第6話 山茶花

 安らぐ空間に、場違いな声が響く。


「もう二十一なんでね。いい加減、彼氏がほしい訳ですよ」


 甲高い声に、小夜は思わず耳を抑える。カウンターから遠いため、司書の目が行き渡りにくい。

 彼女の周りの利用者は、静かにしようと注意しないのだろうか。小夜は眉をひそめて振り返る。


 机を二つ隔てた席に、騒音の主がいた。身に纏う雰囲気は、高校で言うクラスの上位層のようだった。大げさに手を叩く盛り上げ役。原色に近い見た目は、大人しい人にとって近寄りにくさを覚える。


 一つ年上の私から言わせれば、全然枯れる年齢ではないと思うのだけど。

 彼女の声は、愚痴とは思えないほど弾んでいた。


「一回くらい汚れた人と付き合いたい。付き合った経験があるんだったら、彼女ができたときのアレコレは分かるでしょ」


 小夜はエンターキーを乱暴に叩いた。


 愛されたことを、汚れるだなんて言ってほしくない。賢者タイムに朔磨がうつ伏せになっていたのは、きっと私を抱いた罪悪感のせいじゃない。好きな人と触れ合う幸せを、噛み締めていただけだ。


「クリスマスまでに彼氏ほしい」


 雑談をしたいのならラウンジに移動してほしい。小夜は苛立ちを抑える。だが、その願いは聞き入れられなかった。


「お金とかモノじゃなくて、最高の彼氏ください」


 マジで彼氏ほしいと、熱のこもった発言を繰り返した。


 小夜も、彼女の気持ちが分かる。恋人がほしいと思っていなければ、朔磨と出会えていなかった。願いを口にすることは大切だと思う。たとえ一年にも満たない間であれ、幸せな時間を送ることができた。つかの間の平穏。望まなければ苦しさを味わわずにいられた。

 何が正解なのか分からなくなる。


「でも、みちるの交際期間長くないよね」

「それな。頑張っても二、三ヶ月。文化祭の実行委員同士とか、夏休み限定とか」


 みちると呼ばれた少女は息をついた。クリスマスまでに付き合えたとしても、短い恋で終わってしまう未来が見えているのだ。


「うちが付き合ってきた人は、同じ学校の人が多いかも。こうなったら、何が何でも学外の人との接点持ちたい。思い切ってバイトしてみようかな」


 動機が不純だ。

 小夜は、アルバイト先の親しい人を思い浮かべる。疲れ切った顔しか見ていない。気軽に愚痴を言い合える距離感を、恋愛面で近づけたいとは思わない。働く姿に見とれる理由は、恋ではなく仲間意識の方が強い。


「物語がほしい。二十一にもなって何もないのが嫌」


 物語。小夜の脳裏に、ジェラール・ジュネットのナラトロジーが思い浮かぶ。専門分野と結びつけるのは悪い癖だ。

 みちるは、人生という本の白さが恨めしいのだろう。他者に語れるほどのまとまった話になり切れていないのだ。


「バイトやって、大学行って、友達と遊んで。それだけじゃ全然足りない」


 高望みだ。十分すぎるほど幸せだ。朝陽も、みちるも。


「イベントでわいきゃいしたい。せっかく共学のとこ選んだのに。青春が中学で終わってるの、寂しくない?」


 そうだろうか。私みたいに、人生のピークが幼稚園なんて人よりは残念ではない。


「どうせ死ぬんでしょ。一回だけの人生なんでしょ。だったらやりつくしたい」


 みちるの声は弾む。未来が明るいものだと疑っていなかった。別れる辛さは、微塵も考えていないだろう。


「もう、イベント詰めてこーって感じ!」


 眩しすぎて、私語を注意する気力が消えていた。


「これでもかってくらい遊んで、社会人ツラってなりたい。でもって、社会人の恋愛ムズイわーって言いながら同僚とキャッキャしたい」


 驚くほど絶望的な語彙力だ。だが、みちるの話し方には、納得させられる力があった。小夜も、朔磨がそばにいるのなら一生頑張れると思った。支えを失ったから喪失感が強いのだ。


 小夜はポケットのハンカチに手を伸ばした。塞がったはずの傷口が広がりそうだった。


「そもそも、みちるの理想像が高すぎるんじゃない? いくらお父さんがハイスペックでも、彼氏に同じくらい求めるのはどうかと思うよ」

「単身赴任で誕生日を一緒に祝ってくれなかったんだから、子どものころからの憧れなの。それくらいわがままを言ってもいいでしょ。毎年サプライズで祝ってくれとか、無理難題を押しつけている訳じゃないんだし」


