第9話 この恩は必ず
「美味しい」
「だろ? ガキのころ一緒に食べた、おふくろの味だよな」
小夜の両親は、ほのかに小学生の娘を託した。帰宅が二十二時を過ぎれば、睡眠時間に支障が出ると判断したのだ。小夜と晃太朗は本当の兄妹のように育ち、食べ物の好みも近くなった。
「懐かしい味です」
「よかった。どんどん食べて」
目の前に置かれたお椀には、なめこと豆腐が浮かんでいた。フリーズドライの味噌汁ではない。
「味噌汁のためにわざわざ具材を用意するの、すごいですよね」
「そうかな。小夜の家は違うの?」
「うちの具材は玉ねぎ、にんじん、さつまいもです。冷蔵庫にあるもので作るので、日によってまちまちですよ」
「私もそんなものよ。晃くんのこだわりが強いだけ。誰に似ちゃったんだか」
咳き込む倫太朗を横目に、小夜は首を傾げた。料理に対して、晃太朗が執着するという記憶はなかった。空白の四年間で、どんな心境の変化があったのか気になる。
「先輩」
「ん?」
聞き返した晃太朗の箸から、きんぴらごぼうがこぼれ落ちた。量の減らない小皿を見て、小夜は言いかけた言葉を呑み込む。
「松田シェフ、美味しく作るポイントを教えてください」
「とろみがつくまで煮詰めることですかね。次回、お越しの際は、ぜひ当店の魚をお買い求めください」
「松田先輩の家は魚屋さんじゃないですよね」
「ばれてしまっては仕方がない。彼らの正体は世界を守る会社員と、ハンドメイド作家である」
おどける晃太朗に、小夜はにっこりと微笑んだ。
「よかった。やっと笑顔が見れて嬉しいよ」
小夜は声にならない悲鳴を上げそうになった。正面から攻撃を食らい、口角の端がぷるぷると震えた。無自覚で光魔法を使うのは遠慮願いたい。
咳払いをして、冷静を装う。
「魚の調理は、ぬめりが嫌で敬遠していました。今度は切り身が安いときに挑戦してみます」
「なんて健気な子なの。うちの娘になる?」
ほのかに頭を撫でられ、小夜は目を細めた。酔った勢いのまま、頷いてしまおうか。そうすれば、ほのかも倫太郎も喜んでくれる。
「小夜、ろくでもないことを考えるんじゃないぞ。空気を読みすぎるな」
「えぇー! 晃くんが遅い反抗期になっちゃったの? お母さんショックだわぁ」
酒を煽るほのかの手を、倫太朗が止めた。
「ほのかちゃん、そろそろ明日に響く。僕も寝るから、二階に行かない? 今なら手すりよりも頑丈な支えがついているよ。申し込みは三十分以内かな」
「もう二十一時過ぎぃ? まだまだ話したいことがあるけど、ここら辺で勘弁してあげようじゃあないの。小夜ちゃん、またおいで」
ほのかは小夜に手を振り、倫太朗の肩を借りて二階へ行った。
「小夜はたくさん食べてくれるから作りがいがありそうだ。まだお腹に余裕があったら、つまみを作って来るよ」
「ありがとうございます。松田先輩」
かいがいしく世話を焼く様子は、先週までの自分を彷彿とさせた。ボンゴレビアンコやアクアパッツァ、横文字だらけの料理を作っていた自分を。
堪えていた涙が頬をつたう。
「さっくんは、洋風よりも和風の方が好きだったのかな。食べたいもののリクエストがなかったからって、男子ウケしそうなレシピばっかり探して。無理に背伸びしちゃっていたなぁ」
「よしよし、ティッシュで顔拭いて」
箱がことんと音を立て、小夜の目の前に滑り込んでくる。
「ずびぃー! 取り乱してすみません。急にヒステリックになって、困っちゃいますよね」
「酔って壁を破壊されると困るけど、その前に俺が止めるから。思う存分、言いたいことをぶちまけちまえ。ここを居酒屋だと思ってさ」
抑えていたタガが外れる音がした。
「あんまりですよ。遊びだったんなら、最初から私に近づかないでほしいです。初めて告白されて、舞い上がった自分も悪いと思いますけど。一人暮らしのさっくんのために、毎週作り置きのおかずを用意してきたんですよ。尽くしてきた恋人を裏切って、違う女に手を出して。ラブホテルの前でキスなんて、明らかに事後ですよね。どう思います? 松田先輩」
「控えめに言って殺意が湧くな。とりあえず、あれの機能を停止させたいとは思う」
そうでしょうそうでしょうと、小夜は大きく頷いた。
