第40話 貝を作る

 朔磨が戻ってくるまで、時間は想定よりもかからなかった。月華の隣で崩し字を解読する。一字ごとの解読する速さはさすが古典ゼミと言えるが、正解率は六十パーセントほどだった。慣れないと話したのは、謙遜ではなかったらしい。見かねた月華は、朔磨の課題に口出しをしていた。


「それは『き』じゃなくて『ま』だ。『万葉集』の万の字。この冊子を見てくれ。字母が違うから、書き方も似たようで同じじゃないだろ」

「原形ないよ。違いが分かるの、すごすぎる」


 朔磨は目を輝かせる。

 人懐っこい笑顔を間近に見せられ、月華は言葉に詰まった。ヤリたがらない男の相手をするのは調子が狂う。茶色がかった朔磨の黒髪はさらさらで、月華の手に絡ませたくなる。なぜこの児は、こんなにも愛おしいのだろうか。多摩川にさらす手作りの布のように。

 朔磨とは、大学に入学してから同じ組み分けだ。月華の学籍番号が一つずれていたら、ゼミで顔を見るだけの関係になっていた。今の世界線のような、課題をともにする間柄には、発展しなかったはずだ。


 ネット以外での月華は、自分から話しかけることはしなかった。常に見守る姿勢を崩さない。身近な人と恋愛する気は起きなかった。黒子として空気に溶け込み、ちょっとした成長を静かに喜んでいた。それで満足だった。


「別に。これくらい、普通だし」


 返事をしてしまったのは、気まぐれでしかない。たいした理由はない。そんなことないよという定型文が予想される発言なんて、時間の無駄以外の何物でもないよのだ。


「沖元さんの持ってる冊子、どこで買ったの? すごく見やすい。僕も買おうかな」


 今度こそ、朔磨の本音が見え透いていた。共通のアイテムを持つことで、恋愛感情を生み出そうとする魂胆だ。まじめそうに見えて、関係を持てるか躍起になっているところが滑稽に思える。勉強を理由にしなくていいのに。


 会話が面倒になった月華は、自身の本を差し出した。


「僕はもう大丈夫だから、きみにあげるよ。捨てようと思っていたところだから、もらってくれた方がこいつも喜ぶんじゃないかな」


 博物館の売店で買った本は、ところどころページが折れている。それでも朔磨は、藤原定家写本の『更級日記』を持つように、呼吸することを忘れていた。

 若い先生に「セックスの二乗?」と返す男子高校生とは、下心の種類が違うようだ。


 友達としての日々を送っていた二人の仲は、朔磨の些細な言葉が切り裂いた。


「半年ぐらいで人生終わった顔するなよ」


 暁夫を忘れられない月華に、朔磨は笑って励まそうとした。


「半年ぐらい?」


 月華の肩は震えた。


「誰とも付き合ったことのない奴が、人の恋愛に口を出すなよ。僕は、来年も一緒にいられると思っていたんだ。来年も再来年も、そばにいられるものとばかり……」


 朔磨が謝る前に、月華は捨てセリフを吐いた。


「半年の重さが分からないんだったら、誰かと付き合ってみろよ。でもって、一年経たないうちに別れろ」


 小夜と朔磨が付き合い出したのは、年が明けたころだった。焚きつけたのは自分ではないと言い聞かせつつも、朔磨に真相を聞くのは怖かった。後腐れなく別れた男からストーカー行為をされるときとは、違う圧迫感があった。


 クリスマスケーキの予約チラシが投函されるようになったころ、月華のもとに朔磨が来た。


「別れるのって、苦しいね」

「まさか、きみ」


 朔磨は泣き腫らした目を見せる。月華はカイロで温めていた手を離し、頬をつまんだ。


「馬鹿だろ。自傷行為してんじゃねぇよ」

「だって、好きな人を泣かせたから。罪滅ぼしにはならないけど、せめて沖元さんの気持ちを理解したくて」


 もう流されていいや。

 月華は廊下を見回した。二限の講義室へ向かう学生はもういない。


「梅林。僕の肩に手を回せ」

「こう?」


 いい子だ。月華は朔磨の唇にキスをした。


「今のキスは、彼女と比べてどうだった?」

「わっ、わかん、ないよ」


 朔磨は月華の唇と重ね合わせる。小夜の感触を消すように、月華を貪った。


「もう少しだけ、一緒にいさせて」


 消え入りそうな朔磨の声に、月華の目は見開かれる。男達から、唯一もらわなかった言葉だった。かつて巽巳とデートしたときも。


「あぁ。きみが満足するまで、ずっといてやるよ」



 ■□■□



 平日の昼は空いていた。

 部屋の鍵をかけ、月華はドア近くの壁に朔磨を押しつける。キスを交わす度、朔磨の頬は赤みを増した。


「キスだけで満足しないよな?」


 月華は朔磨の左手を取り、手の甲に口づけを落とす。リップ音の余韻が消えぬうちに、指の付け根へ舌をねじ込んだ。指の側面から爪まで舌を這わせ、喉の奥まで愛撫した。


「あ……っふ、ふぁっ……」


 指が唾液にまみれていくだけ、朔磨の嬌声は高くなる。目を閉じながら、右手で口元を抑えていた。

 月華は耳たぶを甘噛みし、軽く息を吹きかける。


「何を言おうとしているのか分からないな。素直になってみろよ」

「んっ……」


 耳を隠すように身をすくめた朔磨の姿に、月華の中で悪戯心が芽生えた。耳の窪みに、じゅぶりと音を立てる。柔らかなリップ音よりも、水気のある方が好きなのかもしれない。


 相手をしていなかった首筋を責め、再び指を舐めた。惚けている朔磨を見上げ、舌を覗かせる。健康な血だと思った。元カノが体調管理をしっかりしていたのだろう。

 肩にできた二つの小さな穴を眺める。朔磨が鏡を注意深く見なければ、穴ができたことなんて分からないはずだ。ディープキスで皮膚を吸いすぎたときの痕に似ていた。


 男からの頼み事は全て叶えてきた。小さいサイズのスクール水着も、胸元の空いたナース服も。

 この格好、恥ずかしいね。顔を背けながら言えば、高確率で押し倒される。攻略法に従い、偽りの仮面をかぶってきた。捕食する快感を得るために。


「僕じゃ嫌か? 慰めにはならないよな」


 月華は貝を作る。


「梅林、今だけでいい。僕と心を通わせてくれよ」

「月華」


 朔磨は月華の髪を撫でた。


「こんな僕だけど、月華のことを愛してるよ」


 朔磨に触れながら、月華の頭は冷えていた。今回の恋も成就しないかもしれない。また、元カノから氷水をかけられる気がする。


 それでもベッドがきしむ音は止まなかった。

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