 みちる達は席を立ちそうにない。小夜は、ノートパソコンからUSBメモリを取り外した。


 人は出会いを求めている。一人の気軽さを知っていても、寄りかかれる居場所を求める。

 見上げた空には、シリウスが寂しそうにかかっていた。



 ■□■□



 鞄に振動を感じた。スマートフォンを手に取ると、画面が明るく表示されていた。


「電話?」


 発信者は朝陽だ。今夜は、彼氏とイルミネーションを見に行っていたはずだ。人混みに飲まれ、はぐれた彼氏を探すために間違えて電話してしまったのだろうか。


「もしもし。朝陽? 正吾くんと間違えてない?」

「朔磨くん、うちのバイト先の子とキスしてた」


 耳で聞いた言葉を、脳内でうまく変換することができなかった。朝陽が早口すぎて聞き取れなかったからではない。驚きと憎しみが混ざり、思考回路に異常をきたしていた。

 小夜は、乾ききった喉から声を絞り出す。


「それ、本当にさっくんだった?」

「暗くて顔は分かりにくかったけど、あのリュックとスニーカーは間違いないかな。小夜があげたでしょ? 三ヶ月記念と、半年記念に」


 答えに詰まる。こだわり抜いて選んだものが、浮気の証拠になるとは皮肉だ。別人であってほしいと祈る。


「うん。でも、量産品だから、二つぐらいアイテムがかぶるときはあると思うよ。よく似た別人じゃないの?」

「はにわと秋田犬のバッジ」


 決定打を、朝陽は穏やかな口調で教えてくれた。ショックを与えないように、配慮したつもりなのだろう。だが、次の一言は小夜を呆然とさせた。


「しかも、ホテルから出た後に」


 小夜のキス、たどたどしくて好き。

 朔磨の声が反響する。


 きみは一回汚れたかったのね。最初から別れるつもりだったんだ。自分を簡単に口説けたときは、勝利の高笑いを必死で止めていたに違いない。


 小夜は目元をこすった。手袋は濡れていない。当然だ。雫なんてこぼれるはずがないのだ。泣けば、みじめになるだけだと分かっている。あのころの自分より強くなった。頬をつつかれても、涙はまだ出そうにない。


「さよちん?」


 朝陽には心配をかけさせたくない。

 喉元に込み上げるものを、必死で堪えた。


「何でもないよ。現実が分かっただけだから」


 人生の春はあえなく過ぎる。

 花の蜜を吸いつくした蝶は、次の居場所を求めて飛び立つ。盛りを過ぎた花は、無残に散るだけだ。小夜の足元を埋め尽くす、山茶花の花びらのように。


 朝陽は焦ったように叫ぶ。


「ねぇ。どうして冷静なの?」


 分からない。自分が冷静なのか、虚勢を張っているだけなのかどうかも。

 ただ、朝陽には打ち明けていい頃合いだと感じた。もはや隠す理由はなくなっている。


「さっくんにフラれたから」

「馬鹿なの?」


 小夜は、そうだねと答えた。

 私は馬鹿だ。朔磨の嘘に気がつけないなんて。抜け毛なんて後付けの理由だ。ずっと前から、朔磨の心は離れていた。むしろ最初から繋がっていなかったと考えるべきだ。


 朝陽は首を振ったのか、返事から間が空いた。


「もしかして、勘違いしてない? 馬鹿なのは朔磨くんの方。さよちんよりいい子と、一生付き合えないよ」


 嬉しい。だけど、もう限界だった。せきとめていた流れが押し寄せ、友達に聞かせられない声になりそうだ。


「ありがとう。朝陽、また明日ね」


 電話を切る。ついでに電源も。


「嘘つき」


 小夜を守るだなんて。きみの笑顔が好きだなんて。

 ただの踏み台としか思っていなかったくせに。


 小夜は見て見ぬふりをしていた。付き合いたての朔磨と比べれば、頭を撫でる回数も、キスをする回数も減っていた。愛着が湧いて捨てられなくなるからだ。


 さっくんは、浮気なんかしないよね。かつて笑い飛ばした言葉が自分に跳ね返る。


 あのとき、朔磨がどんな顔をしていたのか思い出せない。当たり前だろと、否定していてほしかった。もしも小夜が訊いた時点で、好きな相手がいたのなら。


「嫌な質問、させちゃったのかな」


 それでも自分が選ばれるべきだ。彼女として一年近くも過ごしてきた。偽りの彼女の魅力は便利屋でしかなかったのか。だとしたら許せない。


 小夜はプレゼントを手に取った。先週の金曜日から鞄の中に入れたままだった。

 よりが戻るかもしれないと期待を持っていた。復縁を望まれても、こちらから願い下げだ。


 よれたリボンを解く。つややかな長財布に見とれることも、注ぎ込んだバイト代を惜しむこともない。店頭に飾られていたときは、あんなに美しく見えたはずなのに。


「さよなら」


 小夜はゴミ箱に近付き、恋の思い出を手放した。

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