第7話 幼なじみの誘い

「ラッキー、いい財布見っけ」

「松田先輩?」


 ゴミ箱から財布を拾い上げたのは、晃太朗だった。メモ紙が積み重なった上に落ちたらしい。汚れ一つない。


 小夜は晃太朗を睨みつけた。朔磨のために買ったものを、こんな男に触れさせたくない。


「返して」

「綺麗な財布を捨てようとするような悪い子には返しません」


 晃太朗は、財布を持つ手を上に掲げる。小夜が爪先立ちになっても届かない。敬語を忘れて怒鳴りかけるのを堪えた。


「新品じゃないです。中身は意外とぼろぼろなんです」

「嘘つけ。誰かに贈るために買ったんだろ」


 小夜は口を尖らせる。晃太朗の声を聞いていると、止めていたはずの涙が流れそうだった。早く退散しなければ、泣く理由をしつこく聞かれるだろう。小夜は観念し、正直に話すことにした。


「渡したかった人がいなくなったんです。買った本人の意思で捨てるんですから、問題ないですよね」

「渡したかった人って、これ?」


 晃太朗は親指を立てた。

 今どき、そのジェスチャーをするなんて。おじさんみたいだ。相手に通じなければかっこ悪すぎる。


「あっ。さては『おじさんみたい。通じなければかっこ悪すぎる』って思ったでしょ」

 

 分かっているじゃないですか。朔磨にあげようとしたことも。

 晃太朗の言葉に、小夜は頷いた。自覚があるのなら、そろそろ財布を返してほしい。大学内で処分しようとした浅はかさを悔いた。


「物を大切にしなかったことは謝ります。だから、その財布を返してくれませんか?」


 小夜は再び爪先立ちをする。

 晃太朗から取り戻した後はどこに捨てようか。駅のゴミ箱は、窃盗犯に間違われてしまうかもしれない。いっそのこと、父のクリスマスプレゼントにした方がいいだろうか。


 考え込んでいると、晃太朗は提案した。


「どうせ処分に困っているんだろ? それなら俺がもらっていいか? ちょうど買い換えようと思っていたんだ」


 小夜は財布を眺めた。自分で使うには大きすぎる。もらってくれる人がいるのなら財布にとっても幸せのはずだ。


「でも……それ、松田先輩のために選んだものじゃありませんよ」

「俺が気に入ったからいいの。お返しはするから、金のことは気にするな」


 晃太朗は、小夜の頭を撫でた。疎遠になっても、妹として大切に思ってくれるようだ。記憶にある手より、一回り大きくなっていた。甘やかな時間がずっと続いてほしい。余計な気持ちが伝わらなくていいから。


 ――好きだよ。小夜。


 かつて囁かれた言葉が呼び起こされる。目の前にいるのは元彼ではないのに、朔磨の温もりが離れない。小夜は唇を噛んだ。流されては駄目だ。このままでは晃太朗に代わりを求めてしまう。選択を誤って後悔するのは、一回きりでいい。

 小夜は晃太朗の手を引きはがした。


「子ども扱い、しないでくださいよ」

「俺にとっては子どもだ。お前が小さいときからずっと」

「幼なじみだもんね。私達」

「またうちに来いよ。おふくろが喜ぶ」


 晃太朗とは家族ぐるみの付き合いがあった。過去形で語るのは、子どものころの話だからだ。晃太朗の母ほのかは、趣味でアクセサリーやカゴバッグを作っていた。晃太朗を介して渡された。サイズの合わなくなったものは手放してしまったが、コットンパールのイヤリングだけは今も身に着けている。


 小夜は話題を逸らす。


「今日の先輩は素敵ですね。いつから革ジャンを着こなせるようになったんですか?」

「俺だって、二年ぐらいからオシャレするようになったんだぞ」


 肩をすくめる晃太朗の目は、へたくそと言っているように見えた。

 素敵だと思ったのは事実だ。黒いダブルライダースジャケットは、低身長の小夜では着られてしまう。今日はモスグリーンのパーカーを身につけているが、セーターやギンガムチェックのシャツも似合っていた。そう本人に言える訳がない。気づかれないように、いつも目で追っていたなんて。興味のないふりをして、表情に出すまいと必死だった。


