第8話 おもてなし

 晃太朗と一緒に帰るのは、高校二年生の二学期以来だ。

 今も、電車の席が隣同士になるだけで緊張した。ましてや松田家の敷居となれば、心の準備に時間がかかるのは言うまでもない。

 門の前で立ち往生する小夜を、晃太朗が急かした。


「小夜、いつになったら入るん? そろそろ入ってくれないと、近所の目が怖いんだけど。『聞いてちょうだいよ、奥さん。松田のところの晃くんが、小夜ちゃんを外に立たせていたそうよ。なんて薄情なのかしら。風邪でも引いたらどうするつもりなのよ!』って噂が広まりかねない」

「すみません。やっと覚悟が決まったので、いつでも行けます」

「鯖の味噌煮を食べるために、そこまで身構える必要ある? まぁ、俺が小夜の立場なら同じことしてたかもな」


 晃太朗の目元にしわができる。待ったことへの怒りは感じられなかった。ショルダーバッグから鍵を取り出し、ドアを開ける。


「ただいま」

「お邪魔します」


 小夜の視界の先には、記憶と変わらない玄関が広がっていた。脱ぎ散らかした靴はなく、六角形の素焼きタイルが温かく出迎えてくれる。靴箱の上に、ガラスでできたクリスマスツリーが載っていた。林檎色のオーナメントがいくつも下がり、枝が氷柱のように折れてしまわないか心配したものだ。


 リビングのドアが開き、ほのかが近づいてくる。濡れた髪をタオルで巻き、ダークグレーのルームウェアに身を包んでいた。


「今日は早いじゃない。革ジャン脱いで、手洗ってきて」

「こんばんは」


 晃太朗の背から顔を出した小夜に、ほのかは革ジャンを掴み損ねた。


「最悪。おふくろ、落とすならハンガーにしろよ。高かったんだからな。あと、小夜がうちでご飯食べていくことになった。鯖の味噌煮、親父が多めに取り分けてないよな? あの人、勝手に人の分まで食っちまうから心配だ」

「ちょっと晃くん?」

「あだだだだ」


 耳をつねられ、晃太朗は苦悶の表情を浮かべる。


「小夜ちゃんが来るなら事前に教えてよ。ホウレンソウを枯らさないでくれる?  バイト先だけ愛想振りまいてどうするの。家でもちゃんとしてちょうだい。晃くんのせいで、こんな格好で出てきちゃったじゃない。せめて色違いのアイボリーにしておくんだった。おばさんだから、暗い色だと肌がくすんで見えるのよ。それに、倫さんもお酒飲んでいるから、寿司とオードブルを買いに行けないわ」


