第5話 なれそめ

 月曜日の講義を取らなかった自分はえらい。

 小夜は、布団のミノムシになっていた。昼を過ぎても食欲が湧かない。胃が固形物を受け付けなくなって、三日が経つ。呼吸をするだけで苦しい。朔磨からの連絡が来ないか期待してしまう。


 ましてや別れた翌日にアルバイトなんて憂鬱でしかなかった。お客さんに新刊の場所を案内すれば、甘酸っぱい青春の詰まった少女漫画やライトノベルを目にしてしまう。日曜は音楽を聴いてリフレッシュしようと思ったが、お気に入り曲は恋愛ものばかりで再生する気がなくなった。


 この胸の穴を、埋めてくれる人はもういない。布団のふかふか具合で紛らわせることが難しくなってきた。


「見ず知らずの人に、戻っただけなのに」


 同じ学科でも、朔磨との接点は少なかった。学内のカフェで初めて会った。それも三年生の終わりかけのときだ。


 朔磨と付き合う前、小夜は朝陽の話す愚痴がつらくなり始めていた。相談があると言われ、共感的に受け止める気持ちをすぐに用意した。しかし、話の内容は相談とは程遠かった。朝陽は不満を話しているつもりらしいが、幸せそうな雰囲気にしか感じなかった。彼氏に朝ご飯を作ってあげたいのに、自分より早く起きてしまう。今日は朝陽の作る日と宣言しても、体の痛みを心配される始末だという。憂鬱げに話すから愚痴と呼ぶのだ。自然と笑みがこぼれるのは微笑ましく、ときに不愉快になる。惚気話はよそで披露してほしい。


 テーブルからプリントが落ちる。近くに座っていた朔磨は、何も言わずに拾い上げた。


「ありがとうございます」


 朔磨は、小夜の筆跡をじっと見つめていた。


「二行目のところは『き』ではなく『ま』ですよ。紛らわしいので、僕も最初は間違えて解読していました」

「『き』じゃないんですか?」

「この字はよろずです。『万葉集』の万の字」


 朔磨は自分の席に戻り、淡い黄色の冊子を開いた。手慣れた様子でページを繰る。


「あった。この字とよく似ているでしょう? 原形がなくなるほど崩れてしまうと、初心者は判別しにくいですよね。でも、慣れてくれば『き』と間違えなくなりますよ」


 厚くない辞典には、崩し字がびっしりと並んでいた。同じ文字が時代順に整理され、変遷の過程が一目で分かる。朔磨の指摘した通り、小夜が間違えた文字は、「き」ではなかった。課題を提出する前で助かったと、安堵の息を漏らす。

 小夜は朔磨に笑いかけた。


「お気遣いありがとうございます。でも、目が慣れることはないと思います。近現代文学は崩し字を解読する必要がないので。旧字体は頭に叩き込まないと、初版の原稿が読めませんけど」

「どんなことであれ、できた方が楽しいですよ。それに」


 朔磨の瞳が輝いた。


「あなたは崩し字を解読する必要がないと言いましたが、明治時代に書かれた原稿や手紙などは崩し字が使われていますよ。たとえば、こんな風に」


 朔磨は再び自分のテーブルに戻る。色あせたリュックサックに手を入れ、クリアファイルを取り出した。チャックの隙間から、数冊の背表紙が見える。ショルダーストラップがちぎれかけているのも無理はない。


 小夜の前に広げられたプリントには、直筆原稿が印刷されていた。マス外に記された文字だけ、かろうじて解読できる。


「『文学界』?」


 北村透谷、島崎藤村、樋口一葉、上田敏らが参加した文芸雑誌だ。小説の題名らしき文字は、たけくらべ。章は十一とある。

 正太は潜りを明けて、ばあと言ひながら顏を出すに……。

 小夜は、秋雨の夜を描いた場面の原稿だと思い当たる。正の字さえも字形が曖昧に見えたが。


「こんな風に書かれていたんだ」


 小夜は吐息を漏らす。擬古典主義に分類される名作が、流れるように綴られていた。原文をそのまま読めないことがもどかしい。活字本で消されてしまう一葉の息遣いに、もっと触れたいと思った。


「悪くないでしょう。解読は」

「えぇ」


 興奮で詫びることを忘れ、素直に頷く。不要なんていう自分の認識は間違っていた。熱いものが込み上げて来る。恋人にするなら、この人だ。


 大学では、自分から告白したいと思う相手はいなかった。男子と会話することが苦手というより、自分なんかのことを愛してもらえるとは思えなかった。小夜は、昔言われた陰口を未だに思い出す。


 自分のことを名前で呼ぶなんてダサい。

 どういう立ち方しているんだよ。内股すぎて笑える。


 同じ歳の男の子は、子どもっぽくて嫌いだ。小夜の言動に揚げ足を取らない、朔磨だけが例外だった。忘れていた胸の高鳴りが、引っ込み思案を積極的にさせた。


「あの。まだ時間がありますか?」


 朔磨はまばたきをした。首が横に振られることはなかった。


「次のコマも空いているのなら、一緒に解読してほしいです」

「崩し字解読アプリみたいに精度はよくないよ」

「先生よりも、あなたに教えてもらいたいです。もちろん、あなたに無理のない範囲で」


 付き合う流れになるまで、時間はかからなかった。




 朔磨と過ごした時間の中で、一度だけ傷ついたことがある。


 事の発端は、湯吞みの図面だ。考古学の講義で作成したものを、朔磨に見せた。湯呑みは、一ヶ月記念におそろいで買ったものだった。

 弥生土器の図面と比べれば月とすっぽんだが、初めてにしては書けている部類だ。褒めてもらえると思った小夜を、朔磨は「そんなガタガタの図面は初めて見た」と爆笑した。

 お世辞でいいから褒めてもらいたかった。唇を尖らせまいと、小夜は不満を抑えた。気持ちの機微を感じ取ったのか、朔磨は謝罪を繰り返した。以来、朔磨が先に折れるようになった。

 

 いびつな線は書き直すことができる。こじれた仲も消しゴムでなかったことにしてしまいたい。不穏な空気を消していれば、ハッピーエンドまでの道のりは歪まなかった。


 布団の巣が割れ、羽化するようにパジャマを脱ぐ。

 後ろ髪を引かれるのは終わり。切り替えるのよと、自分に言い聞かせる。

 そうだ、大学図書館で自習をしよう。


 家にいることが苦しくなりつつあった。ここ一年は、一人暮らしの彼のために尽くしてきた。本棚の料理本には、ふせんがいくつも貼られている。作った料理が増えるだけ、ページはふせんで膨らんだ。苦手なものが食べられたレシピには、色ペンで線を引いた。


 手間と時間をかけるだけ、朔磨の笑顔が尊かった。直視できないほど後光が差して見えた分、別れた後は目の毒になる。

 電車に揺られる度、残像が浮かんではもみ消した。


 図書館のカウンターでノートパソコンを借りた。

 卒業論文を進めていると気が紛れる。今日で書き切ってしまおう。失恋の焦燥よりも、達成感で満たされるはずだ。

 すでに、小夜の体から力が抜けていった。ここは、音を立ててはいけないような気まずさはなく、喧騒から切り取られた上質な静寂が漂っていた。USBメモリを差し、鍵盤を優しく叩くように奏でる。


 閉館時間は二十三時までだ。好きなだけ没頭できる。邪魔者がいなければ。

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