第4話 黒髪

 温め直した料理を食べ終えるころには、終電の時間が迫っていた。

 一時間ほど意識を飛ばしたのがよくなかった。待ち望んでいたものを受け止めた刹那、いつも気を失ってしまう。朔磨は、気だるげな小夜の口元をうやうやしく拭い、コートを羽織る。


「送るよ」

「うん」


 小夜はマフラーのしわを伸ばしながら半周巻く。

 小夜も明日はアルバイトがあった。朔磨の家から行くと間に合わない。それでも泊まったらという誘いがあれば、早起きすることを選んでいた。


 朔磨が改札口までついてくるのは珍しい。いつもなら駅の看板が見えたところで別れていた。もう少しだけ朔磨と一緒にいられることに、自然と笑顔を浮かべた。

 土日を乗り越えられれば、また会えることは分かっていた。最後の階段を登りきっても、寂しさは感じなかった。


「小夜、気をつけて帰りなよ」

「じゃあね。アルバイト頑張って」


 朔磨は数歩下りた後で振り返った。


「ねぇ、小夜」


 大好き、愛してる。そんな甘い言葉を告げる前触れだった。小夜は幸せそうに目を細める。


「別れてくれないか」


 聞き間違えだ。幻聴だと思った。別れる直前に粘膜が触れ合うほど思いを確かめ合っていたのだ。愛想が尽きているのならば、自分の家に上げることはしない。小夜が料理を作っている間、朔磨は話を切り出すタイミングを計っていたというのか。そんな荒唐無稽な話を信じられるはずがない。だが、朔磨の顔は真剣だった。


「待って」


 小夜は目を覆った。驚きすぎて涙が出てこない。


 朔磨はきっと、小夜の愛情を試している。びっくりしたと笑いさえすれば、いつも通りの朔磨に戻るはずだ。自分の第六感は当たらない。当たったためしがない。

 小夜はすねた振りをした。これ以上嘘を重ねると、たちの悪いサプライズだよって怒ってやるんだから。


「急すぎるよ。今日はエイプリルフールでも何でもない日でしょ」

「ごめん」


 別れ話をすることへの謝罪なら、聞きたくない。背を向けずに、小夜の目を見てほしい。数時間前、朔磨の奥まで抱き締めていた恋人の目を。


「まだ離れたくない。最後に一回だけ抱きしめてよ。そうしたら」


 小夜は唇を固く結んだ。

 あきらめきれる、はずだから。素直で可愛い彼女のまま、視界に入らないように努力してあげるから。お願い。私のことをもう一度愛してよ。

 わがままを押し殺して、最愛の人の名を呼ぶ。


「さっくん。お願い」


 私を見て。


「さよなら」


 朔磨は振り返ることなく去って行く。さっきは名残惜しそうに振り向いてくれたのに。

 追いかけなきゃ。こんな形で終わらせたくない。だが、小夜は迷った。迷ってしまった。愛してると囁かれたとき、別れ話を持ちかけられる前と同じだけの胸の高鳴りを、感じることができるのだろうかと。心と頭が一致してくれなかった。


 動いてよ、私の足。心ではとうにむせび泣いていた涙が、改札の前で散る。


「どうしてお別れなんて言うの」


 小夜はしゃがみ込む。

 彼女に向ける言葉じゃないよ。

 発車を告げるアナウンスが遠くで響く。小夜は終電を逃した。



 ■□■□



 小夜は、バス停のベンチに座っていた。目の前でオレンジ色のドアが開く。運転席には母がいた。


「早く乗って、うっかりさん。いくら図書館が遅くまで開いているからって言っても、帰りのことも考えないと。車で二十分以上もかかるんだから、もう少し早めに連絡して。私もお酒を飲んでいたら徒歩で帰っていたのよ。きっと途方もない距離だわ」


 母のだじゃれに笑う気力はない。窓に頬をつける。

 体を重ねてから、デートの頻度に変化はなかった。会話も手繋ぎもいつも通りだ。

 

