第42話 曼珠沙華

 夜風が商店街に吹き抜ける。頬をくすぐられ、月華は大型犬に舐められたことを思い出す。朔磨と目を合わせる気まずい空気に、一枚のチラシが入り込む。


「クリスマス限定コフレです。去年はすぐに完売してしまったので、ご購入はお早めにされた方がいいですよ」


 ティアラをあしらったアイシャドウパレットに、乙女心がくすぐられる。パレットに鎮座しているものは、ラメの入ったプラムやラズベリー色だ。冬場の暗くなりがちなコーデを華やかにしてくれるはずだ。

 月華はチラシを受け取ろうとしたが、すんでのところで思いとどまった。愛らしいアイシャドウパレットに、触れる資格はない。今の自分は、昔憧れたお姫様とかけ離れている。


 いつからか冬の魔女と呼ばれるようになっていた。いい名前ではないことも、理解している。

 自業自得だ。冬になれば人肌が恋しくなる。その元凶は、巽巳に体を許したせいだ。「お前に似合うのは、深紅の薔薇じゃなくて曼珠沙華まんじゅしゃげだな」と、巽巳は言った。サンスクリット語で天界に咲く花を意味する。


「嬉しい。曼珠沙華はトゲのない花だから。薔薇って言われるのは好きじゃないの」

「ばーか。曼珠沙華には毒があるってことを知らないのかよ」


 もちろん知っている。曼珠沙華には強い毒性がある。食べた先は彼岸でしかないため、彼岸花とも死人花とも呼ばれていた。

 月華は笑みを浮かべた。自分があえて知らないフリをしているのに、巽巳は無知だと信じ切っている。せいぜい幻想に酔えばいいのだ。巽巳とテスト勉強しなくても、余裕で高得点を叩き出せる。

 勉強という名目で気持ちいい思いができるから、見えすいた誘いに乗ったのだ。辰巳の部屋で上着を脱いだとき、とくんと下腹部に違和感を覚えた。


 腹部を切り、痛みだけを抽出したい。眠っていない時間は、得体の知れないものが腹の中でうごめいていた。荒波のごとく心身を削り取る。そろそろ二十八周期だった。


「今日もシていいよな」

「待って。そのつもりだったんだけど、あれが来ちゃったから」

「お前のせいで、こんなになったんだぞ。責任取れよな」


 巽巳は月華のショーツを脱がし、床にタオルを敷いた。


「やだやだ。本当に駄目」


 身をよじる月華の中に、中指が入ったのは同時だった。


「お前まじで嫌がる演技うまいよな。腟内からどろっと流れてきてるの、自分でも分かってる? 気持ちいいの止まらなくて、本当は嬉しいだよな。俺は知ってる」


 巽巳は引き抜いた指を見せた。付け根まで赤くなっている。


 男子は保健体育で何を習ったんだろう。生理が来た女子となら、避妊なしの性行為ができるとでも言うのか。


「そんっな、こと、ない」

「いいから。さっさと出し切れよ」


 望んでいないはずなのに、体をまさぐられる度に反応してしまう。


「付き合ってあげられるの、俺ぐらいだぞ」

「そうだな」


 月華の顔から、新しい人格が現れた。


「女の子の経血を、平気で触れる最低野郎だ。嫌だって言ってるだろ。もう別れてくれ」

「いいぜ。賭けようか。先に感じさせた方の言うことを聞く。異論はないよな」


 上から目線の巽巳に、月華は痛みの走る腹を抑えて頷く。


「こっちにも勝算はある。先輩の攻め方は、さんざん仕込まれたからな」


 月華は賭けに勝ち、朝陽の話題を消した。太陽にかげりは、ふさわしくなかった。疎遠になった親友が、高校までと変わらぬ笑顔を振りまいていればいい。たとえ自分に向けられていなくても。


 チラシ配りとすれ違った後、月華と朔磨の間に沈黙が流れる。手頃な価格が売りのイタリアンファミリーレストランや、行列のできたラーメン店を見向きもしなかった。


「月華、うちに寄ってく? 晩ご飯、作り置きしたものしかないけど、すぐに出せるよ」


 朔磨の言葉に、月華はもったいないと感じた。先に言ってくれれば、ホテル代が浮いたのに。考えることが暁夫と同じで、嫌気が差す。



 ■□■□



 電車のドアが開き、しわのないスーツが大量に出てくる。ホームで待っていた月華はあくびをした。


 七時二十二分の通勤ラッシュは、大学生が通学するには早い時間帯だ。それに、月華が履修する講義は午後だった。まだ布団の中でだらだらできる。遅い時間に寝たせいで、睡眠不足になっていた。


「お腹が空くと思ったら、炭火の匂いがついたままじゃないか」


 浅めの履き口のポインテッドトゥパンプスは、疲労で脱げやすくなっていた。歩きにくさに苛立ちが募り、裸足で歩こうか真剣に考えたくなる。


 頭上には月が出ていた。黄金色の化粧を落とし、白い肌があらわになっている。朝帰りは久しぶりだ。いけないことをしている気分になる。


「ただい……ま……」


 門を開けかけたとき、母の車に目を止めた。月華は来た道を引き返した。


 冷蔵庫に張られていた勤務表には、夜勤のマークがあったはずだった。退職者の穴は埋まったのだろうか。老人ホームの経営体制が改善するのは喜ばしいものの、複雑な気持ちになる。できることなら会いたくなかった。


 母と顔を合わせづらくなったのは、一通の脅迫文がきっかけだ。ある男子との距離が近すぎると、彼女を名乗る同級生が家のポストに投函したのだった。月華がバイトから帰ったとき、母は担任に相談の電話をしていた。


「すみません。ご面倒をおかけいたしまして。いいえ、とんでもない。家でもよく言って聞かせますので、今後もよろしくお願いいたします。失礼いたします」

「何これ。私宛の手紙を勝手に開けたん?」


 新聞記事を切り抜いて作った手紙を、月華はあごで示した。


「学校の友達なら、書いた人の名前が書かれているじゃない。もう少しうまくやっていきなさいよ。女子高生が刺された事件、また増えているみたいよ」


 ろくに帰ってこない人が、保護者面しないで。


「分かってる。自分が一番分かってるよ!」


 怒りをあらわにした月華に、母も金切り声で言い返した。


「人が心配しているのに、そんな言い方はないでしょ。あんたなんか出ていけばいい。さっさといなくなりなさいよ!」

「出ていくよ! しつこいババアと暮らすなんて、こっちから願い下げだ!」


 勢いよく飛び出した拍子に、植え込みの椿が落ちる。あの日を境に、母とは話していない。成人式の写真は、月華が自分で写真館に行った。


「一番近い家は確か……駄目だ。門前払いさせられそうだな」


 地元の友人とは、疎遠になっていた。ただ一人、朝陽を除いては。


「無理を承知で、行ってみるか」


 希望の翼が落とされそうな気はしたものの、居場所を求めて進んだ。

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