第2話 夜と月

 哀れな被害者は、松田まつだ晃太朗こうたろうだった。周りの学生は来た道を戻り、ほかの出口へ向かおうとする。とばっちりを喰らいたくないのだ。誰だって、小言を公然の場で披露されたくはない。

 聞き耳を立てる趣味は持ち合わせていないが、出づらさから踊り場の陰に隠れた。状況を理解した朔磨も、小夜のそばで身を潜める。


「松田くん。あなたは演劇研究の講義に一回も出ていないでしょう。仮登録期間に受講を取りやめるのなら、履修登録から外してくれないと困りますよ。もう四年生なのですから、就職する前に最低限のマナーを見直しなさい。社会に出れば、あなたのことを叱ってくれる人なんていませんよ」

「ご忠告ありがとうございます。茨木いばらき先生」


 晃太朗は頭を下げる。廊下での説教に、気を悪くする素振りは見せなかった。頬を赤らめることなく、余談ですがと前置きして話し出した。


「実は単位を取っているんですよ。演劇研究。茨木先生が探しておられるのは、松屋晃汰くんの方ではありませんか? 松田晃太朗とよく似た名前ですから、混同しやすいですよね。私も色々な人に、しょちゅう間違われています。さすがに、違うサークルの飲みに誘われたときは困りましたね。私の断り方次第で、松屋くんの印象を下げてしまいますから」

「えぇっと……そうなのかも、しれないわね」


 名前間違いを指摘され、教授は気まずそうな顔をした。意のままに振舞っていた暴君でさえ、羞恥心は持ち合わせていたらしい。


「ごめんなさいね。勘違いして」

「いえいえ。一度も受講しない学生がいると心配ですよね」


 晃太朗は、にこやかに笑った。言いがかりを非難することも、怒ることもない。好青年という言葉がふさわしい。教授も毒気を抜かれて退散していった。


 小夜は拳を握りしめた。自分の幼さが嫌になる。いつまで経っても晃太朗の背中が遠い。

 階段を下りる小夜のブーツの音が、重たげに鳴った。晃太朗と視線が合い、緩むはずのない口元がほどけかけた。焦点を三角形のイヤーカフに移す。


「こんにちは。松田先輩」


 小夜が無表情で通り過ぎる中、朔磨はえしゃくをしていた。


「梅林くん。久しぶり、卒業論文の進捗はどうかな?」

「余裕とは言えないですけど、年末には終わらせます。教授に添削をお願いしたいので」

「だいぶ光が見えてきたね。この前よりも生き生きとしている」


 小夜は足を止めた。晃太朗は、朔磨が三日連続で徹夜したことを言っているようだ。卒業論文中間発表会で配る資料を、締め切り当日の朝に印刷していた。


 古典と日本近代文学。万年首席と、過年度生。ゼミも学年も違う二人が、どこで接点を持ったのか不思議に思えた。学食は小夜と一緒で、変な虫が寄りつく隙はないはずだ。講義も晃太朗とほとんど被っていない。

 ふと六月のことが頭をよぎる。そういえば朔磨と晃太朗は、同じグループで発表していた。教職科目の日本語学研究で。


 朔磨は頭を搔く。


「その節は、ご心配をおかけしました。彼女が手伝ってくれるおかげですよ。食事も論文探しも助かっています」

「さり気なく惚気話を入れてきたね。彼女持ちの特権ってことかい?」

「やだなぁ。僕、惚気話をしていました? 無意識でした」


 小夜は朔磨の袖を引っ張った。これ以上、晃太朗と同じ空間にいたくない。かつて小夜に向けていた笑顔を、彼氏に見せないでほしい。

 よどんだ感情は晃太朗に伝わらなかった。


「竹野内さん、梅林くんをよろしく。物を大事にしすぎて、貧相な見た目になりがちだけど。根はいい奴だからさ」


 聞きたくない。そんな言葉をかけないでほしい。幼なじみの恋を遠くから見守っているだなんて、心から願ってもらいたくない。

 小夜の代わりに、朔磨が頬を膨らませた。


「松田先輩! 一言余計ですよ」

「事実だろ。前のリュックは、限界が超えても使っていなかったか?」

「そうですね。見かねた彼女がプレゼントしてくれました。撥水加工で、内ポケットがたくさんあるんですよ」


 朔磨は晃太朗に、背負っていたリュックサックを見せつける。かぶせ部分は革紐で巻かれていた。


「さっくん、そろそろ時間が」

「えっ? 話しすぎた? 松田先輩、今日は失礼します。また今度お話しできると嬉しいです」


 晃太朗の返事を待たずに、小夜は背を向けた。朔磨の袖を掴んだまま階段を下りる。勢いよく駆け下りたせいで、心臓の音が耳障りだ。


「あの先輩、どうして留年したんだろうね。まじめでレポートの質が高いし、欠席しなさそうなのに」


 小夜の大学では、五回以上休むと不認定になる。課題レポートをネット記事の丸パクリにしない限り、単位を落とすことは低い。


 朔磨は不思議そうな顔をしていた。晃太朗の外面だけ見ていれば、知らないのも当然だ。光が強ければ、足元から伸びる影は長く濃い。

 

「普通の人でも、やらかしてしまうときはあるんだよ」


 小夜は自嘲するように呟いた。

 慎重に行動する人でも、失敗をすることはある。私情を優先した結果、普段なら絶対にしでかさないような過ちをしてしまう。だいたい、晃太朗は昔から人がよすぎた。都合よく利用される危険性を、小さいころから心配していたというのに。