 半年前からクリスマスの計画を立てていた。朔磨のところで過ごす。初めて過ごす特別な日は、二人きりでいたかった。

 予定が決まって間もなく、小夜は家族に伝えていた。飲んでくる、ケーキもいらない。嬉々として話した自分が、今なら情けなく思える。


 さっくんと食べるはずだったケーキ、無駄になっちゃったよう。

 先月予約したばかりのチョコレートケーキは、朔磨の家から近かった。

 気づけばスマートフォンを握っていた。朔磨にメッセージを送る。


 どこが駄目だったのか教えて。既読はすぐについた。


『女として見られなくなった』


 一番見たくない返信だった。

 交際をきっかけに、服やメイクには気を遣っていた。流行は追いつけなくても、服の色を明るくすることはできる。パステルカラーを選ぶのは勇気がいるけれど、楽ちんなスウェットはデート服に適さない。マネキン買いしてでも、朔磨に釣り合う子になろうとした。

 小夜が返信する前に、再び求めていない答えが来る。


『髪の毛を落とすから、掃除が嫌になる』


 小夜はあっけにとられた。芥川龍之介の「羅生門」で、老婆の答えを聞いた下人が冷ややかな侮蔑を感じるように。


 ――この髪を抜いてな。この髪を抜いてな。かつらにしようと思うたのじゃ。


 老女のかすれた声は、気味の悪いものとして印象づける。下人と読者にとって、死人の髪を抜くことは忌むべき行動だからだ。


 小夜は自分の髪を指に絡ませる。

 信じられない。回収しなければいけないものなのか。朔磨の髪より美しいとは言えないものの、忌み嫌うものではないはずだ。


 たった一つの欠点だけで別れたくない。朔磨を説得させるために、文字を打とうとした。

 送信ボタンを押す前に、全て消去する。別れた原因を追及しすぎた結果、ブロックされるのは嫌だ。こんなときでも相手の顔を見てばかりだなんて、私も度が過ぎるお人好しのようだ。


 好きな人ができたと言われた方がよかった。


「どうしてこんなに寒いのかな」

「寒いの? 暖房はつけているのに、おかしいわね」


 決まっている。小夜の首に巻いているマフラーは、去年の冬に朔磨から贈られたものだからだ。クリーム色の生地に、水色のチェック柄が浮かぶ。どんな服にも調和する優しい色合いだった。

 しかし、父がドラム式洗濯機に入れた結果、しわしわになった上に縮んでしまった。アイロンをかけても元に戻らず、朔磨に何度も詫びた。朔磨の心が離れたのは、宝物を管理できていなかった自分の落ち度かもしれない。


 そろそろ別のことを考えたい。

 アルバムのアプリを開く。猫カフェで撮った写真があったはずだ。下へ向かう指が早くなる。


 映画館、水族館、動物園、遊園地。定番のデートスポットは全て回った。落ち着いた場所が好きな小夜のために、博物館や古本巡りにも付き合ってくれた。ほうじ茶ラテが美味しい店を一緒に調べ、時間が許す限りはしごした。


 小夜は優柔不断で、食べたいものを決めきれない。朔磨は急かさずに待っていてくれた。空腹のあまり机に突っ伏してしまうことを、小夜が不機嫌に思うことはなかった。

 朔磨は居場所そのものだった。友達に言えない悩みも、朔磨なら話せた。

 大学を卒業した後も、小夜と人生を歩んでくれる。そんな妄想を本気でしていた。


 やっぱり、ほかのことなんて考えられない。ここ一年は朔磨のことしか頭になかった。


「うっかりさん、横を見て」


 大通りが光の道になっていた。色とりどりの電球が点滅する光景に、胸が苦しくなる。朔磨と見たかった。


「イルミネーションが綺麗ね。朔磨くんと言い争いでもしたのなら、お詫びついでに行ってもいいんじゃない?」

「そうだね」


 そんな日が来るとは思えない。

 何をすれば、よかったんだろう。相槌も余計な動作に含まれるのだろうか。

 料理よりも私を食べて。そんな風におねだりできる性格ではない。雰囲気に流されるままに身を任せた。そんなツケを精算するときがきたのだ。


 こんな私と付き合ってくれて、ありがとう。学内でさっくんを見かけても、私から話しかけないようにするね。


 張り裂けそうな胸の痛みを堪え、画面に一字一字刻みつけた。

 鞄の中のプレゼントが重かった。

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