「ところで松田先輩。つかぬことをお聞きしますが」
「なあに? 何でも聞いていいよ」
「あれの機能停止って、何ですか? 卒業論文のデータを消去させるつもりなら、やめていた方がいいですよ。この時期の四年生にとって、万死に値します」
晃太朗はむせた。まじめな話をしているのに、笑うとは何事だ。
「あー、小夜がまだまだ純粋で安心したわー」
「むむっ。どうして棒読みなんですか?」
晃太朗の足を軽くつついた。
「話を戻しますが、私は役に立ちたいと思っただけなんです。少しでも、さっくんの負担を減らしてあげたかった。だけど、私の存在そのものが重荷になってしまっていたんですよね。部屋に髪の毛を落とすから掃除が嫌になるって、つまりは付き合いが面倒になったんでしょう? 予兆みたいなものはあったのに、見ないでいた自分の愚かさに笑えてきますよ」
「負担を減らしてあげたいなんて、そんなこと願うなよ」
晃太朗の語気の強さに、小夜の肩が震えた。
「好きな奴って言うのはさ、そばにいるだけで幸せな人なんだろ。役に立つから一緒にいるなんて間違っている。と、俺は思うよ。あくまでも個人的見解だから、参考にしなくていいぞ」
「そういうものでしょうか」
そういうものだ。晃太朗は繰り返した。
「小夜を否定する訳じゃないんだよ。ただ、今度付き合う人と幸せになってほしいだけなんだ」
「優しいですね。松田先輩は」
まーなと晃太朗は頷いた。
「俺はお兄ちゃんだからな」
小夜の理性に警報が鳴る。
お兄ちゃんには、恋愛できない。今も見えない線を引かれている。
「松田先輩じゃドキドキしません」
「そりゃあそうだよ。ドキドキするのは恋愛対象に入った人だけだから。いくら相手の距離が近くても、本人の興味がなかったら恋は始まらないさ」
正論だが、求めているのはそういう言葉ではない。唇を尖らせる小夜に、晃太朗は笑いかけた。
「可愛いよな」
小夜は首を横に振ろうとした。朝陽のアルバイト先の子に負けたのは、自分に可愛さがないせいだ。忘れかけていた苦みで胸がいっぱいになる。晃太朗は、こともなげに言う。
「ゆずれもんサワー」
「はい?」
勘違いした恥ずかしさよりも、呆れで声が裏返る。ほのかが座っていた場所を見ると、確かにチューハイの缶が五本まとまっていた。
「譲れないもんって、ムキになっているように読めない?」
「その解釈は松田先輩だけです」
少しでもいいなと思った自分がばからしい。人の心を弄ぶなんて最低だ。小夜はおちょこに酒を注ぐ。
「つまらないこと言ってないで、さっさと酒のつまみを作ってきてくださいよ」
「俺は真剣に話していたのにひどいよ」
「これっぽっちも、ひどくありません」
おちょこを勢いよく飲み干した。
「今日は、もてなしてくれるんですよね。一人で居酒屋に行こうとした私を、わざわざ止めたんですから」
「任せろ」
晃太朗の後姿を見て、小夜はぼんやりと考え込んだ。
いいなって、何に対して感じたのだろう。
その後の会話は、意識が混濁して記憶にない。小夜のまぶたを閉じたり開いたりする回数が増えてきた。
「松田先輩といると、安心して眠たくなっちゃいました」
「そうか」
晃太朗は最後の卵焼きを頬張った。
「眠っていいよ。お兄ちゃんがおんぶして、小夜の家まで送り届けてあげる」
まだ起きているもん。あくびを噛み殺しながら小夜は呟いた。
「いいや、あと十秒あれば寝そう」
「そんなこと……ないもん」
薄らぐ意識の中で、晃太朗の声が遠くで聞こえた。
「小夜。もう寝た?」
返事をする気力は残っていなかった。日だまりのような温かさに目を細める。
「寝息すご」
失礼極まりない。反論する前に、可愛いと囁かれる。
「そんなことないですよ。私のどこが可愛いんですか?」
どうせ、譲れないもん程度の称賛だ。
「小夜は自己評価低いよな。クズな奴らに言われた言葉なんか、小夜を傷つけた梅林のことも忘れちまえよ。俺なんか見てみろ。ずっと前から、同じ言葉しか言ってないだろ。小夜は俺の自慢の、可愛い可愛い幼なじみだって」
大きな手が小夜の頭を撫でる。
大事にされているのは分かる。だからこそ、幼なじみ以上恋人未満に甘んじないでほしい。そう口に出す前に、小夜の意識が途切れた。
