第44話 満ち欠け
「親友はつらいときに助けるものでしょ。あんたは朝陽を二度救ってる。うちはまだ、あんときのお返しができてないのよ。だから、あんたが絶交するって言っても聞いてやんない」
「束縛系彼女は重たくて敬遠されるぞ」
「心配してくれてんの? 任せて。それを旅行で克服してくるつもりなんだ!」
全休と祝日を利用して、一泊二日の旅行に行くらしい。
お土産は期待していなかったが、クリスマスイブの昼にプレゼントが届いた。
イエローバードのキーホルダーをバッグにつけ、月華は大学へ向かった。
すれ違う人が月華に頬を染める様子に、手応えを感じた。マスクをつけていても、整った顔立ちは伝わるらしい。デスクトップのパソコンが並ぶ自習室を、月華は訪れた。一番後ろの席に座り、標的を見つめる。
紫のニットに花柄のスカートを合わせた彼女は、大ぶりなピアスをつけていた。雫のチャームが涙のように揺れている。
「レポートはできたけど、クリップとかホッチキスで留めなきゃだよね? どうして今日に限って持ち合わせていないのよ。購買に駆けって行くしかないじゃん……でも、提出場所のロッカーに鍵がかかるのは十五時までだし。このまま出した方がいいのかな」
「みちる、もう俺の手伝えるところは終わったよな。そろそろバスに乗らねぇといけないから帰るわ」
みちるは男の手を掴んだ。
「晃汰先輩、部室まで着いてきてくださいよ。みちる一人じゃヤなんです」
「は? 俺はもう引退してるんだよ。この時期に顔を出したら、映画撮影を最後まで手伝わないといけなくなるだろうが」
月華は反射的に身を縮める。体が液晶モニターに収まっていた。晃汰が責めるときの口調は、兄とよく似ている。部屋を出ていくまで、月華は過呼吸にならないように口を押えていた。計画を中断する訳にはいかない。
月華は心の中で発声練習をして、みちるに近づいた。
「ホッチキスないの? 僕のを貸してあげるよ」
「いいの? めっちゃ助かるんだけど!」
彼女の顔は、光に満ちていた。欠けることを恐れない表情に、苛立ちが込み上げる。
上着の裏地には、テディベアみたいなモコモコの素材が使われていた。月華も以前、似たような服を持っていた。
デートで着ていけば、暁夫が好きだと言ってくれた。守ってやりたくなると。
月華は、みちるの上着に悲しそうな視線を向ける。娘が着ていたものを、微笑ましく思っただけだ。娘に直接与えることのできない愛情を、月華で発散させていた。あなたの大事なもので、鬱憤を晴らしてもいいよな。あなたは、そうされても仕方のないことをしたんだから。月華が拳を握りしめると、みちるは明るい声を出した。
「沖元先輩にそっくり! 弟ですか?」
今日の月華はパーカーではなく、赤いセーターを着ていた。胸の曲線は、男装用のインナーで消している。喉と肩幅を調節すれば、女性に見える確率は激減した。
月華は目を伏せ、架空の弟を作り上げる。
「そうだよ。姉さんが有名になって、肩身を狭くしてる」
「そっか、そっかぁ、社不が身内にいると苦労するよねー」
どんまいとみちるに肩をさすられ、月華の眉間にしわが寄りかけた。社不とは、社会不適合者のことを言っている。あろうことか、暁夫の娘にレッテルを張られるとは。癪に障ったものの、月華はにっこりと笑った。
「誰だって認めたくないんだよ。誘惑に負けた自分の弱さを。だから姉さんだけを悪者に仕立て上げるんだ。悪いのは、そそのかした魔女だって」
「ウケる。あんたマジ最高。何て名前なん?」
「
みちるは、嬉々としてホッチキスを留める。
「暁月くん、もし時間によゆーがあったらさ。レポート出すまで一緒におってくれん? 一人は怖いの」
猫撫で声に、背中の毛が逆立つ感触を覚えた。月華が犬ならば尻尾を高く上げ、ゆっくりと振っていたはずだ。我慢だと自分に言い聞かせる。
「いいよ。僕のレポートはメールで出したところだから、いつでも付き合えるよ」
「つ、付き合えるって……そんなこと、言われたら誤解しちゃうじゃん? 誰にでも言ってたら、暁月くんも痛い目を見ちゃうよ。気をつけてよね」
