第3話 杞憂
最低だよ、あんな人。もう一人の友達が吐き捨てるように呟く。沖元さんへのひがみは止まらなかった。
「別れる度に持ち物を買い換えているみたい。財布も腕時計も、アクセサリーだって。すぐ新品になっているんだよ。どこにそんなお金があるんだか」
「新しい彼氏を捕まえるの、どう考えても早すぎだよね? というか、浮気してるとしか思えないよ。絶対黒。私には分かる」
持ち物の嗜好が変わりやすい人もいるのに。そこまで辛辣に言ってしまっていいのかな。
小夜は、二人のまっすぐな目が羨ましいと思った。
疑うことを知らない無垢な目は、残酷で哀れにも思える。文学研究でも同じことが言える。本文をただ読むだけでは、見過ごしたり誤解したりすることが起きかねない。何が語られているのかということを解明するのではなく、どのように語られているのかということについて分析することが大切なのだ。言葉通りに浮気女と捉えれば、本質を見過ごしてしまう。
彼氏を略奪しそうな人だと知っても、小夜は沖元さんの肩を持った。愛想が悪そうに見えても、人でなしとは感じなかった。タイミングが悪かっただけなのだ。
根拠もなく否定するのはどうかと思うよって、言葉にしなきゃ。自分の意見を伝えることなく、流れに抗おうとしない性格を直そうよ。高校二年生のときの過ちを、後悔しているのなら。
小夜の唇は空いたまま固まった。
「あるある。黒に見える人ほど、実は無実でしたっていうオチ。小説とかドラマでは定番だよね。現実世界じゃそうそうないって。話し合いで解決するから、推理の必要なし!」
ミルクティー色の髪が揺れた。
「よっ。隣は空いていないから、後ろに座っちゃうよ」
朝陽は元気に言った。根も葉もない噂話はおしまいだと諭すように。小夜は胸をなで下ろしたが、途切れたはずの話は続く。
「沖元さんと接触した男は、ことごとく破局してなかった? まぁ、彼氏が寝取られたと思うと、付き合い続ける理由なんてないけど」
「よほどのメンヘラ気質じゃないと無理だよ。生理的に受け付けなくなるもん。どんなに愛してるって言われても、萎えちゃうだろうし。心だけじゃなくて体も」
ろくでもない奴と、早めに縁を切ることができたのだ。むしろ、よいきっかけだと思えばいいのに。
小夜は心の中で呟いたが、口には出さなかった。赤の他人から品定めされては、相手は割り切れない。
それよりも、休み時間の講義室で話す内容ではなくなっている。体なんてと、小夜の頬が上気する。朔磨の裸は見慣れても、羞恥心は薄れない。みだらと注意する前に、同情された。
「小夜ちゃん、心配にならないの? 沖元さんは、彼氏さんと同じゼミでしょ?」
ゼミで使う講義室は広くない。机は円を描くように配置され、学生一人一人の間隔が狭くなっていた。両手を広げて笑えば、隣の人の肩に当たる。至近距離で話す分、恋愛感情が芽生えやすいと考えているのだ。
「質疑応答で会話することはあると思うの。そこは気にしていないよ」
小夜はきっぱりと言った。心配事は一つもありはしない。
講義中に惚れるほど、朔磨は浮ついていない。もう少しで、小夜と交際してから一年が経つ。朔磨の人柄を知れば知るほど、略奪される可能性はないと分かる。街やテレビで見かけた美人に、鼻を伸ばす様子は全くなかった。朔磨の目には、彼女以外映らない。小夜が有頂天になっているのではなく、事実を語っているだけだ。
「さよちんが言うなら大丈夫でしょ。この話は終わり! 朝陽の今イチオシの写真見てくれる? バイト先の新作なんだ。お花のマフィンかわじゃない? エディブルフラワー、つまり食べられる花なの」
「可愛いすぎる」
「ねー! 食べるのもったいないよ」
間髪を入れず、朝陽がスマートフォンを見せる。オレンジ色のチョコレートの上に、くるみとバーベナが載っていた。今度こそ新しい話題に変わる。
講義室のドアが開き、沖元さんが戻ってきた。小夜の前の席に戻ると文庫本を取り出す。めくられたページには茶色いシミがあった。古本が好きな子かもしれない。皮脂や食べ物によるシミは疎まれる。前の持ち主が残した跡を許せる人でなければ、購入に踏み切れない。
やはり沖元さんのことを媚びている人とは思えなかった。
小夜には、震えているように見えた。自分を見失わないために、何物にも染まらない黒色を着ている。そんな一つの可能性に思いあたった。
ふと背中に刺すような感触がした。辺りを見回せば、講義室の視線が小夜を捉えている。厳密に言えば、沖元さんに向けた怨嗟の視線だった。噂話は信憑性が低いものの、好感度がよくないことは確からしい。
自分の知らない間に、嫌われているのは悲しい。面識のない人からすれ違いざまに睨まれ、一人だけ連絡が回らないことは起きていないだろうか。容姿端麗なだけで人の妬みを買いやすいのだから、自分よりも酷い仕打ちに遭っていそうだ。手作りのお菓子に画鋲を入れられる以上の嫌がらせを。
講義中も、視界が彼女を離さなかった。
■□■□
「お邪魔します」
夕方、小夜は朔磨の部屋に来ていた。二月に実家へ戻るため、大きな家具は少なくなっている。ベッドも寝袋に置き替えられていた。片付けのために呼ばれた訳ではなさそうだ。
帰る支度をしていたときに、朔磨が小夜に話しかけた。この後は予定があるかと。
お家デートの誘いはいつでも嬉しい。ただ、今日は返事に迷った。嘘が下手で、サプライズのクリスマスプレゼントを渡したくなる。鞄の奥に隠した。
「それじゃあ、夕ご飯を作るね」
今夜の献立は、きのこのリゾットとコンソメスープだ。小夜はコンロ一台と電子レンジを駆使し、十五分でこしらえる。朔磨を台所に立たせたくない。細切りにしたピーマンをスープに入れていた。
「くすぐったいよ」
ベーコンがぽちゃんと音を立てる。
朔磨は小夜の手元を覗く。首筋に吐息が当たり、笑いが込み上げてくる。
火のそばは危ないよ。そう注意する前に、朔磨が口を開く。
「こんなに作ってどうするのさ」
「明日はアルバイトなんでしょ? 帰ってすぐ食べられるように、コンソメスープを多めに残しておいた方がいいかなって思ったの」
鍋にふたをした。玉ねぎ、にんじん、かぼちゃのほかにブロッコリーを入れたのは多すぎたのかもしれない。食費のことは心配しなくても、私が払うのに。
以前の朔磨は、金欠だから助かると喜んでいた。料理を振る舞ってきた。戸棚にはオリーブオイルやナツメグが並ぶ。
積み重ねた時間だけ、付き合ったころと心境が変わるのかもしれない。だが、それは悪いことばかりではない。
小夜は自分に言い聞かせた。神経質になる必要がどこにあるの。
「たくさん食べて」
不平不満を忘れて。願いを込めて皿に盛りつける。リゾットをすくっていた腕は、火傷したように引っ込められる。朔磨の手が触れていた。
耳に当たっていた息で、体の芯が熱い。小夜は涙でにじんだ目を向ける。
「お玉を落としちゃう」
「そのままシンクのふちを持っていて」
僕の全部を入れられただけで、小夜は立っていられなくなるもんね。甘美な囁きに顔を背けた。
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