第6章 宵の稲妻
第45話 よろしく
夜露死苦。紙に書いた文字を、朔磨は瞬時に消した。これではヤンキーの当て字だ。好きな単語を上代特殊仮名遣いで書けと言われても、急には出てこない。教授とのメールに必ず使う言葉で、課題と向き合っていた。席を立つ学生が増え始め、集中力がかき乱される。提出したら退出可という指示は、朔磨にとって嬉しくない。最初の一歩を踏み出すまでが長かった。進んだとしても慎重さがスピードを鈍らせる。
教授に渡された一覧を、穴ができるかと思えるほど凝視していた。余。余り者を彷彿させるから嫌だ。誉。あなたのために、よい評判を取ってみせよう。いつの時代の従者だろうか。現代でそのセリフを使用できるのは、上司にすり寄るときに限定されそうだ。よろしくってもっと、新しい出会いを喜んだり、縁を大事にしていきたいって願ったりする言葉のはずなのに。
朔磨は、字を吸収した消しゴムを転がした。難しく考えなくていいよと教授は言った。上代特殊仮名遣いは、必ずしも言葉の意味通りに文字を並べた訳ではないのだからと。朔磨の気楽に考えられない性格は、言葉の裏を読み取ろうとしてしまう。揺さぶりに動じないことが、本当は求められている気がする。
こんな卑屈な自分でも歓迎してほしい。学習状況リサーチの学習意欲の項目だけは、毎年カンストを叩き出している。春から始まる就活で、やる気の高さを買ってもらえないだろうか。
さすがに都合がよすぎると感じた最中、しっくり来る字に目が留まる。勘で繋ぎ合わせた文字を、そのまま提出した。
吉路志群。
一仕事を終えた充足感を抱きつつ、喫煙所に赴く。友達はすでに二本目の煙草を吸っていた。
「遅い。あんな課題に時間をかけすぎじゃないか」
「晃汰、ごめん」
朔磨は胸ポケットから五ミリの煙草を取り出した。マダカスカル産のバニラビーンズが香り立つ。火をつけると、控えめな煙草の香も漂った。副流煙の匂いに、友人は顔をしかめる。
「まだ吸っていたの? 甘すぎて喉が渇かない?」
「晃汰みたいにメンソールばかり吸っていたら、物足りないかもね」
中盤から顔を覗かせる辛味がよい。朔磨は静かに煙を吐き出した。喫煙を親に知られた日には、不良になったと泣かれそうだ。晃汰の格好も、誤解を生みかねない。幾何学模様のロングシャツは、ヤクザ映画の下っ端の衣装みたいだった。デニムバルーンパンツとコンバットブーツは黒色で、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
晃汰は空へ伸びる煙を見つめた。
「梅林、お前も合コンに参加しろよ。俺一人だと、自己紹介のときに学歴マウントだってマイナス評価になんの。有名大学の名前に惹かれて入ったつもりはねーんだけどな。友達を連れていった方が緩和される気がする」
「僕を道連れにするのはやめてよ。人に話せるネタもないし」
研究対象を漫画にしている晃汰と違い、朔磨は盛り上がれる話題を持ち合わせていない。『万葉集』における色彩について語ったところで、化粧直しに行かれるのが関の山だった。彼女達の興味は、自分の可愛さに釣り合う恋人候補だけだ。
「おいおい、ひでぇ面だなぁ。そんなんじゃ面接試験全滅するぞ。ちったぁ興味を持たせるエピソードを用意しとけ」
「強みを話す段階で落とされるよ。即戦力にならなすぎる」
毎時間ごとのコメントペーパーも、レポート型の定期試験も延長してもらっていた。さすがに社内での期限を伸ばすことはできない。間に合わなければ、取引先の信用に関わる。朔磨だって要領の悪い新人より、明るく向上心のある方を採用したいと思う。
人差し指と中指の先に挟んでいた煙草から、灰がこぼれる。朔磨はマフラーを焦がさないように、灰皿へ落とした。
「つまんねーの。連絡先を交換した子から返信来ねーしさ。さくっと卒論終わらせて、四年の夏に青春しようかな」
「そうしたら? 晃汰は文章書くのめんどくさがるから、今のうちに始めておいたらいいんじゃないかな?」
朔磨の言葉に、晃汰はよく分かってんじゃんと上機嫌な声を出した。