■□■□
書初めに難航していると、父から無造作にすればいいと助言を受けた。そんな父を母がたしなめる。あなたのテレビの音がうるさいと。
「ええっ?」
父は頓狂な声で叫ぶ。画面には神社でたむろする若者が映っている。誰かを待ちあぐむ様子だ。
「ほら。小夜がテレビにかまけてしまうでしょう。たわごとは寝言だけでいいのよ。おつかいに行ってちょうだい」
母は一蹴する。宿題が終わらない原因は父にあると考えているのだ。家から放逐される父を見て、小夜は喝破しようとした。自分が披瀝すればとりなすことができる。ふと迷いが生じた。テレビにかまけたのは事実ではないか。茶々を入れるというか、水を差すというか気勢をそがれていた。黙ったままの小夜を、母はいつくしむように見つめる。
「ようやくドラマが見られるわ。ヘッドフォンで聴くから気にしないで」
おためごかしの言葉だったらしい。
小夜の筆に贖罪の思いが宿る。名前を書きあげた後で、小夜は胸を撫で下ろした。ようやく最後の課題が終わった。「機先を制する」という字は、担任の歓心を得るだろう。
調子を取ったように、インターホンが鳴る。母の代わりに出ると、晃太朗が立っていた。
「散歩のついでに寄った」
「あけましておめでとう」
俺のせりふ取られた。晃太朗の笑顔は見覚えがあった。小夜が高校一年生のときに、一緒に初詣へ行った。あのときの記憶が再生されていた。
幸せな夢だ。願わくば、あのころに戻りたい。仲がこじれる前に。
■□■□
「夢から覚めたら、頭がずきずきする」
母に起こされ、小夜は頭を押えた。昼からの講義までに治まってくれたらいいが。
二日酔いにならない程度には、分量を考えて飲んでいたはずだった。晃太朗が運んでくれなければ、歩道で眠りこけていただろう。二日酔い以外で、小夜の頭を悩ませるものがあった。
「私、いつパジャマに着替えたんだっけ」
まさか松田先輩に裸を見られたんじゃ。
部屋に鳴り響いた着信音に、怯えてしまった。ベッドから起き上がり、新規メッセージを確認する。
『二日酔いになってない?』
「ご迷惑をおかけしましたっと」
既読はすぐについた。
『今、電話しても大丈夫? 小夜の声を聞かせてほしい』
「あなたは私のおかんですか?」
ツッコミながら通話ボタンを押した。
『おはよ、小夜。着替えていてびっくりしたよね。小夜が自分でできるって言うから、自主性に任せた。俺は指一本たりとも触れていないよ。安心して』
「起きたらパジャマでびっくりしましたよ。昨日はありがとうございました。それで、その。お礼がしたいんですけど」
『俺は何もしてないよ。小夜の話を聞いただけ。大したことはしてないよ』
鯖の味噌煮をおすそわけしてくれたじゃない。あと、私の話を聞いてくれたし。
小夜が勢い込んで話すと、晃太朗はくすぐったそうに笑った。
『別に見返りを狙っていた訳じゃないのに。小夜はよくできた子だね。いい……』
晃太朗は咳払いをした。いいお嫁さんになれると言いたかったのだろう。朔磨と結婚を考えた仲だと思ったらしい。確かに「結婚したら毎朝お弁当を用意してあげるね」と口癖のように言っていた。
「とにかく、絶対に恩は返しますから。何かほしいものがあったら教えてください。私はこれから大学に行くので、そろそろ電話切りますね」
『小夜。一つ謝らないといけないことがある』
神妙な面持ちを想像し、小夜は真剣に耳をすませた。
『俺もちょうど出ようとしてたとこで、たぶん駅で鉢合わせる。走って一本前の電車に乗るから、まだ家におって』
「……から」
間の抜けた声で聞き返され、小夜は半ば叫んだ。
「私のためにそこまで振り回されなくていいから! こう……松田先輩が嫌じゃなければ、一緒に行きましょうよ」
『いいのか? やった』
電話を切った後で、小夜は何を口走っているのと崩れ落ちた。名前を呼びかけるなんて、正気の沙汰じゃない。
収穫があるとすれば、昔の関係に戻るのは願うまでもなかったかもしれないということだ。
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