。
晃太朗は胸を押さえた。たくあんと天かすのおにぎりで、胃もたれを引き起こしてしまった。倒れるようにソファへ身を転がす。
目を閉じても寝つけなかった。小百合と智則はあんなにも祝福してくれたのに、期待を裏切ってしまったことが後ろ暗く感じた。
「また奇行に走ってる。暖房をつけていないと凍死するわよ。あんたは悪霊になりそうだから、早々に死んでもらうのは勘弁してほしいわ。ポストの新聞とレモネード、よろしくね」
パステルカラーのルームウェアを着たほのかが、晃太朗の背をぺちぺちと叩く。
「ただソファで横になっているだけなのに」
「こたつにすら入らない自堕落は、うちには必要ありません」
ご所望の品を献上すると、ほのかは澄ました顔をした。
「ついでに起き上がれたんだから、倫さんの服を洗っておいて。忘年会で酒臭くなったから、どうもやる気が起きないのよ。晃くん、時間があるみたいだし。やってくれると助かるなぁ」
「ずるいなぁ。その言い方」
ぬるま湯にシャツを浸けた。
君來るといふに
白シヤツの
袖のよごれを氣にする日かな
首周りを、洗濯石鹸でこすり洗いをする。着慣れたシャツは、手入れを疎かにすれば黄ばんでしまう。入学式のために買い揃えた数着から学んだ。
「小夜に会えるから、身だしなみに気を遣っていたのにさ。自分から手放すなんて、どうかしてる」
馬鹿だ。俺は馬鹿だ。同じ間違いを繰り返す。
「朔磨はいい奴だと思うよ。だからって、あいつの言葉に翻弄されるなよ。その場のノリで動くような人種だぞ」
洗濯機に放った衣類を、力なく眺めていた。
「晃くん、電話。知っている人?」
窓が開き、ほのかがスマホを差し出した。
画面に表示されないが、思い当たる人物は一人だけいた。松屋
着信拒否にしてしまえば、小夜に被害が及ぶかもしれない。それだけは阻止したかった。
『松田。元気にしていたか?』
こちらの都合を無視した話し方は、あいかわらずだ。
『今スゲー溜まってんの。俺に付き合ってくれるよな?』
「俺はまだ学生なもんで、社会人様の高尚な願いに応えるには制約がかかりすぎてしまうんですよ。ほかの方にうかがってみたらどうです?」
数合わせのための合コンなんか、まっぴらごめんだ。
『できたら苦労しないわ。どいつもこいつも、仕事だの彼女だの断っちまうんだよ。友達も大事だろうが。友達を大事にしない奴なんて、どうせ彼女とすぐ別れるっつーの』
俺はお前のことを友達だと思っていない。晃太朗は心の中でツッコんだ。
『松田さ、幼なじみいただろ。俺に紹介してくれよ。晃汰経由でいいから』
「な……!」
舌がカッと熱くなる。
『ははっ。じょーだん、じょーだん。横で晃汰に怒られたわ。狙っているんだとよ』
巽巳は高らかに笑った。
『月華も素直に抱かせてくれればいいのに。キスはやめてくれとか可愛げがねぇよな。高校時代に付き合っていたときは、さんざんヤらせてくれたんだぜ。意味が分からなくね?』
沖元月華を冬の魔女にさせたのは、巽巳が関係しているのか。疑念をもたらしたまま、巽巳は電話を切った。愚痴の掃きだめのような扱いだ。
「どこの馬の骨とも分からない奴に、大事な宝物を譲ってたまるかよ。梅林に託したときも、手放しで喜んだ訳じゃねーんだ。あいつの弟に奪われるくらいなら、梅林に接触するか……」
自室にこもり、晃太朗はイヤーカフを弄んだ。内側のKの刻印をなぞる。
ファーストキスでさえ消えているのに、他愛のない話を覚えていられるはずがない。覚悟していたが、悲しみを感じないことはできなかった。
「ほかの女の子はみんな同じものを持っているのに、小夜だけ輪に入れてもらえないの。小夜のことが嫌いなのかなぁ」
泣きじゃくる小夜の背を、幼い日の晃太朗はさすった。
「おそろいって憧れるのか?」
「そりゃあそうだよ。好きな人と同じマグカップを使うの、将来の夢なんだ。でも、一番憧れるのは、シルバーアクセサリーかな。婚約指輪には早い段階でも、ほんの少し背伸びすれば届くから。しばらく使っておいて、記念日にお互いのイニシャルを交換するの。素敵だと思わない?」
真ん丸な瞳を輝かせた小夜に、頷かずにはいられなかった。
「じゃあ、お兄ちゃんに任せて。小夜と一緒に使えるもの、調べておくから」
「本当? 約束だよ!」
小指を絡ませた少女のために、長い時間をかけて特別な贈り物を探し続けた。
数十年後の晃太朗は呟いた。
「小夜のためのイヤーカフだったんだ。でも、小夜の価値観が昔と違っているんだったら、これはもういらないよな」
晃太朗は自身のイヤーカフを外した。
同じイニシャルなら、製作者の小百合の名を出せば誤解が解けた。そうしなかったのは、元カノという名前を出されたからだ。友達とも彼女とも表わしがたい夕凪との月日が、脳裏にちらついた。小夜に知られないうちに、別れる方が得策だと思った。袖の汚れは隠せても、過去を隠しきることは難しい。
「何曜日の回収に出せばいいんだ?」
潰せない愛の象徴を、朝の光に照らした。
〈第2章 明け烏の目覚め/了〉
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