第43話 朝帰りの月

 図々しい頼みを、朝陽は受け入れた。ボアのついたルームウェアの腰にブランケットを巻き、魔女を家の中へ手招いた。


「おはよう。朝ご飯はもう食べた? ちょうど、ホットケーキ焼きすぎて、困ってたとこなんよ。温め直すから、カフェオレ飲んで待っといてくれん?」

「準備いいな」


 マグカップを持ち上げ、月華は息を吹きかける。冷蔵庫から取り出したばかりの牛乳は、猫舌にとって飲み頃の温度にさせてくれただろうか。

 すぐに飲もうとしない月華に、朝陽はすんすんと鼻を動かした。


「シャワーを浴びているから、精液の匂いはしないと思うよ。昨日食べた炭火の残り香じゃないか? ミニ七輪で焼き鳥をしたんだ」


 二人分の肉に火が通るまで、拷問のような時間だった。口に溜まる唾液を、静かに飲み込んだ。かいがいしく肉をひっくり返す男は多くいたが、何も言わずに息を潜めていたのは朔磨が初めてだ。


「煙草」


 朝陽は鼻をつまむ。かすかな臭いでも察してしまったらしい。


「悪い。一本だけだ。興味あるのって訊かれて、吸いかけをもらっちゃった」

「あいかわらず、ちゃっかりしてるのね」


 責めるようには聞こえなかった。


「間接キスしたかったのかもしれないな」

「美味しいの?」


 月華は答えに困った。


「よく分からない。横顔は綺麗だったけど、味は想像していたのと違った」


 この話はやめにしようと、月華は言った。

 僕は価値を語れる人間じゃない。ずるくて醜劣だ。今回のことで、朝陽の信頼も完全に失ってしまう。


 懐に潜り込むドブネズミの首を、一思いに噛んでくれたら。ホットケーキにかけられたチョコレートシロップは、赤黒く見えた。


「月華」


 高校と変わらぬ声色に、口に運んでいたフォークが震えた。


「バイト以外で、朝陽が呼び捨てにするの珍しいね」

「茶化さないで」

「すまない。それで、何を言いかけていたんだ?」

「小夜の元カレ、どう思ってる?」


 口の中いっぱいに、ホットケーキを入れておけばよかった。言いよどめば怪しまれる。月華は笑顔を作った。


「出会い方が最悪だった。僕のタイプじゃないから安心しなよ」

「嘘。朝陽、あんたがホテルから出たところを見たんだよ」

「人のデートに口出しするなんて、僕のおかんか」

「ごまかさないで。一つの部屋で男女がすることと言えば、決まり切っているじゃない」


 朝陽は右手で丸を作り、左手の人差し指を入れた。そんな仕草、小夜の前では絶対にしないくせに。


「入れてないからノーカンだよ。竹野内さん以外の膣内を知らない、純真無垢な子だ」


 朔磨の優しさに甘えて二泊した。和歌の優劣を語り合うのに、一日は足りなかった。特に、平兼盛と壬生忠見が歌合で競った一首は、それぞれの主張がぶつかった。お持ち帰りして普通のデートをするとは思わず、腰の痛まない朝が嬉しかった。セフレでも大切にしてくれる男は、長続きさせたくなる。

 月華はカフェオレを飲み干した。平手打ちでも、絶縁でも、腹づもりはできているのだ。もう会いたくないと言ってくれさえすればいい。


「ほんとショックだったんだよ。これ以上、危ない橋を渡ろうとしてない? お母さんは心配で夜しか眠れないわ」

「しっかり眠れているだろうが」


 昔のノリで、思わずツッコんでしまう。


「危ない橋なんて、今まで何度も渡ってきた。今さら失うものなんてない。同性からも嫌われるタイプだって自覚しているよ」

「そんなこと言って。あんた、本当は友達ほしいんでしょ?」


 朝陽の指摘を鼻で笑った。


「ないない。友達をほしそうに見える? 僕の噂、聞いているだろう」


 冬の魔女なんて、可愛い呼び名だ。彼氏を奪った不届き者、泥棒猫、我ながら最低な人間だと思う。

 小夜には恨みはない。大学図書館で会話をしたことが思い出される。大学に入学して間もないときの話だ。月華が運んだ脚立を使うように言っただけだが、背の低い彼女は飛び上がるように喜んだ。数年後に踏み台にされるとは、思いも寄らなかっただろう。


 彼女の彼氏になる人へ「十一ヶ月、続けてみろよ」と挑戦状を叩きつけたばかりに。一緒にいる時間の幸せと、別れる辛さを味わってくれよ。僕以外に彼女作ってさぁなんて、どうかしていた。あの約束はまだ有効かと、聞きに来る朔磨もいかれている。


 断ったはずだった。誰とも付き合えないと。月華には、やらないといけないことがある。それを成し遂げるまでは。いや、成し遂げたところで、朔磨とは釣り合わなかった。

 セフレとして過ごすことを許しているのは、非道な条件を満たしてくれた褒美だ。罪滅ぼしとも言う。


「親友が朝陽だけしかいないの、つまらなくない? 少なく深くの交友関係もいいけどさ、もうちょい周りに興味持ちなよ。とりま、そのパーカーを脱がせて全身コーデ見繕ってあげたい!」

「えっ?」


 月華は聞き返した。小夜を傷つけた張本人に、好意を向ける理由が分からない。怒っていないのか問いただしてしまった。


「そりゃあ、怒っていないと言ったら嘘になるよ。月華のおかげで、ハッピーエンド間近だったストーリーが動いちゃったもん。でも、新章の始まる予感がするから、楽しみは継続中なんだ!」


 サブキャラのルートが実装されて歓喜する、乙女ゲーマーの顔をしていた。

 なじられないことは、嬉しいようで落ち着かなくなる。

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