「友達として仲よくなったら駄目なの? みちるちゃんとは趣味が合いそうだから、もっと話したいと思っただけなんだけどな」
月華は理由を説明した。
「帽子、とても似合っているよ。かがやきだね」
「分かるの?」
「西日本ではお目にかかれないよね。青い車体に銅色のライン、僕は好きだよ」
みちるは頬を抑える。もう一押しあれば、暁月に寄りかかるはずだ。そろそろ移動しようかと声をかけ、提出場所へ促した。最後の木の葉を落とすために、風はうなり声を響かせていた。月華は十四時半を指す時計を見上げる。
「あっ……」
横のみちるは、レポートを落としそうになっていた。
「晃太朗先輩、彼女いたんだ……」
近代文学のゼミは、数分前に終わっていた。上手くいけば鉢合わせると推測していたが、神の計らいは意地が悪い。
みちるのほどけたマフラーを、月華は結び直した。風邪を引くよと囁きながら。
「あんな幸せそうな顔をされたら、もう他人が入るスペースがないじゃん」
月華はみちるの顔を覗き込んだ。父と同じように、本命ではない異性と快楽を得るのか。想い人と結ばれない悲しみを抱きながら、一人寝の侘しさに耐えるのか。彼女の選択を見据えた。
「暁月くん、うちのことを……」
消え入りそうな声の中には、しっかりと芯が通っていた。月華はすがりつく罪人の娘を静かに包み込んだ。
「男の子なら分かってるよね。イブに抱いてって頼むのは、セックスの意味じゃないの?」
「みちるちゃんは、僕とセックスしてもいいって思っているんだね」
会話を録音されていることを知らぬまま、みちるは同意した。迷いなく罠に落ちてきた獲物に、狩人は牙を向けた。
■□■□
黄昏時はとうに過ぎていた。朔磨のバイトが終わったころに、月華は電話をかけた。
「梅林、会いに行っていいだろうか」
『どこに行けばいい? 今、最寄りの駅に着いたところなんだ』
「じゃあ、階段を降りてくれ。バス停のところにいる」
ダッフルコートを着た朔磨が、月華に駆け寄った。バニラの香りを嗅いだとき、月華の涙腺が緩む。
「梅林、伝えなきゃいけないことがある。僕は浮気していたんだ」
「うん。難波さんから、それとなく聞いてる。月華が自分から話すまでは、黙っていてほしいと釘を刺されたよ。既婚者だって知らされていないまま、関係を続けたんだよね。月華のことを、誰が責められるの? 誰も責められる訳がないよ」
穏やかな許しを受けても、喉を刺す塩気が消える日は来ない。月華は罪を犯した。暁夫の娘の処女を奪った。爪の間に残る紅は、口を埋め尽くした酸味を思い出させる。
「男として抱いてあげたの? 裸は見せてないよね?」
「用があったのは、あいつに辿り着くまでの鍵がほしかったからだ。僕は何もされていない」
いつか婚約指輪になればいいねと渡された指輪を、ダイニングテーブルに置いてきた。挿入のないまま花弁を散らされた娘に、暁夫はどのように慰めるのか。結末は藪の中だ。復讐をやり遂げた月華に、朔磨は甘やかに囁いた。
「舌を出して」
限りなくかなしと思う。梅の蕾は自分に微笑んではくれないと腹をくくっていた。みちるを受け止めた口を、朔磨が上書きする。
「僕も汚れた。月華のそばにいたいと願ったから」
「汚れたなんて言い方はやめておけよ。竹野内さんが悲しむだろ」
月華は唇を重ねる。
どうせ捨てられる運命ならば、骨の髄まで味わいたい。自分は人を惑わす魔女で、狂気の月だ。
行き交う車の音が止まってから、朔磨は下げていた袋に手を入れる。
「本当は明日渡そうと思っていたけど。月華にあげる」
一度は惹かれたアイシャドウパレットに、月華の手がぴくりと震えた。
「もので吊ろうと思ってなんかいないよ。月華のことが頭に浮かんだんだ」
そんなこと言って、本当は元カノに渡すために予約していたんだろ。渡す相手がいなくなったから、都合のいい自分に渡しただけじゃないのか。否定的な考えが浮かぶ。だが、燃え尽きたと思っていた恋の炎は再び火の粉を巻き上げた。もののあはれは白き灰がちの火こそまされ。
〈第5章 とことわの埋み火/了〉
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