第41話 道の長手を繰り畳ね

 浴槽に二人分の湯を入れたのは、いつ以来だろう。男が気絶している間にシャワーを浴びてきたため、湯を待つまでの再戦も久方ぶりだ。六時間にしておけばよかったと思いながら、月華は朔磨と両手を繋ぐ。


 生理前の発情期だったとしても、朔磨がほしい気持ちは一時の熱ではない。恋人繋ぎをした手を切り落としたくなった、あのころとは違う。


 暁夫と別れた日、月華はオープンキャンパスの学生ボランティアに参加していた。指導教官から手伝ってほしいと言われたが、人選を間違えている気は否めなかった。母校の生徒が来ていれば、ビッチと同じ空気を吸いたくないと言われそうだ。だが、断る理由は正直に話せなかった。図書カードの支出より、風評被害の方が大きいと信じてもらえるはずがない。教員の間では、ごく普通の学生として認識されていた。

 ボランティアの腕章をつけた月華を、セーラー服が呼び止めた。


「すみませーん。体験授業の部屋はどこすか?」

「みちる、語尾を伸ばすな。敬語もしっかりしろ」


 保護者らしきトレンチコートが、みちると呼んだ少女を叱る。

 母子家庭の月華は、厳しくも微笑ましい光景だと目を細めた。鼻を刺す煙草の香りは、たまたま同じ銘柄なだけだ。横髪から飛び出す白髪も、他人のそら似だ。


「この上の講義室ですね。ご案内いたします」


 月華は先陣を切る。急ごしらえの笑顔は、鼓動の振動で剥がれそうだった。恋人と同じ顔を背にすれば、裸を見られているときの眼差しを思い出さずにはいられない。


「この通路を進んで二番目の講義室です。係の者が手を振っているので、あちらの入口からお入りください。本日の資料とアンケートがあります」

「りょ。じゃなくて、ありがとうございましたっ!」


 みちるに頭を下げ、月華は元いた場所へ戻ろうとした。すれ違いざま、男に囁かれるまでは。


「喫煙スペースはありますか?」

「それなら、エントランスを出ていただいて、七号館へ行かれてください。入り口の外に喫煙スペースがあります」

「パパ、また吸うの? 一人は無理なんだけど」


 月華の頭に衝撃が走る。娘、既婚者、浮気。その三文字が脳裏から消えてくれない。


「あと三十分だろ。一服して戻るまで、十分な時間がある。心配するな」


 男は月華とともに階段を下りる。何とも言えない沈黙を破ったのは、月華だった。


「暁夫さん、バツイチだったんですね」


 びっくりしましたよ。笑顔を作る月華に、暁夫は嘲笑した。


「単純な思考が羨ましいよ。そんなに浮気を認めたくないんだな。薄々分かっていたんだろう。家族写真のないスマホ、デートできない時間帯、最近の若者事情に詳しいこと。あのマンションは単身赴任用だ。みちるが合格したら引っ越す。置いている荷物があれば、早く回収しとけよ」


 暁夫はうつろな月華の目を覗き込む。


「こんなの初めて、なんて嘘っぽい台詞よく言えるよな」

「嘘じゃないです」


 月華は震える膝に手を当てる。


「あなたが初めてでした。あなたが知らない景色を教えてくれたんです。キスをするときの息継ぎの仕方も、乱暴じゃないセックスも。なのに、あんまりです。ろくに教えもしないで、知っていたはずなんて決めつけるのは」

「隠すつもりはなかった。指輪の跡に気づけないお前が悪いんだろ。そもそも、既婚者だと言う必要があったのか?」


 最初に会ったときから、結婚指輪をしていればいいと思った。ほかの人から愛されている証があれば、すぐに恋愛対象から外していた。娘と年が近い大学生を抱くような人とは。


「お前が何を思っているか分からないが、みちるには欲情しないから安心しろ。実の娘とは、さすがにしない。じゃあ、部屋の荷物よろしく。合鍵はポストに返しておいてくれ」


 デリヘル代が浮いて最高だった。暁夫の呟きに、月華は目頭を抑えた。



 君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火がも



 流刑になった恋人との別れを詠んだ一首が、バルコニーからの飛び降りを踏みとどまらせた。

 狭野弟上娘子さののおとがみのをとめ中臣朝臣宅守なかとみのあそんやかもりに贈ったのは、永遠の別れを惜しむ気持ちだ。恋人を刺し殺したい気持ちでも、浮気相手の家ごと燃やし尽くしたい破壊衝動とはかけ離れている。だが、自分のために届けられた言葉として、重ねずにはいられなかった。月華の心に火が降りかかる。


 自分に都合のよい女として思われていたのなら、今度は外面のよさを利用してみせる。甘い夢を与える代わりに、関係を一方的に終わらせてやる。鬼女に身を落とすことを承知の上で、月華は恋の炎を途絶えさせはしなかった。


 朔磨の手の甲に爪を立てないよう、強く握りしめる。


「うめ、ばやし」

「朔磨と、下の名前で呼んでほしい」


 返事の代わりに、朔磨を最奥まで受け入れていた。その声はずるい。逢瀬の後に再会を待ち望んでしまう。自分の前からいなくならないでと懇願したくなる。


「欲張りめ」

「躾けてくれる? ムチとか、ロウソクとか、スカトロ系は遠慮したいけど」

「注文の多いわんこだ」


 朔磨は月華の頬にすり寄せる。秋田犬と言うより、白熊のようだ。泡を吹いて死なせてなるものかと、朔磨の頭に手を伸ばした。

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