「垢抜けましたね。イヤーカフなんて着けて、なんだか意外です」

「かっこいいだろ。オーダーメイドなんだ」


 余計なことを話してしまう前に、晃太朗から離れよう。でも、急いで駅に行ったとしても、電車待ちに鉢合わせる気がする。近所ならではの弊害だ。


「もう今日は帰ります。話題の化粧品をチェックして、新しい服買って。居酒屋で一人ヤケ酒してやりますよ」

「そんなことしたら悪い虫が寄ってくるだろ」


 正気だろうか。晃太朗が危惧するような、物珍しい存在がいるとは思えない。


「いいんですよ。新しい恋が見つかるなら」

「駄目だ。自分の心を大事にしろ」


 厳しく諭す様子は、頑固親父を思わせる。

 小夜は考え込んだ後で聞き返す。


「どうやって?」


 一瞬だけ、晃太朗の眉間にしわが寄った。

 困らせることを言いたくなんかないのに。


「ごめんなさい。先輩に突っかかってしまって」

「俺はいいんだ。電話でよければ愚痴に付き合うぞ」


 晃太朗の連絡先は消さずに取ってある。


「ありがたいですけど、何だか申し訳ないです」

「素直に頷いておけよ。誰にも泣き顔を見せたくないんだろ」


 小夜の視界が潤む。乱暴な言い方のはずなのに、気遣いが身に染みた。

 晃太朗は小夜を抱きしめる。


「我慢するな。俺といるときは自然体でいてくれ。敬語じゃなくて、タメ口でいいから」


 自然体なんてできる訳がない。晃太朗の前だと素を出したくない。ずっと清楚な子でいたかった。

 でも、少しだけなら、甘えても罰は当たらないよね。晃太朗に包まれている今だけは。


「松田先輩。手を握ってくれますか?」


 手袋をしているのに、何をぬかしているのか。我ながら笑ってしまう。晃太朗の好意を振り払っておいて、勝手が過ぎる。


「昔みたいに」

「分かった」


 背中に回していた手がほどかれ、小夜の右手と絡み合う。


「もう怖くないよ。小夜の不安が消えますように」


 幼子に言い聞かせるような声色は、反抗する気持ちを失わせた。この手を選ぶ勇気がほしかった。

 脳裏に他人のような声が響く。


『第二ボタン、私にくれない?』


 晃太朗が高校を卒業するとき、小夜は桜の木の下で告白していた。ラブコメのヒロインみたいに、小首を傾げながら訊いた。男はあざとさに弱い生き物だと、本で読みかじっていた。普段のギャップで落ちてくれるはずだった。


「駄目。あげられない」


 すでに渡す約束があるんだ。すまなそうな顔をされ、昨日のうちに確認するべきだったと後悔する。


「だって、義理でもらおうとしてるでしょ。傷ついちゃうな。さすがの俺も」


 違うよ。私がそんな意地悪をする子に見えるの。

 いい加減、察してよ。

 第二ボタンがあることに、どれだけ安心したと思っているの。晃太朗くんには、本命の人がいるとばかり思っていたんだから。

 第二ボタンをくださいってストレートに言えばよかったのかな。まさか態度が大きくて誤解させちゃうなんて。

 プライドだけ高くて素直になれない。

 小夜は笑顔を作った。


「あはは。冗談だって分かっちゃったか。からかってごめんね」


 早る鼓動の音は、聞こえなかった。しゃべり続けなければ涙が落ちてしまいそうだった。


「さよなら。松田先輩」


 小夜は決別のつもりで言った。告白に失敗した後は距離を置くと決めていた。近所を出歩くときは、晃太朗と顔を合わさないような道を選んだ。


 進学先は避けられなかった。合格圏内だった第一志望が落ちたからだ。

 晃太朗と同じ学科に行くのは嫌だった。違う学科ならともかく、同じ分野では廊下や図書館で遭遇する確率が高くなる。三年の辛抱だと自分に言い聞かせた。

 晃太朗が留年したのは誤算だった。


 ゼミだけは離れたかった。当初は、大正文学の晃太朗から遠いライトノベル研究を選んでいた。しかし、四年次はゼミ変更希望者が多く、今の指導教官のゼミへ飛ばされた。


 初回の講義はオリエンテーションで済ますことが多いが、指導教官は九十分まるまる使った。図書館に投げ出され、レジュメを作らされた。指導教官の指定した、短編小説に関した内容だった。数ある文学作品の中で「刺青」が目に付いたのは、文学史で見覚えがあったからだ。作家の谷崎潤一郎について調べるうちに、妻讓渡という来歴に衝撃を受けた。まじめさを捨てきれない。欲望に忠実になれない。今だってそうだ。


 晃太朗の誘いに頷きさえすれば、ぎくしゃくした関係を修復できるかもしれない。淡い期待を抱きつつも、返事をうやむやにしていた。


「今日は親がいないんです。真夜中に帰っても心配されませんから、気にしないでください。松田先輩の助言通り、繁華街じゃないところで食べて帰ります」

「それなら、うちでご飯食べて行けよ」

「急に行ったら、ほのかさんも倫太朗さんもびっくりしちゃわない?」


 足が遠のいている松田家に、お邪魔するのはためらわれる。


「むしろ逆。おふくろも親父も大歓迎だよ。昨日作った鯖の味噌煮が冷蔵庫にあるんだ。す……気に入っていただろ」


 晃太朗は好きという言葉をあえて飲み込んだ。失恋した小夜にとって、聞きたくない言葉だと分かってくれている。

 ずるい。何がずるいのかは、考えないことにした。ただ一つ確かなことがあるとすれば、頑なに拒み続けるのは潮時だということだ。


「お言葉に甘えていいですか?」


 晃太朗の顔に笑顔が広がり、握られた手に力がこもった。

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