 小夜はうろたえた。まるで帰省した孫のような扱いだ。嬉しさを通り越して、身が縮んでしまう。


「ほのかさん、お構いなく。非があるのは、アポイントメントなしで来てしまった私ですから」

「晃。玄関で正座していなさい。一時間後に呼びに行ってあげる」

「床が冷たいので遠慮しておきます」


 リビングに戻らない妻が気になったのか、倫太朗が顔を出す。目を細める様子と、トレーナーに描かれたフクロウが瓜二つで、小夜は忍び笑いを漏らしそうになる。


「小夜ちゃん、大きくなったねぇ」

「やだわ、倫さん。セクハラですわよ」

「やーねぇ。友達の娘をそういう目で見ていたなんて」


 ほのかと晃太朗が囁き合う。親子というよりノリのいい友人に見える。

 生き生きとしていたほのかの顔から表情が消えた。


「晃、私は見た目に関わる発言をたしなめたつもりなんだけど。自分のことを棚に上げる子に、育てた覚えはありませんが」

「はめられた!」


 頭を抱える晃太朗に、ほのかは冷ややかな目を向けた。


「とりあえず一生正座していなさい」

「ご無体な。母上、申し訳ありませんでした」


 瞬きする間もなく、晃太朗はほのかの前に土下座していた。ほのかは、苦しゅうないと自慢げだ。

 小夜は一連のやり取りにぽかんとしていた。一五〇センチを境に身長が伸びることはなくなったが、コンプレックスには感じていない。ほのかは小夜をちらりと見る。


「晃、謝る相手が違うんじゃないかしら。小夜ちゃん。こんな奴、踏みつけていいからね」

「えっと。卒業論文でお腹いっぱいなので、大丈夫です」


 谷崎の『富美子の足』や『瘋癲ふうてん老人日記』を読めば、他者を踏みたい衝動は生まれてこない。


 ほのかの反応を見て、小夜は説明を端折りすぎたと思った。小夜が嗜虐性のある人だと、勘違いされてしまったかもしれない。

 黙り込んだ小夜を救ったのは、倫太朗だった。


「立ち話はこの辺にしておこう。ほのかちゃん、ワインは冷えていたっけ。小夜ちゃんに出してあげて」

「和食にワインは合わないわ。あなたが出張で買ってきた地酒はどう?」

「分かった。そうしよう」


 晃太朗の予想は当たっていた。二人とも、久方ぶりの客人をもてなそうとしている。

 松田家へ入り浸っていたころも、二人はおやつに出すジュースで揉めていた。近所の子どもは息子より五つ以上歳が離れていたため、貴重な遊び相手の機嫌を損ねたくなかったのだろう。


「小夜ちゃんが遊びに来てくれて嬉しいわ。小百合から情報は回ってくるけど、本人に直接聞いた方が早いこともあるし」


 恐るべし、手芸仲間の情報網。ほのかに母は何を話したのか、考えたくもない。

 これから何を尋問されるのだろう。小夜はガールズトークに警戒しながら、笑みを浮かべた。


「ご馳走になります」


 促されるままにコートを脱ぎ、こたつに入り込む。こたつのない竹野内家では、得られない幸福が詰まっていた。


「遠慮せずに足を伸ばしてね。どうせ向かい側は晃くんが座るはずだから」

「さすが母上、察しがよろしいことで」


 晃太朗は小夜の隣に座ったほのかの肩を叩く。ほのかは物憂げに頬杖をついた。


「明日は早出なのよね。五時には家を出ないと。小夜ちゃん、今度来るときは前日までに教えてね。晃くんは当てにならないから。自分に都合の悪いことは、ちゃっかり忘れているし」

「身に覚えがありすぎて、何のことだかさっぱり分からないな……っだぁ!」


 笑い飛ばす晃太朗は、ほのかに耳をつねられていた。


「どさくさに紛れて、こたつに入ってこない。ご飯当番は、責任持って配膳しなさい」

「えぐえぐ。外が寒かったから、一回だけ暖を取りたかったのに」


 泣き脅しが通じないことが分かり、晃太朗はしぶしぶ立ち上がる。


「お待たせ! 可愛いお客様が来てくれたから、食器をこだわってみました!」

「倫さん、まさか開かずの扉に手をかけてしまったの?」


 菊花の形をした皿に、ほのかが信じられないと呟いた。


「どうしよう晃くん、僕は地雷に触れてしまったのかなぁ」

「もう大掃除が終わった後なんだよ。普段使わない食器は、手入れが大変だから仕舞ってんの。勝手に出しておふくろの逆鱗に触れるの、全然懲りないよな」

「えぐえぐ。ごめんよぅ、ほのかちゃん。よかれと思ったばっかりに」


 おぼんを机に置き、倫太朗はひれ伏した。


「ちっ。邪魔がいない間に小夜ちゃんと恋バナしたかったのに。小夜ちゃん、結婚相手は慎重に選んでね。結婚生活の八割は我慢比べだもの」


 小夜は胸が詰まる。自分は、朔磨の人生計画にふさわしくない子だったんだろうな。第二の母のように世話を焼き、重荷になってしまわなければ。いけない、もう過去を引きずらないと決めたのに。

 硬直した口を動かした。


「べ、勉強になります」


 変な空気にさせたわねと、ほのかは息をついた。


「晃くん、せっかく倫さんが気を利かせてくれたんだから、配膳ぐらいあんたがやりなさいよ」

「承知した。母上」


 うやうやしく食器を並べる晃太朗の所作は、手慣れているように見えた。


「見とれちゃってる? 俺のバイト先、焼き肉屋なんだ。だいぶ板についてきてるでしょ」

「うん」


 皿を受け取るときに、晃太朗の指が触れた。


「ふふふ。こたつの設定温度が高めだったかしら。倫さん、私もほてってきたから冷たいお酒ちょうだい」

「御意。ささっ、小夜ちゃんもどうぞ受け取られよ」


 晃太朗が下手に出るときに堅い言い回しになるのは、父親の影響らしい。


「ありがとうございます。倫太朗さん」


 小夜は、渡されたおちょこに口をつける。


「親父ずるい。俺はなぜか先輩呼びなのに」


 離した距離の直し方が分からないだけです。

 小夜は晃太朗の不満を聞き流し、箸を手に取る。ほのかと一緒に鯖の味噌煮を頬張った。

 赤みを帯びた栗色の煮汁は、ふっくらとした切り身に浸透していた。ちょこんと添えられた生姜も、味わう度に口の中で心地よく広がっていく。

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