第10話 こじらせている二人
一つのきっかけが、かたくなだった心を和らげた。
晃太朗を厭悪のまなざしで見ることが減った。小夜は誤解に気づいた。晃太朗のあの告白の記憶は、苦いものではなかったらしい。根に持っていることが馬鹿馬鹿しくなった。タイミングが合えば、大学と家までの道を隣で歩いた。止まったままの幼なじみのイメージが、いい意味でアップデートされていく。それはよい傾向だと思っていた。小夜に被害が及ぶ前までは。
「私はいつから着せ替え人形になったのでしょう?」
小夜はふわもこニットの袖を揺らす。ざっくりとしたグレーの網目が体型を隠してくれていた。コーデュロイのタイトスカートは、美味しそうなキャメル色だ。ボリューム感のあるトップスに、メリハリをつけるハイウエストを合わせている。試着室から出てきた小夜を、店員は褒めちぎった。
「大変お似合いです。素敵な彼氏さんですね。彼女さんのことを熟知されていて」
黄色い声を出させて申し訳ないが、あいにく期待するような関係性はない。ただの幼なじみだ。小夜は否定する。
「お兄ちゃんです。彼氏なんかじゃありません」
「あー。聞き流してやってください。こじらせているんで。俺ら」
こじらせているのは先輩の方でしょ。私はずっと昔に吹っ切れている。
「もう四着目ですよ。いつになったら解放してくれるのですか?」
晃太朗の耳には届いていなかった。
「ぬいぐるみみたいなフワッと感のあるシルエットも可愛いけど、セーラー服のニットバージョンも捨てがたい。こっちのスカートは、異素材の切り替えか。ベルト部分は合皮だろうな。そもそもチュルーが透けている分、小夜が引っかけそうで却下。ただ……デザインはめちゃくちゃ可愛いんだよね。絶対小夜に似合うもん。手入れ次第で、一年持つか分からないのが難点だなぁ」
晃太朗は商品を手に取りながら、溜息をついていた。文句が店員に聞こえないかハラハラする。
「さっきの話の続きだけどね。小百合さんから頼まれたんだよ。晃くんに小夜を任せていいかって」
その言い方は語弊を生む。
確かに母は、晃太朗と結ばれることを期待していた。顔がタイプらしい。
小夜も、晃太朗の顔はかっこいいと思っていた。幼稚園のころは「大人になったら晃くんと結婚する」なんて恥ずかしいセリフを口走っていた。
「小夜のご両親、結婚記念日なんだって? 仲よく食事に行くなんて、素敵じゃないか」
「そんなの聞いてない」
両親の誕生日ならともかく、結婚記念日なんて覚えていない。
不公平だ。娘をのけ者にするなんて。連れて行ってくれてもバチは当たらない。晃太朗に不満をぶつけるのはお門違いだと分かっていたが、不満が溢れてしまった。
「二人分しか予約できなかったみたいだぞ。それで、小夜にご飯を食べさせてほしいって、頼まれたんだ。一人でいさせると、何も食べないだろうからって」
もう二十二だ。小学校低学年のときの留守番と、格段の差がある。一人分のご飯くらい準備できるのに。そりゃあ、つい先々週の金曜日は死んだ魚の目をしていたけど。
講義のない午後、晃太朗は買い出しを手伝ってくれないかと頼み込んだ。
「洗剤が一人二つまでなんだよ。うちは今いるのが俺だけでさ。小夜が来てくれたら助かるんだけど」
予定は特になかった。断るつもりはなかったが、鯖の味噌煮のお礼でいいよと言われればすぐに身支度を調えた。
えんじ色のニットと、ゆったりと裾が広がったデニムのまま出てきてしまった。コートも綺麗めコーデに合わせるデザインではなく、カーキ色のマウンテンパーカーだ。スーパーの買い物くらいなら着飾る必要はないと、妥協したことが悪夢の始まりだ。衣料品のエリアに連れて行かれ、着せ替え人形にさせられた。晃太朗が手を加えなかったところは、ショコラ色のリップだけだ。
「買い出しと食事に付き合うだけなんて、私のもらった恩が安すぎませんか。それに、松田先輩と出かけるのは、嫌じゃないですよ」
ふぅんと晃太朗は息を漏らした。
「嫌じゃなかったんだね。俺は何かと世話を焼きたがるから、嫌われているんじゃないかって思っていたよ」
「松田先輩の中で、私のイメージはどうなっているんです?」
小夜は袖をぱたぱたと振った。
「おっ、このシュシュはインド刺繍か」
小夜よりも楽しそうに眺めている。
「松田先輩。今更ですけど、どうして女性物の服に詳しいんですか?」
「いつも、おふくろの買い物に付き合っているんだ。色違いを全部買うから、色ごとに合うアイテムを見極められるようになった」
「仲がいいんですね」
「ただの荷物持ちさ。まぁ、綺麗なものが好きだから、苦に思わなかったのかもな」
晃太朗は小夜が試着した品物と、迷っていたニットを店員に渡した。
「これも追加でお願いします」
「それではレジにどうぞ」
小夜が財布を出す前に、晃太朗は早く動いた。食事代は割り勘にさせようと、小夜は固く誓った。