分かっているのではなく、教え込まれたせいだ。入学式でたまたま空いている席を見つけたために、腐れ縁も手にしてしまった。一服して帰ろうと思っていた朔磨の袖を晃汰は握る。
「付き合えや。俺が変な書き方してたら、横で指摘してくんね?」
すでに日本語が崩れている。話し方の指摘をしたかったが、晃汰の足は大学図書館へ向いていた。ノートパソコンを借りる背中は遠い。朔磨の意志は関係なかった。
席を探してあげていると、見知った顔が視界に入る。ゼミの女子が月華を取り囲んでいた。
「修羅場か?」
「どうして晃汰が嬉しそうなの」
朔磨がたしなめたとき、気まずそうな空気の流れが打ち破られる。
「沖元さん。再来週の金曜にゼミの飲み会があるんだけど、何か予定は入ってる?」
「不参加で」
きっぱりとした物言いに、不満の声は生まれなかった。不参加ねと念を押して去っていく。
月華はヒールを脱いでいた。足首の皮が剥けて、赤くなっている。朔磨はリュックのポケットに手を突っ込む。
「絆創膏、よかったら使う?」
「恩に着る。インターンシップ報告会がスーツ着用だったんだ。昨日思い出して靴を買いに行ったら、一つ小さいサイズしかなかったんだよね」
三ミリと五ミリの煙草でも味わいが変わる。ましてや靴のサイズは違いが大きい。妥協して買うくらいなら、スニーカーで行くべきだ。
「足元は見ないんじゃないの?」
「残念ながら、あの講義の教授は目ざとくてね。社会に出たら、甘えは許されないなんて言うんだ」
月華の示す教授は、学生からの評判がよくなかった。アルバイトでは社会経験したうちに入らないだの、資格取得は五つ以上が当たり前だの、自分の価値観を振りかざしていた。
「だからヒールを履いて行ったんだね。替えの靴も、持って行けばよかったんじゃないかな」
「荷物が増えるだろ。男子の革靴が羨ましいよ」
そんな羨ましがるものでもねーよ。いつもなら、晃汰の相槌が聞こえてくるころだ。不審に思った朔磨が辺りを見回すと、離れた席でパソコンを起動させていた。綺麗な人にはなりふり構わず口説いていたが、図書館では大人しく過ごすらしい。ちょっと意外だ。からかわれるのが目に見えているから、本音は心の中に仕舞っておく。
「沖元さんがゼミ飲みの誘いを断っていたのは、バイトがあるから?」
「僕が行っても迷惑なだけだ。一応誘うのは、教授の顔色が気になるからだろ。あいつらは、断ってくれたことにホッとしているはずだよ」
声変わり前の少年のような口調に、朔磨は驚いた。
「僕?」
素を出しちゃったな。月華は息をつく。
「ゼミ飲みに出ない理由。あれ、嘘なんだ。二次会のカラオケが嫌すぎてさ」
「沖元さんも苦手なの? 僕は音程が絶望的だから、親から人前で歌うの禁止されているんだ」
月華は笑わなかった。
「僕は、きみみたいに歌えないんじゃない。歌える曲が残っていないんだ。何てことはない歌詞に、男と一緒に歌った記憶がこびりついているんだよ。ラブソングは特にな」
世の中にはラブソングが溢れすぎている。歌詞の力を借りないと、大好きだとか愛してるなんて言えないのだろう。
「友愛とか家族の感謝の気持ちを全面に出しても、声が固まってしまうんだ。もう、愛なんて分からないよ」
月華にかける言葉を見失い、朔磨は晃汰の隣に座った。
「沖元はやめとけ。にーちゃんが昔付き合ってたから、どんな奴かだいたい知ってる。悪い奴じゃねーけど、自我を守らなかったら飲み込まれるぞ」
魔性の女だと説かれても、朔磨の興味は消えなかった。放っておけばすぐに死んでしまいそうな白い顔をしていた。『夢十夜』の第一夜に出てくる女のように。
失恋の痛みに苦しむ月華を、朔磨は励ましたつもりだった。
「半年ぐらいで人生終わった顔するなよ」
恋人を僕にしておけ、なんて言うつもりはなかった。元彼に囚われず、前に進んでほしいと願った。
「半年ぐらい?」
聞き返す月華を見て、傷つけてしまったことを理解した。よりによって気になる人を。
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