「小夜?」


 朔磨の顔が近づき、小夜は我に返る。ぼうっとしていたことを謝る前に、唇が重なり合う。

 誰かに見られたら気まずくなっちゃうよ。そう思いはしたが、桃色の弾力を突き放せなかった。


「不安は少し消せた?」


 小夜は頬を染める。


 サプライズのせいで別の困りごとができた。接客業とはいえ、バイト中はにやけ顔を作ってはいけなかった。つい先週、レジでいちゃついていた店員を見て、意見箱にクレームを入れる客がいた。客の身なりで対応を変えることより、腹の虫が治まらない人もいるらしい。

 遊び半分で書いたものだとしても、大切な意見の一つであることには変わりなかった。思い出し笑いだけで店長に目をつけられるなんて、面倒ったらありゃしない。


「ありがとう。卒業論文の追い込みで、気分がすさんでいたみたい」


 今だけは感情を素直に出す。惚気られるのは、彼氏持ちの特権だ。


「やっぱり無理していたんだ。僕なんかのために、待たなくていいから」


 朔磨が顔を曇らせる必要はない。

 晃太朗のせいだ。昔から自分を引っ掻き回す。


 小夜は誤解を晴らさなかった。どこから話せばいいか分からない説明に、時間をかけるのは無駄だ。

 朔磨の頬に触れる。弱音を塞ぐために。



 ■□■□



 街からカボチャの装飾が消え、イルミネーションが点火される。学内でも雪だるまの明かりが増えた。

 小夜は鞄を撫でる。サンタクロースの気持ちが分かるような気がした。


「いいことでもあった?」


 鼻歌を歌う小夜が、上機嫌に見えたようだ。噂好きの友達が食いついてくる。


 大学に行く前、デパートに寄った。クリスマスまで一ヶ月もあるのに、プレゼントを買うのが待ちきれなくなった。あわてんぼうのサンタクロースとは自分のことかもしれない。


 ご自宅用ですか、プレゼントですか。

 店員とのやりとりを思い出しただけで、小夜の頬はほころんだ。すぐに包装紙とメッセージのサービスを頼んだ。ツリーの上のお星様みたいな、金色のリボンを巻いてもらった。


 購入したものは、ブラウンの長財布だった。自分用ではなく、朔磨にあげるために買った。


 この日のためにバイト代を貯めた。彼氏に喜んでもらえるか、期待と不安で手を握りしめる。

 本当なら、財布は春に新調した方がいいと分かっていた。財布が張るほど金が貯まると信じられている。だが、朔磨が持つ二つ折りのミニ財布は、エナメルが剥がれ落ちていた。クリスマスが境目だと小夜は思った。


 長財布は好みではないかもしれない。デニムの後ろポケットに入るような、カジュアルなデザインにするべきだったのではないか。急に不安が押し寄せてくる。


「小夜ちゃんの選んだものなら、朔磨くんは気に入ってくれるよ」

「そうそう。自信持ちなって。長く使えるアイテムをもらえて嬉しくない訳ないもん。愛されている証だし」


 財布を選んだ理由は、革が使い込まれていく過程をずっと見守っていきたいと願ったからだ。来年も、再来年も。何十年後も。少しだけ離れた場所で、朔磨とともに歩んでいきたい。


 朔磨も同じ気持ちだといいな。小夜は鞄を抱きしめる。


 講義室のドアを開けると、目の前に女の子がいた。短く切られた髪は少年のように見える。

 見とれた小夜が立ちすくんだため、女の子の肩がぶつかる。


「すまない。スープが飛び散っていなければよいのだけど」


 カップ麺を包み込んだ手は、青白い血管が見えるほど透き通っていた。小夜にぶつかった衝撃で、あざになっていないか心配になるくらいに。

 

「ううん。私の方こそ、前をよく見ていなくてごめんなさい」


 女の子は何も言ずに廊下へ出て行く。やっぱり怒っていたんだ。


「小夜ちゃんが、あんな奴に頭を下げることないのに」

沖元おきもとさんに気を付けた方がいいよ。今の時期は特に危ないから。横取りする噂は本当だったんだね」


 何をと、とぼける小夜に二人は顔を見合わせた。


「小夜ちゃん、鈍いよ」

「横取りといえば、人の彼氏を奪うことに決まっているじゃない」


 朔磨が奪われる。現実味は湧かなかった。あんな華奢な女の子が、朔磨を食らう光景が想像できない。

 

「小夜ちゃんは純粋すぎ。あいつは見た目通り、冬の魔女なんて呼ばれているだから」


 冬の魔女。美しくて危険な響きだ。C・S・ルイスの『ナルニア国物語』に登場する白い魔女を思い浮かべた。ナルニアを永遠の冬にさせるような邪悪さがあるとは、微塵も感じられない。


 友達の話によると、沖元さんの呼び名は彼女の服装とも関係しているらしい。児童書に登場する魔女のように、黒い服装しか着ないようだ。

 同じパーカーとスキニーパンツ姿と聞き、小夜は眉をひそめた。シャツワンピースと重ね着したり、トレンチコートを羽織ったりすれば印象が変わるのに宝の持ち腐れだ。


 磨けば輝ける素質があるはずだ。月華つきかという名前に見劣りしない気がした。


「野暮ったく見えないのが不思議」

「小夜ちゃん、感心しないでよ」


 お人好しなんだからと、友達はあからさまな溜息をついた。

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