「面倒だけど、また試着室で着替えておいで」
「ドレスコードでもあるんですか? 私はどこへ連行されちゃうんですか?」
「お兄ちゃんが警察のお世話になるようなことを言わないの。よく行く居酒屋だよ。小夜を連れていくのは初めてかもな。食べ飲み放題がおすすめなんだ」
見せられたグルメサイトには、しゃぶしゃぶの写真が載っていた。人数が揃わないと食べられない鍋物は、竹野内家で数年に一度あるかないかだ。
断る理由はどこにもない。
■□■□
居酒屋の一室で、小夜はメニュー表を手にしていた。先日はハイペースで飲み進めてしまったから、同じ失敗はしないつもりだ。最初の飲み物を高らかに宣言する。
「ウォッカトニック一つ」
「あと、ウーロン茶を」
晃太朗の注文に、小夜は目を見張る。
「松田先輩、お酒は飲まないのですか?」
「グラス半分が精一杯だな。親父もおふくろも飲むけど、俺は酒豪の血を引き継がなかったから」
久しぶりに松田家を訪れたとき、目にした晃太朗のグラスはお茶だった。小夜を送る前に酔えないという責任感があったらしい。
「飲み放題にしてよかったんですか? 割高じゃないですか?」
丸まっていた伝票に手を伸ばすと、晃太朗に握られる。
「いいんだよ。その分、多く食べるからおあいこな」
「松田先輩は、本当に私に甘いですね。甘やかしても、メリットはないでしょう?」
「心配はいらないよ。メリットしかない」
「その自信はどこから来るんですか?」
「小夜を見ていたら、自然と」
晃太朗は二人分の取り皿と箸を並べる。
「息をするように奉仕しないでください。面倒見がよすぎるから、留年されたらしいじゃないですか。先輩の学習能力を疑います」
「小百合さんから聞いていたんだ? おふくろはしゃべるの好きだからなー。噂が自治会全体で共有されないだけましか」
晃太朗は否定しなかった。にこにこ笑う様子は変わらなかったが、心の中では後悔しているように見えた。まだ笑い話として消化できていなかったのかもしれない。晃太朗のように、相手に寄り添ってあげることは難しい。
せっかくの食事なのに、待っていた肉が運ばれてきても小夜の顔は晴れなかった。
むしゃくしゃした気持ちを表情に見せないように、ウォッカトニックを口にした。
「すみません! カシスオレンジ追加で!」
「お客様、ご注文はジョッキが空になってからで……た、大変失礼いたしました! すぐにお持ちいたします」
店員の動揺した顔のおかしさに、小夜は笑い声を上げた。
「小夜さーん、人格が変わっていませんかね?」
「そんなことないってば。松田先輩と飲めて幸せですよ」
「うっ。シラフのときに聞きたかったよー!」
意識はちゃんと残っている。酔いが覚めたときに切腹したくなるだろうが、珍しいものが見られてお釣りが来る。
晃太朗は少しくらい焦った顔をしている方が、人間味があるのだから。
■□■□
二十一時をすぎるころ、小夜は晃太朗に手を繋がされていた。
「ほらほら、そっちに行ったら看板にぶつかっちゃうよ」
「んー。ねーねー、先輩?」
小夜は首元の寒さに立ち止まった。
「マフラー、お店に置いてきちゃったぁ」
「店に連絡しておこうか?」
「ううん。もういらないや。さっくんにもらったマフラーだし」
捨てきれないマフラーとさよならする絶好の機会だ。
朔磨の名前を出した途端、晃太朗の声色は低くなった。
「何てことはないボタンでも、人は愛着を持つものだ。恋人にもらったものなら、仕方ないだろう。割り切れ、お兄ちゃん」
「どうしたの? 意味不明なことを言って」
「こっちの話」
それ以上教えてくれない晃太朗に、小夜は不満を向けた。
「おんぶ!」
「おじいちゃんには酷じゃのぅ」
「やだやだ。歩きたくない。置いて帰ればいいじゃん」
「できねぇよ」
「先輩の頑固。いしあたまー!」
肩を叩いた小夜の手を、晃太朗は掴んだ。痛くない程度の力だったが、いつもの明るい顔からは想像できない目をしていた。
「分からねーかな」
小夜の鼻が当たりそうな距離まで、顔を近づけた。
「これ以上、ほかの奴につまみ食いされたくないんだわ」
小夜の耳たぶを甘噛みする。
「抵抗できないまま、大事なものを奪われていいのかよ」
「食べていいよ。松田先輩」
小夜は震える手を隠した。まっすぐ目を合わせていると、晃太朗は遠くを指差した。
「あの通りを進めば歓楽街に出る。金曜じゃねーから、空いているホテルはいくらでもあるぞ」
「酔ってテンションがおかしくなっているかもしれませんけど、私は撤回しませんから。あなたに食べてほしい、です」
「そんな可愛いこと言われたら」
断れる訳ないじゃんか。
消え入りそうな声に、赤くなった耳。
可愛いのは晃太朗の方だと、小夜は思った。
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