第39話 ますらおぶり
二十七冊も売ったのに、鑑定額は伸びなかった。
売りに出したのは重版された本ばかりで、市場に出回る数が多いものだ。新刊や絶版になったものであれば、価値が上がったかもしれない。肩を痛めた重さが、千円にも届かないものだとは知らなかった。
カウンター奥の机には、文庫本が十冊ほど山を作っている。その一角に、月華は目を細めた。見慣れた表紙がある。
「残りの本は汚れていたので、値段がつけられませんでした」
店員は申し訳なさそうに頭を下げる。持ち込む前に状態を何冊か確認していたが、すべての中身は見ていない。落ち度があるのはこちらの方だ。
新品と遜色がないカバーで油断していた。ベッドの上で読書していた暁夫が思い出される。セックスした後に読むものだから、乾ききっていない精液がついたのだ。
「処分しましょうか?」
店員の申し出に、ためらうことなく返事をしていた。
「お願いします」
帰りの電車賃も合わせれば赤字だ。暁夫のせいだ。退去するから部屋の本を売ってしまって構わないと言い、月華に後処理を押しつけた。最後に一目だけでも会いたいという思いを利用して。玄関に置かれた段ボールは、月華の膝をつかせた。行き場のない気持ちをリュックに押し込み、ポストに合鍵を投げ捨てた。
月華は、記憶力がいい。一度読んだ小説は、頭の中の本棚にしまわれている。暁夫の朗読した一節が、どの本の何ページに書かれていることぐらい簡単に分かる。読み聞かせてくれた声も。「タイトスカートのパンツ線って、くっきり浮かぶものなのかな? この本が正しいのか、確かめさせてほしいな」と、インターンシップ終わりに着ていたスーツをまさぐったことも。あのとき感じた興奮は失しなわれたが、厭悪だけは尽きることがなかった。
あんな主人を持って大変だったね。月華は任期を終えた本を眺めた。
「すみません。やっぱり『万葉集』だけ持ち帰ってもいいですか?」
「かしこまりました」
表紙が月華の前に戻される。流水を背景に、雀が梅の枝に留まっていた。
和歌は落ち着く。何千年も前に生きた人々の悩みが、すさんだ心に沁みる。
おおらかで激しい思いを凝縮した『万葉集』は好きだった。現代の日本では、略奪は許されない。寝取られた物語を娯楽として消費するくせに、現実では容赦なく非難する。生まれる時代が違えば、強い風当りを受けることはなかっただろう。「自分が治める大和の地は、どこもかしこも庭同然だ。若菜を摘むお前も、俺の所有物ってことさ」と口説く政治家に、日本の未来を任せる気は起きまい。長歌の作者が雄略天皇であるからこそ、袋叩きに遭わないのだ。玉の輿という、都合のいい言葉でもてはやされる。月華は私物を一新しただけで、浮気の憶測が飛ぶ。
手持ちのものを変えるのは、過去を清算するためだ。アカウントを消して、別人に生まれ変わる下準備でもある。夢見る少女を演じた後なら、銀のしゃれこうべを身にまとう。アニマル柄や原色をふんだんに使ったコーデなど、あらかたのファッションは試した。大学三年になるころには、黒一色に落ち着いた。「ティファニーで朝食を」で、オードリー・ヘップバーンが着たリトル・ブラック・ドレスとは違う。真珠を幾重にも巻いたネックレスも、デニッシュを持つロンググローブも、彼女だから似合った。憧れから遠ざかる自分は、誰がつけたか分からない歯形の残る二の腕を露出できない。講義室の一番後ろで、息を潜める。
「今日は図書館に移動して、伝本を読み比べていきましょう。それでは、各自解散。レポートの締め切りは、来週の講義まで。僕の研究室のポストに入れておいてください」
覚一本平家物語の説明もそこそこに、教授は図書館へ導く。渡されたプリントの罫線は千字を超えていた。講義内で完成させたい学生が、小走りの集団を作り上げる。
月華は講義室に残ったまま、スマホで国立国会図書館のデジタル資料を検索した。底本を撮影した影印本が見つかれば、すぐに終わる課題だ。崩し字の辞典は持ち歩いている。
たった一人の息遣いが、部屋に反響した。間違いを消すときに拳が鉛筆を転がし、鈴のような音を響かせた。鉛筆を拾い上げ、折れた先をカッターナイフで削る。指についた黒鉛の粉を吹きかけたとき、ドアが勢いよく開かれる。同じゼミの梅林朔磨だ。月華に目もくれず、最前列の机の下を覗き込む。
「筆箱、ここの引き出しに入れちゃってたか。リュックの中に入れたと思うんだけど、うっかりしてたなぁ」
朔磨は額に手を当てた。筆箱を手に取り、再び図書館へ向かおうとする。そのまま体の向きを変えれば、月華が視界に入ることはなかったはずだった。
「あれ? 沖元さん、遅刻したの? 講義室に誰もいなくて、びっくりしなかった? 今日は図書館で調べ物になったんだ。課題が出ているから、先生からレポート用紙をもらいに行こうよ」
朔磨は月華の元へ近づき、一緒に行こうとドアの方を示した。
「レポート用紙は持ってる。きみと違って、後ろの席が定位置なんだ。ここの方が図書館より落ち着くから、僕のことなんか放っておいてよ」
朔磨は、月華の手元にある紙を見つめる。
「勘違いしてごめん! あのさ、もう一つ謝らないといけないことがあるんだけど。ここでやっていい?」
月華は冷めた目をした。こいつも自分のことを性欲のはけ口にしか捉えていないのだ。
「課題レポート」
「は?」
思い違いに気づいた月華の口から、すっとんきょうな声が漏れた。
「崩し字の解読、どうも慣れなくてさ。沖元さんの邪魔にならないようにするから、一緒にやっていいかな?」
「勝手にしろ」
「よかったぁ。心強いよ。あっ、荷物を置きっぱなしにしていたから、一旦図書館に戻って来るね」
朔磨は胸を撫で下ろすと、ぱたぱたと走り去って行った。くるんと丸まったしっぽが見えそうだ。
「秋田犬かよ。あんなつぶらな目で見やがって」
月華は頬を抑え、ほだされるんじゃねぇぞと気合いを入れた。
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